ヤマトタケルの祟り

ヤマトタケルの祟りを恐れた持統天皇

目次

ヤマトタケルの祟りを恐れた持統天皇

持統天皇はヤマトタケルを実在したと思っていた?

ヤマトタケルの墓の鳴動に恐れおののいた持統天皇。持統天皇天武天皇の皇后であり、つまり「記紀」を編纂した当事者の1人でもある。その当事者である持統天皇がヤマトタケルの祟りを恐れたということは、ヤマトタケルが実在した根拠となるか?仮に「記紀」におけるヤマトタケルの記述が捏造されたものであったなら、持統天皇が祟りを恐れるのは矛盾していないだろうか。それとも、捏造された時期がもっと時を遡るのだろうか。

ヤマトタケルをめぐる後世の記録

「記紀」編纂時、タケルは既に古代の人物だった

ヤマトタケルをめぐる記述は、『古事記』『日本書紀』が成立した時代にも登場する。 ヤマトタケルは12代・景行天皇の時代の人物で、クマソ討伐が【景行天皇27年】、西暦に換算すると【西暦97年】となる。 『古事記』の編纂が西暦712年であるため、「記紀」が成立した時代において、ヤマトタケルはかなり大昔の人物であったということになる。

西暦702年、タケルの墓が鳴動する

『続日本紀』の大宝2年(702)8月8日の記事によれば、ヤマトタケルの墓が鳴動したという。ヤマトタケルが架空の人物だとしても、この記述から、この時代には、ヤマトタケルの墓が定められていたことがわかる。高貴な人間の墓の鳴動が国家の大事の前兆となるという話は、平安時代くらいまで、日本にはよくみられた。

墓の鳴動に怯えたかのような持統天皇

大赦にて罪人らを許し釈放した持統

大宝2年の鳴動の後には、実際、何が起こったのか。 まず、9月23日に大赦(たいしゃ)が行われた。大赦とは、何かよいことがあったときなどに罪人を赦して釈放するものだが、このときの大赦には、特に理由がなかった。

自ら東国へ向かい減税し民を労った持統

さらに、10月10日、太政天皇(42代・持統天皇が697年に皇位を譲り、太政天皇となった)が東国行幸に出発している。その際、訪れた土地の田祖を免除したという。減税である。減税は、いつの世でも善政といえる。

高齢ながら無理して東国に行った持統の真意とは

このとき持統太政天皇は58歳。1300年前の感覚では、もう高齢者といっていいだろう。しかも、この頃の持統太政天皇は、健康に問題があった可能性が高い。この年の12月に薨去しているからだ。つまり持統太政天皇は、ムリをして東国行幸に出発したのである。その理由は何か。 これは想像であるが、墓の鳴動を前兆とする国家の大事を何とか阻止しようと、大赦と行幸を行ったのではないか。 ヤマトタケルに対して善政をアピールし、大事が起きるのを事前に防ごうとしたのかもしれない。

悲劇的に死んだ者ものほど祟りやすい

罪なくして謀略によって死へ追いやられた者

古代の日本で、祟りを成すと考えられたのは極悪な人間ではない。むしろその逆で、罪なくして謀略によって死へ追いやられた人達だった。例えば長屋王であり、菅原道真であり、崇徳上皇であった。

改革を進めたが政敵に追いやられた菅原道真

菅原道真は政治改革を進めていたが、藤原氏に疎まれて太宰府へ左遷。そこで世を去った。その後、若い皇子の薨去が続き、清涼殿への落雷で死者が出たため、これは道真の祟りだということになった。

少し経歴が似ている菅原道真とヤマトタケル

菅原道真の祟りを見ると、同じく悲劇的に死んだヤマトタケルにも、崇る動機はありそうなものだ。 「改革を進めたが政敵に追いやられた」という点で、多少の類似性もみられる。

なぜタケルが持統を祟るのか

タケルと持統に直接的な関係はないはず

しかし、なぜ4世紀(皇紀上は2世紀)に死んだヤマトタケルが、8世紀にもなって祟りを成さねばならないのか。持統太政天皇に身に覚えがあったとすれば、鳴動の前にいったい何があったのだろうか。

そもそもヤマトタケルが架空の人物であるなら、祟りなどありえるのか、という疑問もある。 当時の人たちは今よりはるかに信心深く、祟りを恐れていたものの、架空の人間の祟りまで気にしていたとは思えない。 しかし、持統太政天皇はヤマトタケルの祟りを恐れていたフシがある。

持統はタケルに“誰か”を重ねていたのか?

これらの疑問は「ヤマトタケルにはモデルがいた」と考えれば説明が付く。 「ヤマトタケル」という人は【実在しなかった】か【ヲウスノミコトに神話的飾りがついた】か【モデルがいてその人の影響を色濃く受けた】のどれかには当てはまるだろう。 仮に「ヤマトタケルにはモデルがいた」と仮定すると、持統はヤマトタケルではなく、ヤマトタケルのモデルになった人物を恐れていた、とも考えられる。持統太政天皇は、そのモデルが怒り出しそうなことがあったと認識し、だから墓の鳴動を危惧したのか。

天武天皇=ヤマトタケル説

結論からいえば、ヤマトタケルのモデルの1人として、天武天皇があげられる。 ヤマトタケルと同じく「武」の文字を名にもち、「記紀」の編纂を命じ、つまり、ヤマトタケル伝承を後世に残した張本人である。
>> ヤマトタケルのモデルは天武天皇だった説

タケルは藤原氏台頭を祟ったのか

藤原氏台頭により天皇専制は断たれる

墓の鳴動の前に何があったのか。鳴動の前年、大宝元年といえば、大宝律令が完成した年である。編纂の指揮を執っていたのは藤原不比等。藤原氏は当時、壬申の乱(672年)で敗者の側についたために没落していたが、不比等は高い能力を持統天皇(太政天皇)に認められ、抜擢された。野心家であり当然、律令を駆使して権力の座に昇っていくことを画策していた。 また、この年の9月に首皇子(のちの45代・聖武天皇)が誕生している。父親は42代・文武天皇。母親は不比等の娘・宮子である。

天皇家に食らいつき権力を得た藤原氏

不比等は宮子を文武天皇の夫人とし、産まれた皇子を天皇にしようと考えていた。そうすれば不比等は天皇の外祖父となり、自分やその子孫、つまり藤原氏の地位は盤石となるのだ。つまり、首皇子の誕生は、藤原氏が一強体制を築くスタートラインに立った年だったのである。ちなみに以後、藤原氏は陰に陽に日本を支配し、その影響は太平洋戦争の敗戦後、藤原北家の血を引いた近衛文麿元首相まで続いた。

ヤマトタケルは藤原氏台頭に怒ったのか?

ヤマトタケルの墓の鳴動は藤原氏の台頭への怒りではないか、と持続太政天皇は恐れた。という説である。 もちろん「ヤマトタケル像が創り出された」「それを持統も知っていた」ことが前提となる説であり、立証は不可能である。 しかし、【藤原氏の台頭】は【天皇権力の陰りの象徴】でもあり、天皇の祖の1人であるヤマトタケルがそれを祟ったとしても、まあ、そこまでの矛盾もないのではないか。


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