日米交渉の決裂

日米交渉の決裂と開戦

1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻でいよいよ平和は崩壊し、ヨーロッパで第2次世界大戦の幕が上がる。 前年1938年9月27日に日独伊三国同盟を締結し対英米戦を覚悟した日本は、その残された対英米戦回避の可能性を少しずつ潰してゆく。 日米関係は急速に悪化、米国は最後通牒として「ハル・ノート」を日本に突き付ける。 日本には最善の手などは残されてはいなかった。

目次

日米開戦までの年表

西暦出来事
1931年(昭和6) 9月 柳条湖事件、満洲事変勃発
1932年(昭和7) 3月 ナチスがドイツの第一党に
1933年(昭和8) 1月 ヒトラーがドイツの首相に就任
3月 日本が国際連盟を脱退、ルーズベルトが米大統領に就任
10月 ドイツが国際連盟を脱退
1934年(昭和9) 1月 ドイツ・ポーランド不可侵条約締結
3月 満洲国にて帝政開始。溥儀が皇帝となる
1935年(昭和10) 3月 ドイツが再軍備を宣言
1936年(昭和11) 11月 日独防共協定を締結
12月 西安事件発生。国共合作体制へ
1937年(昭和12) 7月 盧溝橋事件勃発。日中戦争が始まる
8月 第2次上海事件勃発
11月 日独伊防共協定締結
12月 イタリアが国際連盟を脱退する
1938年(昭和13) 3月 ドイツがオーストリアを併合
1939年(昭和14) 5月 独伊軍事同盟締結、ノモンハン事件勃発、独ソ不可侵条約締結
9月 ドイツがポーランドに侵攻開始→第2次世界大戦勃発
1940年(昭和15) 6月 パリ陥落。フランスがドイツに降伏する、イタリアが英仏に宣戦布告
9月 日本が北部仏印に進駐する、アメリカが屑鉄の対日輸出を禁止する、日独伊三国同盟締結
1941年(昭和16) 4月 日ソ中立条約締結、日米交渉を開始する
6月 ドイツがソ連に宣戦布告。独ソ戦開戦
7月 日本が南部仏印に進駐する
11月 アメリカが日本に「ハル・ノート」提示
12月 日本が真珠湾を攻撃、開戦

日独伊三国同盟〜合理性に欠けた選択

松岡洋右〜親米家ゆえの対米劣等感

松岡洋右は、幼い頃の貧しい生活から一旗揚げようと、アメリカに留学する。 しかし、アメリカでの生活は苦しく、使用人として働きながら学校へ通った。また、英語能力が不足していたことで人種差別の被害にあった。 この頃の体験から、アメリカ人に対する劣等感と、その裏返しとして実力以上の武力による対抗意識を燃やしていた。

松岡は外交官として中国勤務を希望

明治35年(1902)に帰国後、外交官試験にようやく合格した松岡は、英語が苦手なため中国勤務を希望。その後、後藤新平、寺内正毅、近衛文麿などの大物に取り入り、政財界のホープとして注目され始めた。

国連演説で日本を「キリスト」に例える失態

松岡最大の失敗は、留学生時代の対米コンプレックスの裏返しとして対英米強硬路線の主張と、満洲事変を正当化する1932年の国連演説だった。
松岡はたどたどしい英語で日本を「十字架上のイエス・キリスト」になぞらえるという致命的な失敗を犯す。
キリスト教国から大バッシングを受けた松岡は、国連脱退というさらに失敗を塗り重ねた。

日本に手を差し伸べていた英国

日独伊同盟にソ連を加えようとし失敗

昭和14年(1939)のノモンハン事件では、日本陸軍は近代化したソ連軍の強さを見せつけられ大敗した。
外務大臣になっていた松岡は、かねての持論だったドイツ、イタリアと手を組んでの日独伊三国同盟に、その強さを知ったソ連を加えた「日独伊ソ四国同盟」で英米仏と対抗しようと、昭和16年3月の欧州訪問で画策した。

助け舟を出した英国、最悪の対応をとる日本

しかし、ソ連がドイツに領土割譲を要求したことで、独ソ関係は悪化し、四国同盟は成立しなかった。
英国首相のチャーチルは、松岡に「独ソ開戦は近い」と異例の親書を送ったが、松岡はこれを無視し、帰国途中の4月にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約をまとめて帰国した。

