1939年11月30日〜1940年3月15日
ヨーロッパでドイツがポーランドに侵攻してからわずか2ヵ月。今度は北欧に戦禍が巻き起こる。
ロシアがかねてより圧力をかけていた隣国のフィンランドに侵攻したのだ。
一連のヨーロッパでの情勢に影響され起こった戦争は、大国であるソ連があっという間に小国であるフィンランドを呑み込むかに見えたが、フィンランドは世界中が思いもよらぬ抵抗を見せることになる。
>> 継続戦争
1917年12月6日、ロシア革命の混乱のなかフィンランドは独立を宣言した。
長らくスウェーデン、そしロシアと他民族の支配に甘んじてきた、フィンランド民族悲願の独立の瞬間であった。
しかし、それは平和裏には達成されなかった。
独立後の体制を巡って保守派と社会主義派の間での内戦となったのである。(フィンランド内戦-1918年)
保守派が勝利したものの敗れた社会主義側はロシアに逃れ、フィンランド・ソ連の間には遺恨が残ることになる。
ドイツの台頭によるヨーロッパの緊張の高まりはフィン・ソ関係にも影響した。
西側国境の安全に不安を感じたソ連は、フィンランドに協調を求め、交渉は1937年に開始された。
ソ連は相互援助条約の調印を求めたが、ソ連の意図は信用することができず、独立を望むフィンランドとの交渉はまとまらなかった。
スターリンは最後には条約締結をあきらめ、レニングラードに近いフィンランド領土の割譲を求めた。
フィンランドは若干の譲歩をしたものの、両者の隔たりは埋まらなかった。
フィンランドは最終的に拒否し、11月9日すべての交渉は打ち切られた。
しかし、意外にもフィンランド国内は楽観的だった。まさか戦争になるはずはないだろうと。
11月26日にソ連は国境付近での砲撃事件をでっちあげ、28日フィンランドとの不可侵条約を破棄した。
そして、30日に南のカレリア地峡から北極圏に至る全国境でフィンランドへの侵攻を開始、冬戦争が勃発した。
緒戦でソ連軍はドイツ軍が見せたような電撃戦を狙っていた。
主攻撃ルートとなったのはカレリア地峡で、この隘路(狭くて通行の困難な道)はフィンランドの心臓部に至る最短ルートであった。
しかし、ソ連軍の電撃戦は、うまくいかなかった。
一発撃てば逃げ出すと思ったフィンランド兵は、優勢なソ連軍に対して勇敢に立ち向かったのである。
攻撃は遅滞しゆっくりしたものとなり、ようやく12月6日、ソ連軍はカレリア地峡でフィンランド軍最大の防衛線、マンネルヘイム線への攻撃を開始した。
しかし、これもうまくいかなかった。
マンネルヘイム線がことさら強力だったということではなく、ソ連軍の攻撃は物量こそ豊富だったが、協調がとれておらず、無駄な攻撃を繰り返し撃退されたのだった。
部隊には経験と指揮調整能力が欠如していたが、これは明らかにスターリンの粛清の影響だった。
スターリンが大粛清によって軒並み、軍の高官まで粛清してしまった事で、軍高官が未熟練者だらけになっていたのだ。
やがて12月末には攻勢は先細りとなり、ソ連軍は態勢の立て直しを図ることになった。
ソ連軍はカレリア地峡だけでなく、助攻として各方面にも大部隊を進撃させた。
その最大のものがラドガ湖の北を回るルートで、これはカレリア地峡の背後を衝いて主攻を助け、さらにはそのままフィンランド内陸部へ突進することが期待された。
北の東カレリアからも有力な部隊が配置され数少ない道路を通って分進合撃し、フィンランドを中央部で切断して南北の連絡を断つことになっていた。
そして極北ペツァモにさえ彼らは大部隊を進撃させたのだ。
フィンランド軍にとってこれは予想外だった。東カレリアは大部隊の展開に適した土地ではなかったはずだったからだ。
フィンランド軍はかき集めた部隊で防戦にあたらせた。
ソ連軍部隊は道路上を一本の棒となって進み、過度に分散していた。
フィンランド軍はこれを利用し、彼らを奇襲して分断し後方との連絡を断った。
これがいわゆる「モッティ戦術」の初めであった。
ラドガカレリア、イロマンチ、クフモ、スオムッサルミ、サッラ、そしてペツァモ、すべての戦場でフィンランド軍はソ連軍をくい止め突破を許さなかった。
とくにスオムッサルミではソ連軍2個師団が壊滅するという、フィンランド軍の大勝利であった。
緒戦の電撃戦の失敗と手痛い損害を受け、ソ連はようやくフィンランドが、簡単に下せる相手ではないことを知った。
