大友皇子/弘文天皇

大友皇子〜天皇位を武力で奪われた

目次

明治期に「弘文天皇」とされた

本当に天皇(大王)に即位したかは不明

天智天皇の子で、その後継者として近江朝の君主となった大友皇子(弘文天皇)。
しかし、壬申の乱大海人皇子(天武天皇)に敗れ、自害に追い込まれた。武力によって天皇位は奪われた。
弘文天皇諡号は明治3年の贈られたが、実際に天皇(大王)に即位したかは不明。

天智天皇の子、天武天皇の甥

中臣鎌足の娘を妃にしたとの記録あり

大友皇子は大化4年(648)、天智天皇(中大兄皇子)の第1皇子として生まれた。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)で、諱は「大友」または「伊賀」。妻は、叔父にあたる大海人皇子(天武天皇)の第1皇女・十市(とおち)皇女で、天智8年(669)頃に葛野(かどの)王をもうけた。
持統朝では河瑠(軽)皇子(のちの文武天皇)の立太子を進言し、持統天皇から称賛されている。
また、中臣鎌足の娘・耳面刀自(みみもとじ)も妃だったとされるが、『日本書紀』には記述がない。『懐風藻』には、「鎌足の娘」が大友皇子の妃になったという記述がある。

はじめ、叔父の【大海人】が皇太子となったが…

天智7年(668)に天智天皇が近江大津宮で即位すると、天智の弟(大友の叔父)の【大海人皇子】が皇太子に立てられた。
混乱が続いていたのか、朝廷を構成する人事は明確でない。
翌8年10月、天智がもっとも頼りにしていた中臣鎌足が亡くなる。

24歳で太政大臣となり、大海人と不和に

側近を【蘇我系】で固めた大友皇子

天智10年(671)春正月、大友皇子が24歳で太政大臣に任じられた。 左大臣に蘇我赤兄(あかえ)、右大臣に中臣金(かね)、御史大夫(ぎょしたいふ:のちの大納言)に蘇我果安(はたやす)、巨勢人(こせのひと)、紀大人(きのうし)が任じられたが、大友と中臣金以外は「蘇我系」の人物だった。

天智政権の失政により、蘇我系を起用せざるを得ず

乙巳の変蘇我入鹿を暗殺した天智天皇にとって、蘇我氏は相容れない間柄だった。 しかし、先代の斉明天皇の土木工事や白村江の敗戦、唐突な近江遷都などが失政とみなされ、天智天皇は民衆の反発を買っていた。 そこで、蘇我系の豪族を懐柔することで政権の維持をはかったようだ。

大海人(叔父)が大友(甥)の台頭を危険視する

大友皇子が太政大臣に任じられたことで、天智天皇と大海人皇子の間には不穏な空気が流れ始めた。すでに中臣鎌足が亡くなった頃から法隆寺の火災、ヤマトの盆地に残った反体制派の小競り合いなどが起き、近江朝を取り巻く環境は悪くなるばかりであった。

大海人「政治は大友に任せます」

天智は大海人に「皇位を継げ」と告げたとされるが…

こうした中で、天智天皇が病に臥せった。天智10年(671)9月のことであった。 つづく10月17日、天智は蘇我安麻呂(やすまろ)を遣わして大海人皇子を呼び寄せた。このとき、安麻呂は大海人に向かって、「言葉に気をつけられますように」と忠告した。天智は大海人皇子に皇位を継承させようとしたが、安麻呂の忠告を受けた大海人は承諾しなかった。それどころか、「政治のことは大友皇子に行わせてください」と言い、出家して吉野に隠棲した。

