藤原氏

藤原氏〜中臣鎌足を祖とする

藤原氏は奈良・平安時代に栄華を極めた高級貴族で、38代天智天皇から賜った姓。中臣(藤原)鎌足を祖とする神別氏族で、天皇家の外戚として揺るぎない地位を築き、多くの公家が輩出する。1200年以上もの間、朝廷の中枢を担った。大和国高市郡藤原が由来。

目次

天皇家の外戚として地位を築く

豪族が貴族(公家)となり、中臣氏(藤原)が大躍進

8世紀に入ると天皇を中心とした律令国家が誕生し、中央豪族は朝廷に仕える貴族へと変貌する。
多くの名門豪族が没落するなか、藤原氏は天皇家の外戚という地位を得て繁栄を遂げた。
平安時代には摂政や関白の地位を独占し、長期にわたって朝政の一大勢力であり続けた。

中臣氏が藤原氏に改姓

中臣鎌足が天智天皇(中大兄)より藤原姓を賜る

藤原氏は、中臣鎌足が臨終に際して38代天智天皇(中大兄皇子)から賜った姓である。
鎌足の出身地である大和国高市郡藤原が、氏名の由来とされる。
有史においては源氏・平氏・橘氏と並び、「源平藤橘」と称されている。

蘇我氏の地位を受け継ぎ、不比等の家系のみが藤原氏を名乗る

鎌足の子・不比等は蘇我連子の娘・娼子を妻に迎え、新興氏族でありながら蘇我氏の地位を受け継ぐ立場となった。
当初は中臣氏の者たちも藤原姓を称していたが、不比等が台頭すると、彼の家系以外は中臣姓に戻された。
これにより藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制が整えられた。

日本書紀で歴史を改竄した藤原氏

藤原不比等によって改新の詔の内容が改竄

41代持統天皇の下で出世した不比等は大宝律令や『日本書紀』の編纂に携わったが、不比等によって『日本書紀』の内容が改竄されたことが指摘されている。
乙巳の変後の改新の詔には、「土地や人民の私有を禁じる公地公民制の導入」「首都の仕組みをつくる」「戸籍の作成」「新しい租税制度の制定」が示されたが、昭和42年(1967)に発見された木簡の解析により、内容の改竄があったことが明らかになった。
改新の詔には「郡」という行政区画の単位が出てくるが、これが使われるようになったのは、701年以降であることがわかったからだ。改新の詔は701年以降、不比等の時代に書き換えられたものと考えられる。

乙巳の変における中臣(藤原)の働きを脚色したか

中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変において、単なる刺客役にすぎなかったと近年では考えられているが、乙巳の変における鎌足の活躍についても不比等が手を加えた可能性がある。
『日本書紀』の編纂当時、理想の天皇とされたのが、天智天皇の血統と藤原氏の血脈だった。 この両方を備えていたのが42代文武天皇と、藤原不比等の娘・宮子との子である首皇子(45代聖武天皇)だった。
そして、天智天皇と藤原氏が結びついた記念碑的な事件が乙巳の変だったのである。

天皇家の外戚として地位を築く

何代にも渡り、藤原氏の娘が天皇の后に

養老4年(720)に不比等が亡くなると、皇族の長屋王が左大臣に就任する。
不比等の4人の子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王の下に甘んじたが、神亀6年(729)の政変で長屋王は自害に追い込まれ、4兄弟が政治の主導権を握った。
4兄弟は、妹で聖武天皇の妃である光明子を初の皇族以外の皇后に据え、これ以降、天皇の后妃のほとんどが藤原氏の娘となった。

長屋王を討った4兄弟が全員病死、藤原氏は冬の時代へ

藤原氏は武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家に分かれ、藤原四家の祖となった。
天平3年(731)には4兄弟全員が太政官に昇るという、以前では考えられないような事態が起きた。
しかし、天平9年(737)に起きた天然痘の大流行で4兄弟は全員死亡。
その後は南家の仲麻呂が台頭するまで、藤原氏は冬の時代が続く。

藤原仲麻呂の暗躍

皇子を暗殺したか、立太子にも関与の可能性

とはいえ、仲麻呂も権力を掌握するため、さまざまな暗躍をしていた。
天平16年(744)には聖武天皇の第2皇子である安積親王が急逝したが、あまりに唐突な最期なので、仲麻呂が毒殺したという説もある。
第1皇子の基親王はすでに亡く安積親王が唯一の聖武天皇の男子だった。
通常ならば安積親王が皇位を継ぐ立場だったが、光明皇后の子である阿倍内親王(後の46代孝謙天皇)が前例のない女性皇太子となった。
この立太子にも、背後に藤原氏の思惑があったとみられる。

仲麻呂が藤原氏から独立

天平勝宝9年(757)、皇太子の道祖王が廃された。仲麻呂と親しい大炊王が立太子され、翌年に47代淳仁天皇として即位し、仲麻呂が政治を動かすようになった。
名を「恵美押勝」に改め、彼の子女たちも「藤原恵美朝臣」と称した。
これは、仲麻呂の家が藤原氏から独立したことを意味する。
しかしその後、藤原仲麻呂は敗死することとなるも、藤原氏の権勢は衰えなかった。

藤原氏は近代まで政治の中枢に君臨

仲麻呂が孝謙上皇との政争に敗れ滅亡

天平宝字4年(760)、仲麻呂は臣下で初めて太師(太政大臣)に任じられ、専制権力を振るったが、道鏡を味方につけた孝謙上皇と対立。
天平宝字8年(764)、戦いに敗れて一族と共に滅びた。

平安、鎌倉、室町、江戸、明治、昭和と永く存続した藤原氏

これで藤原氏の権勢が衰えるかと思いきや、式家の藤原良継や百川、北家の藤原永手が持ちこたえた。
平安時代に入ると北家のみが栄え、他氏を排斥して摂関政治を始めた。
北家は、平安時代末期には五摂家に分かれ、近代に至るまで公家の最高家格を独占した。


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