ヤマトタケルと天武天皇

ヤマトタケル伝説は天武が作った?

目次

二人の共通点とは

ヤマトタケルと天武天皇にはいくつかの共通点があった。 草薙剣の祟りとその死、壬申の乱での進軍ルート、「武」の一字、、。ヤマトタケルの伝承は天武天皇の存在がモデルとなったのか。あるいは、天武政権が自己の正当化のために元の伝承に脚色をほどこしたのか。

タケルの死に際の彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ、伊勢斎宮の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なる。

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草薙剣を手放して死んだタケルと天武

剣を忘れたことで戦いに敗れたタケル

宝物(神)の力があったからこそ強かったタケル

ヤマトタケルは、クマソタケルやイズモタケルのような人間相手だけでなく、神を相手にしても勝利できるほど強かった。しかし、ではヤマトタケルがなぜ神を相手にできたかといえば、叔母のヤマトヒメから草薙剣などの宝物を授かり、それらが力を発揮したからだった。

草薙剣を手放したことで神に敗れたタケル

裏を返せば、宝物を手放したとき、さすがのヤマトタケルも神の力にはかなわず、死に至ってしまう。それを明確に示しているが伊吹山での説話である。 彼は東国からの帰り道、尾張で草薙剣を婚約者のミヤズヒメに預けたまま、伊吹山の神との対決に向かう。 なぜ剣を携帯していかなかったのか理由は述べられていないが、結果、ヤマトタケルは伊吹山で神の怒りによる氷雨や霧に包まれ、のちに命を落とす。

そして、天武天皇もじつはヤマトタケルによく似た死に方をしている。天武天皇といえば「記紀(古事記日本書紀)」の編纂を命じた人物だ。

ヤマトタケルの草薙剣は尾張の熱田神宮へ

ヤマトタケルが置いていった草薙剣は、もともとはスサノオがヤマタノオロチを退治したときに見つけた神剣・天叢雲剣だ。その後、ヤマトタケルの剣となり、相武国で燃える草を薙ぎ払ったことから「草薙剣」と呼ばれるようになった。ヤマトタケルの死後は尾張の熱田神宮に祀られた。

天武も死の間際に草薙剣を手放していた

取り返した草薙剣を熱田へ戻した天武

実際の記録によれば、草薙剣は38代・天智天皇が即位した天智7年(668)、新羅の沙門(出家者の総称)道行によって盗まれた。その後、草薙剣は天武の時代には取戻され、熱田神宮ではなく【宮中】に戻された。(なぜ熱田神宮ではなく宮中に剣が戻されたのかは不明) しかし、結局は、熱田神宮に返されることになる。それは、天武天皇が崩御する直前のことであった。

天武天皇は死の間際、草薙剣に祟られていた

天武天皇は朱鳥元年(686)に病魔に襲われ、このとき、草薙剣が祟っているという占いが出たことから熱田神宮に戻されていた。
結局、草薙剣を手放したあとも天武天皇は回復することなく命を落とした。これを「草薙の剣を手放したことで命を落とした」のだという見方をすることもある。
(もちろん、草薙剣によって祟られたのだから、薙剣のせいで命を落とした、とみるのが一般的だろう)

似てないようで実は似ているタケルと天武

この天武の死に方は、まさにヤマトタケルの最期を連想させる。
ヤマトタケルの死にまつわる話は、天武天皇の死を下敷きにして創作されたのではないか。さらに言えば、ヤマトタケルの生き方自体、天武天皇の功績がモデルではないのか。
ヤマトタケルは武力により全国平定の進めたというが、天武も壬申の乱という武力によって政権を統一しており、タケル同様、全国にその権勢を拡大していった。
天武政権は自己の正当化のために、ヤマトタケルの伝承に話を盛ったのではないか。

剣を手放したから死んだ、という印象操作か?

当時、天武天皇の死因は草薙剣を手放したことにある、と考えられていた。
持統天皇(天武の皇后)の腹心・藤原不比等にとってはそれは大きな幸運だった。
そこで、彼は『日本書紀』に似たような悲劇の皇子の神話を挿入したのでは、との見方がある。天武天皇の死という不比等にとっての吉事を記録に残した、というのだ。

藤原氏によって改竄がなされた『日本書記』

日本の中央集権化への改革は、もともとは蘇我氏の事業であり、実は天武天皇は最終段階でかかわったにすぎない。しかし、『日本書紀』などでは蘇我氏は改革の妨害者として描かれ、藤原氏と天智系の天皇こそが改革者ということになっている。
『日本書紀』は藤原氏のための歴史書であり、藤原氏に都合のいいように、あちこちに捏造がなされている。
天岩戸隠れの神話でもろこつに藤原氏の氏神・アメノコヤが大活躍しており、これと同様、ヤマトタケルの伝承にも藤原氏の都合がいいように改竄がなされた可能性は否定できない。

2人ともに「武」の文字が入る

藤原氏の対抗勢力も、事実を埋もれさせまいと努力した形跡がある。 その一人が淡海三船(おうみのみふね)だ。

天武の名付け親はなぜ「武」の一字を入れたのか

彼は奈良時代後期の皇族・貴族であり、『日本書紀』の歴代天皇に漢風諡号をつけた人物である。 天武天皇と名づけたのもこの三船だ。 彼は、ヤマトタケルの正体こそ天武天皇であり、藤原氏の捏造を後世に伝えるため、天武天皇に「武」の字が入った漢風諡号を贈ったのではないか。 『日本書紀』ではヤマトタケルは「日本武尊」と記される。 ちなみに三船が“武”の字を送った天皇の一人に、聖武天皇がいる。彼もまた藤原氏と戦った天皇である。

三船は反・藤原派であり、それだけに『日本書紀』に隠された藤原氏の悪意に気づいて、それに対抗したのかも知れない。


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