ヒンデンブルク大統領の首相指名によりアドルフ・ヒトラー内閣が発足。ナチ党は選挙演説教育に力をいれ議席を増やした。暴力とプロパガンダを駆使し、党内の反乱分子を粛清して大統領権限など全権を掌握。ナチス独裁政権誕生の道のりをまとめる。
1925年4月の大統領選挙で、77歳のの高齢ながら保守派・帝制派の陸軍元帥ヒンデンブルクが大統領に当選した。
共和制以前の感覚をもった軍人が、当時世界で最も民主主義的と評されたヴァイマル憲法に形の上では忠誠を誓い共和国の頂点に立ったのである。
この2カ月前、反共和国一揆挫折後に禁止されていたナチ党の再建は、釈放されたヒトラーにより「ビュルガーブロイケラー※」を起点に開始されていた。※ミュンヘンにあった大きなビアホールのこと
だが、彼の演説は当局の警戒にひっかかり、1928年まで禁止されてしまう。
一揆前、5万5000人に膨らんでいたナチ党の党員数は、1929年春には12万人をこえた。
その間、党演説修練学校を開校して、演説家の組織的育成に取り組んだ。
これにより、他の政党ではみられない膨大な数の選挙集会開催を、ナチ党はこなせるようになっていた。
その影響もあり、1930年9月の国会選挙では議席を9倍(得票率18.3%、107議席)にして、第2党へと大躍進する。
この、ヒトラーの合法戦術は、ナチ党の国民政党化と議会制民主主義の骨抜き化に寄与した。
他方、議会多数派の支持がなくても、ヒンデンブルクの職権にもとづく内閣(大統領内閣)が同年春のブリューニングの組閣以後も、パーペン内閣、シュライヒャー内閣と交代しながら2年以上存続しえた。
それは、大統領の特権たる緊急令が用いられたからであった。当時の大統領には国民の基本権(一部)を停止させたり、軍を用いて実行させる権限が与えられていた。
1925年4月に、オーストリア市民権の抹消手続きを行って以降、無国籍状態だったヒトラーは大統領選を前にしてドイツ国籍を取得。1932年3〜4月の大統領選に出馬すると、ヒンデンブルクに破れはしたが、30%の得票率を得た。
同年7月末の選挙でさらに議席を230(得票率37.3%)へと倍増させたナチ党は、ヴァイマル共和国期を通じはじめて第2党に滑り落ちた社民党を大きく引き離し、第1党に躍り出た。
だが8月の政権交渉でいきなり首相職を要求したヒトラーはヒンデンブルクの不興を買い、交渉は不首尾に終わってしまう。
同年11月の選挙で、経済恐慌以来一貫して勝利し続けたナチ党は初めて大敗し、34議席失った(196議席、得票率33.1%)。共産党は12議席増やし100議席(16.9%)の大台に乗せた。
パーペンを追い落としシュライヒャー将軍が首相職を獲得した12月3日、テューリンゲン州市町村議会選挙でナチ党は4ヵ月前の同州議会選挙よりも4割方票を減らす。
ミュンヘンの政治警察は、ナチ党解体の兆候として特に突撃隊隊員の間に不穏な空気が流れ始めていると伝えていた。
支持者離れ、士気低下、党員数減少による党退勢傾向は覆い難く、合法戦術への疑念は強まっていた。
恐慌はすでに底を打ち徐々に景気は上向きつつあったが、権威主義的エリートの圧倒的な支配層には、議会制民主主義を復活させるつもりは毛頭なかった。
景気回復の恵みを労働者たちにゆきわたらせることで過激化を防ごうとする努力は一切見られなかった。
あくまで労働者階級への譲歩を拒み、より安定的な抑圧体制への移行にしか関心がなかった。
「全てか無か」と首相の地位をとことん要求するヒトラーと、シュライヒャーへの復讐に血眼でその引きずり落としをはかるパーペンの間で、1933年1月秘密会談が実現する。
これをアレンジした財界主流派は企業向けパーペン経済緊急令の廃止に動いたシュライヒャー政権に不満・不安を強めていた。
やがて、権威主義的反動派の国家国民党との連立の形で、1933年1月30日にヒトラー政権がようやく誕生可能となる。
そこでは、大統領ヒンデンブルクのヒトラー首相指名と、それを促したパーペン、経済界の役割が決定的であった。
1933年1月30日、ヒンデンブルクから新首相に任命されたヒトラーは、直ちに共和国憲法に忠誠誓約を行った。
しかしその4日後、国民には内密で軍指導部を集め「デモクラシーという諸悪の根源を除去する」と訴え、左翼・民主派の徹底的抑圧・解体の決意を披歴した。
2月末には、言論の自由や集会結社の自由など憲法の基本権にかかわる条項が「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」によって停止された。(1933年2月27日に起こった国会議事堂放火事件を足がかりに、共産党排除を目指す新政権の措置であった)