英国の助言どおり独ソ開戦、立つ瀬が無くなる日本

昭和14年(1939)6月、チャーチルの親書通り独ソ開戦し、松岡は大恥をかいた。
ここで、日独伊三国同盟と日ソ中立条約を破棄すれば、対英米戦回避の道はまだあった。

日本の仏印進駐、英米が禁輸措置に

中国との戦争を優先し、さらに英米と対立を深める

日本は、泥沼に陥った日中戦争の戦況打破のため、蒋介石率いる中国軍への英米からの援助ルートを遮断しようと、北部仏印(現在の北部ベトナム、ラオス、カンボジア)へ進駐する。
しかし、これに米英が怒って日本への資源の輸出禁止にふみきった。

日本が南部仏印に進出、米国が対日石油禁輸

資源が欲しい日本は、今度は東南アジアの資源を求めて南部仏印に進出。
さらに怒った米国は、国交断絶も視野に入れた対日石油禁輸をする。
南部仏印進駐とインドシナ半島全域に日本軍が進出したことにより、日米間の関係は後戻りできないところまで悪化した。

ドイツの一時の快進撃に日本も便乗(1941)

英米ソを敵に回した無謀なドイツ、それを追従する日本

昭和16年(1941)6月22日未明、ドイツ軍は突如大兵力をソ連領に侵攻させた。
これは独ソ不可侵条約に違反するばかりか、まったくの無謀な開戦だった。
当時ドイツはイギリスと交戦中であり、非交戦国とはいえイギリスを支援しているアメリカとの開戦も近いというのに、大国ソ連と戦火を交える二方面作戦を開始するのは、軍事的な常識では考えられなかった。

ヒトラーの民族主義にもとづく無謀な戦争

そのような常識的な戦況判断を越えたヒトラーの信念は、共産主義とは相容れない思想を持ち、またソ連の人々を劣等民族として軽蔑していたことから生まれたともいわれる。
いずれにせよこの決断は、第2次世界大戦の行方を決する方向転換であった。

独ソ戦の緒戦はドイツがソ連を圧倒していた

戦況は、油断していたソ連軍をドイツ機甲部隊が蹴散らして進軍、緒戦はドイツ軍の一方的勝利が続く。
ドイツ北方軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲し、中央軍はウクライナ方面を制圧後、モスクワまで1キロにまで迫った。

ドイツの勝利を確信し、戻れない道を突き進む日本

この戦況報告が外電で入るたびに、三国同盟の立役である松岡洋右は、新聞やラジオで、日本とドイツが世界の中心となっていくだろうと、声高に話していた。

欧州戦線〜ドイツが占領地を獲得(1939)

独ソ戦前から既に始まっていた第二次世界大戦

独ソ戦は1941年6月22日に始まったが、第2次大戦勃発は昭和14年(1939)年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻により既に始まっていた。

ドイツ軍が得意とした「電撃戦」

ポーランド侵攻で見せた、ドイツ軍の「電撃戦」は、次のような作戦行動で進撃した。
まず、戦爆協同飛行部隊による猛烈な爆撃、地上への機銃掃射を敵陣地・基地へあびせる。敵の防御火力をかなり減じたところで、戦車、装甲車などから編成される機甲化部隊に縦深突撃、つまり敵陣深くまで攻め込ませる。
その後、敵の側面と背後に戦力を展開して包囲し、圧倒的砲火力と航空攻撃により敵陣を粉砕したのだ。

非常に強かったドイツ軍、次々と隣国を占領していく

このように機械化された戦闘部隊が持つ高い機動力を駆使しながら、戦いの主導権を最初から最後まで掌握してそれを活用することが、電撃戦の本質的な要素だった。
歩兵、砲兵主体のそれまでの陸軍兵力では、敵と戦いながらの進軍は、最大でも1日あたり5キロ未満だったが、ドイツ軍電撃戦は、1日で30キロ以上踏破することも珍しくなかった。
3ヵ月後、ドイツ軍はポーランドのほぼ西部全域を占領していた。

ソ連もドイツと同時にポーランドへ侵攻

じつは枢軸側に協力していた自称連合側のソ連

ドイツ電撃戦とほぼ同時の9月17日には、ソ連もポーランドに侵攻して東半分を制圧し、さらにフィンランド・バルト三国などを併合した。

英仏がソ連を敵視、ソ連を国連から追放

イギリス・フランスは同盟関係にあるポーランドにドイツが侵攻したことからドイツに宣戦布告したが、すぐに援軍を派遣することなく、西ヨーロッパでは「奇妙な戦争」などといわれるにらみ合いが続いた。
同年12月には国際連盟はソ連=フィンランド戦争を理由に、ソ連を除名処分にした。
この段階ではイギリス・フランスはドイツだけでなくソ連の動きを強く警戒していたと思われる。