これは予想外の出来事だったようで、ある者は「虎に羽根をつけて放ったようなものだ」と嘆いたという。

二枚舌だった近江朝の群臣たち

大友と大海人を秤にかけていた群臣ら

大海人皇子が近江大津宮を去った後、大友皇子は左大臣・蘇我赤兄や右大臣・中臣金、御史大夫たちを内裏西殿の織物の仏像の前に集めた。
そして、手に香鑪を持って立ち上がり、「6人が心を同じくして、天皇の詔を受け賜ります。この誓約を破れば、必ず天罰を受けましょう」と誓約した。
続いて、左大臣の蘇我赤兄が立ち上がり、手に香鑪を持って涙ながらに誓約した。
「我ら5人、殿下(大友皇子)に従い、天皇の詔を受け賜ります。もし誓約を違えば、四天王と天神地祇は罰を下すでしょう。須弥山にいらっしゃる三十三天よ。この誓いを破れば、まさに子孫は絶え、家門が滅びること、ご承知ください」
まさに忠臣というべき誓いの言葉だが、蘇我赤兄や果安、中臣金は大海人皇子が吉野に隠棲するとき、大海人皇子を菟道(うじ:現在の宇治)まで見送っている。彼らは保険をかけて、大海人皇子にも良い顔をしていたのだ。

平安以降の史書に大友即位が記される

明治期に正式に天皇とされたのも無根拠ではない

天智天皇は12月3日に崩御し、大友皇子が近江朝の君主となった。
『日本書紀』には大友の立太子・即位に関する記述がなく、歴代天皇とはみなされていなかった。
しかし、平安時代以降の史料には皇子の即位を記したものもあり、明治3年(1870)に「弘文天皇」の諡号が贈られた。

壬申の乱〜大海人との決戦

唐使カク・ムソウの離日から事態が動く

しばらくは平穏な日々が続くが、九州の筑紫に滞在していた唐使のカク・ムソウが離日すると、事態は激変する。(カク・ムソウは白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3〜4回、倭国(日本)を訪問している)

大海人の軍に恐れおののく大友・近江朝

天武元年(672)6月24日、大海人皇子は吉野を脱出し、東国で兵を集めた。このとき、大海人陣営は「近江朝は陵墓造営と称して人夫を集めているが、実際は吉野を攻めるための徴兵である」と触れ回り、自分たちの挙兵の正当性をアピールした。
裸一貫で挙兵した大海人皇子と朝廷の正規軍を抱える近江朝では、後者の方が圧倒的に有利なようにみえる。しかし、大海人は東国の実力者である尾張氏を味方につけ、たちまち大軍に膨れ上がった。
これに対し、大友皇子を守るはずの近江朝の群臣は恐れおののき、東国に逃れようとする者までいた。

乱に敗れ悲しい最期を迎える

各地の勢力は、大友より大海人に味方してしまう

大友皇子は群臣と協議し、東国や吉備、筑紫から兵を集めることになった。しかし、東国はすでに大海人皇子側の手に落ち、吉備と筑紫では現地の総領が出兵を拒んだ。
それでも近い諸国から兵を集め、主力部隊が美濃の不破に向けて進軍した。

決戦前に大友軍の総大将が殺害、軍は分裂してしまう

ところが、決戦の直前に近江軍の総大将・山部王(やまべのおおきみ)が蘇我果安と巨勢人に殺されるという事件が起きる。
また、その後、蘇我氏同族の来目塩籠(くめのしおこ)が大海人皇子側につこうとして殺されるなど、天智天皇が重用した蘇我系豪族によって近江軍はかき乱され、空中分解してしまった。

瀬田橋での戦いに敗れた大友皇子が自害する

大海人皇子軍は勝利を重ね、7月22日、瀬田橋で最後の決戦が行われた。
戦いに敗れた大友皇子は山前(やまさき:大津宮近くか。瀬田橋南方の石山寺に終焉地の伝承が残る)に逃れ、翌23日に自害した。
大友に最後まで付き従ったのは、物部麻呂ほか数人の舎人だけであった。

大友皇子は、天智天皇は乙巳の変以来、第一人者として朝政をけん引した。しかし、やり方が性急すぎたがゆえに、多くの敵を作った。それが近江朝の敗因であった。


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