この緊急令で共産党が禁止排除された国会では3月23日「授権法(全権委任法)」可決によって、予算を含む法律を国会にかわって制定しうる立法権が政府に与えられ、国民の基本的人権を中心にヴァイマル憲法は実質廃棄された。
ヒトラーとナチ党による独裁への道が開かれた決定的瞬間であった。
ナチスのユダヤ人排斥は、政権掌握のはるか以前より党綱領として打ち出されていた。
しかし新政権にとって当面した課題の中で「ユダヤ人問題」そのものが最重要性をおびたわけではない。
ヒトラーのプロパガンダや演説は、国民大衆を熱狂させていた。
だが、ナチ党の下部党員や突撃隊員(わけても失業者)は、ナチ国家の究極形態・目的について明確な構想を与えられてはいなかった。トータルな権力掌握・政治的独占を期待しつつ充たされぬ「国民革命」さえ夢想していた。
こうした「下から」のナチ大衆の行動エネルギーは、伝統的支配層である軍や官僚、経済界の特権的地位に対する脅威をはらんでおり、党指導部の見過ごせぬ問題だった。
同年2月に左翼追及とともに始まっていた五月雨的な国内ユダヤ人への暴力行動は、世界に詳報され初期ヒトラー政権を困難な立場に追い込んでいく。
4月のユダヤ系商店のボイコットやユダヤ系公務員の排除等、ナチ党の「秩序」化へと向かう動きも、以上のような党内情勢と決して無関係ではなかった。
1921年に結成された党内最大の暴力組織・突撃隊は、権力掌握後も、左翼政党・労働組合の解体、各地方政権・社会諸団体の強制的同質化=ナチ化をおし進めていく上でなくてはならない存在だった。
しかし、その過程がひとまず終了しても「ナチ革命は未完である」と、体制内での新しい役割賦与、とりわけ国防軍にかわる新国民軍としての地位要求をヒトラーに突きつけたとき、幕僚長レームと突撃隊は袋小路に陥った。
第一次世界大戦後の再軍備政策においては、軍を最優先させる以外考えられなかったヒトラーに、レームや他の突撃隊幹部の粛清を決意させるにいたるからである。
一方、1925年の党再建の中で新編成された親衛隊(以下SSと略記)は、1929年のヒムラーの全国指導者就任以降、飛躍的に伸びていた。
当初、突撃隊同様ヒトラーおよびナチ党要人の身辺警護にあたっていたSSは、1930年代以降のナチ党の大衆化、組織膨張に対応すべく、党内の秩序維持においても中心的役割を担い、翌年春のベルリン突撃隊の「反乱」をおさえつけてからは、党警察のイメージを強く印象づけた。
1933年春、ヒムラーのバイエルン政治警察長官就任に始まるSSの警察への浸透策は、彼の秘密国家警察(通称ゲシュタポ、プロイセンの政治警察)総監、ハイドリヒの同警察局長のポスト獲得で足場を固めていった。
首相官邸警護担当の特別衛兵隊も、ヒムラー、ハイドリヒの指揮するゲシュタポ、SS保安局とともに密かに軍の武器支援を受け、1934年6月30日、はじめて大がかりな軍事行動を展開する。
これがレームをはじめ突撃隊幹部を粛清した、「レーム事件」(長いナイフの夜)である。
未明から7月2日夜までの丸3日間、ミュンヘン、ベルリン、オーバーシュレジエン・ブレスラウを中心に、ナチ突撃隊幹部その他の政敵に対して荒れ狂ったテロの嵐の中で、これらSS部隊は、ヒトラーの単なるボディガードなどではなく、むしろ彼の政治的意志の容赦ない執行者であることを遺憾なく証明した。
この殺人作戦の犠牲者は、前首相シュライヒャー将軍と夫人、シュライヒャーと関係が深く党を分解寸前に追い込んだG・シュトラッサー、ミュンヘン一揆時に彼を裏切ったとされるバイエルン元総監カール等、公式発表では90名だったが、実際には200名以上だったと見積もられる。
「レーム一揆」とさえ呼ばれるように、突撃隊側にあたかも反乱計画があったかのようなイメージが事件には付着してきた。
なお、無辜の人びとでも一旦敵とみなせば問答無用、組織的に殺戮する国家テロ犯罪の重大な1歩と世界史的に意味付けたのは、漸く第二次大戦後、ナチ体制指導者たちを裁いたニュルンベルク国際軍事裁判法廷である。
1933年7月、ナチ党以外の政党を認めない「新党設立禁止法」を公布し、一党制の独裁国家が成立していたが、翌年8月2日にヒンデンブルクが死去すると、大統領の職務は「総統兼首相」のヒトラーに移行。
これにより、国防軍はヒトラーに対して無条件の服従を誓った。