ドイツがパリ(フランス)まで占領(1940)

オランダ、ベルギー、フランス

1939年秋にポーランドに侵攻したドイツ軍は、翌1940年5月10日、ドイツ西方オランダ・ベルギーからフランスへ怒涛の電撃戦をしかけた。

ドイツを追従しイタリアもフランスへ侵攻

予測外のこの侵攻に、イギリス軍はダンケルク撤退を余儀なくされ、わずか1ヵ月後の6月14日に首都パリが陥落し、フランス第三共和政は崩壊した。
イタリアはこの情勢を見て6月10日に参戦し、フランス国境に進攻し、国境地帯を占領する。

アフリカ北部へ広がる戦線

アフリカで英と独伊が衝突、英軍が劣勢に

ヒトラーが欧州戦線で連戦連勝していた頃、エジプトからアフリカ北部一帯ではイタリア軍が大軍でエジプトに侵攻、駐屯していた英軍を敗退させた。
ところが旧式装備のイタリア軍は、英軍が近代的機甲化部隊を投入してくると、一転、敗退を続ける。 1941年、ヒトラーは「砂漠のキツネ」ことロンメル将軍に、ドイツ機甲化部隊を任せて、再びイギリス軍を叩きのめし戦況を一変させた。

独ソ戦開始も、ドイツはモスクワに到達できず

同1941年6月、ヒトラーはソ連に侵攻。
モスクワ、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を包囲したが、冬将軍の到来で戦線は膠着化、ドイツ軍は苦戦を強いられる。

太平洋戦争開戦〜独伊を追従した日本

独伊の快進撃に勇み足になってしまう

ドイツ・イタリアの圧倒的勝利を見た極東の日本陸海軍は、中国の対ソ恒久基地化、東南アジアからの軍需物資獲得を目指し、「大東亜共栄圏」という大義名分のもと、英米仏蘭などからアジア植民地解放を求めて、開戦へ踏みきろうとしていた。
やがて、アメリカの参戦によりドイツとイタリアの快進撃は止まり枢軸国軍は劣勢になるのだが、この段階では日本にはその流れを読む事は不可能だった。

米国の最後通牒「ハル・ノート」が日本の退路を断つ

その流れに反対する政治家軍人もいたが、その望みは叶わなかった。
昭和16年(1941)11月、太平洋戦争直前の日米交渉の際に米国国務長官コーデル・ハルが提示した覚書、いわゆる「ハル・ノート」は、日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石政権以外の政権の承諾拒否などを内容とするもので、事実上の最後通牒とみなされ、日本に開戦を決意させた。

日米首脳会談に一縷の望みを賭けるも失敗

最後の望みとして、豊田貞次郎外務大臣は、野村吉三郎駐米大使に対し、近衛文麿首相とルーズベルト米大統領との会談をアメリカ側に提案するよう訓令する。
日米関係の悪化を受け、豊田外相は両国首脳の直接会談が事態打開の鍵になると考え始めていたが、すべては「ハル・ノート」により無に帰した。
そして、昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃、太平洋戦争へと突入する。

ハル・ノートの内容(一部抜粋)

  1. 英・中・日・蘭・ソ・泰・米の間で多辺的不可侵条約を結ぶ
  2. 仏印の領土主権を尊重し、それを害する脅威があった場合は適当な対処・処置を講じるために協議する。また、各国政府は仏印との貿易及び通商において平等の待遇を確保する
  3. 日本が中国と仏印から軍を撤退させる
  4. 日米両国は中華民国国民政府以外のいかなる政府・政権も支持しない
  5. 日米両国は英または諸国の中国大陸における海外疎開と権益、1901年の議定書による諸権利を含む中国の治外法権放棄に関して、諸国の合意を得るために努力する
  6. 日米間の通商協定締結のために協議する
  7. 日米それぞれの国にあるお互いの国の資産凍結を解除する
  8. 円とドルの為替レートを安定させる
  9. 日独伊三国同盟の空文化
  10. この協定に規定する政治的・経済的原則を遵守し実現するよう努める

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