戦略は練り直され、司令官にはポーランド占領作戦を終えたばかりのティモシェンコ元帥が呼び寄せられた。
ティモシェンコはこれまでのような、協調のとれないバラバラな攻撃を止めさせ、十分に準備された、ソ連流の力押しによる突破作戦を行うことにした。
攻勢正面はカレリア地峡に限定された。
彼は一切の攻勢を中止させ、一ヵ月にわたって攻撃準備を進めた。
戦場には新たな部隊が呼び寄せられ、兵器資材の前送、情報活動とともに、戦場で攻撃の予行、教育訓練を行い攻撃準備を進めたのである。
フィンランド軍の善戦は、国際環境をも変化させた。
フィンランドがソ連にあっさり負けると思っていた世界各国は、その見方を変えて援助を本格化したのだ。
そこには別の思惑もあった。
当時ソ連はドイツの同盟国だったが、ドイツと戦う英仏は、フィンランド援助を口実に、ノルウェーからスウェーデンに兵を進め、ドイツが死活的に必要としていた鉱山を押さえてしまおうと考えたのである。
2月1日、ついにティモシェンコ元帥によるソ連軍の大攻勢が開始される。
彼らは第一次世界大戦のベルダンにも匹敵するような苛烈さでマンネルヘイム線を襲った。
激しい砲撃と際限のない攻撃で、これまで寡兵ながら堪え続けていた、フィンランド軍の防衛線もついに擦り切れてしまった。
2月14日、マンネルヘイム司令官は主防衛線から数キロ後方の中間防衛線に後退することを命じた。
しかし中間防衛線はまだ建設中で、とても長く持ちこたえられるものではなかった。
実際、ソ連軍の激しい攻撃で防衛線は各所で寸断されてしまい、早くも2月27日には放棄しなければならなかったのである。
フィンランド軍に残されたのは、カレリア地峡の州都ヴィープリを守る最終防衛線だけであった。
ソ連軍は地上からヴィープリを攻めるだけでなく、凍結した海を渡って攻撃を仕掛け、ヴィープリ湾を迂回して、フィンランド本土に取り付こうとした。
フィンランド軍はありとあらゆる兵士、士官学校の生徒まで投入して防戦に努めた。
このソ連の大攻勢はソ連の焦りでもあったが、それは、英仏のフィンランド援助計画が大きく影響していた。
ソ連はドイツと一緒にポーランドを侵攻したときと同じく、火事場泥棒のようにフィンランドを奪おうとしただけなのだ。
ソ連はフィンランドとの戦争が英仏との戦争になるなどとは思っていなかった。
しかし、フィンランドとの戦争が長引き、英仏まで敵に回しては世界戦争に巻き込まれてしまう、とソ連は焦っていた。
ソ連は大攻勢の準備と並行して、すでにスウェーデンを通じてフィンランドとの接触を図っていた。
2月半ばには交渉は本格化したがソ連の要求はあまりに過大だった。
フィンランド側には英仏の援助への期待があった。
しかし2月末、決断は下された。政府首脳に意見を求められたマンネルヘイム司令官には英仏の援助はあてにならず力の残っている今講和することを進言したのである。
ソ連の要求は厳しいものであったが、フィンランドはそれを受け入れるしかなかった。
3月13日午前11時前線ではすべての砲声が止み、冬戦争は終わった。
ソ連軍は勝利したものの、ソ連側も犠牲は大きかった。
ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、その結果を興味深く見守っていた。
この後ソ連侵攻を決定したヒトラーは、フィンランドとの結び付きを強めていくのである。
ヒトラーとしてはやがて訪れる独ソ戦の際、フィンランドを味方に付けてソ連包囲網に加わってもらおうと目論んでいたのだ。
フィンランドは海洋国家でもあり、南岸はフィンランド湾、西岸はボスニア湾と長い海岸線を持つ。
そして、西側との通商の多くを海上交通に頼っていた。
しかし、当時のフィンランド海軍は、その国力に応じた貧弱なものでしかなかった。
攻撃的な艦艇は海防戦艦2隻のみで、主力は機雷戦艦艇であった。
唯一フィンランド軍が期待できたのは、有力な沿岸砲兵部隊だけであった。
それはロシア帝国の置き土産のおかげで、フィンランドには分不相応に強力なものであった。
フィンランドにとって幸いだったのは、この戦争でソ連海軍があまり積極的でないことだった。
ソ連は陸軍による侵攻作戦で、容易にフィンランドを覆滅できると考えていたため、海軍による大規模な作戦は考えていなかったのである。
よって、実際に戦闘となった機会は多くない。
12月1日の朝、ソ連海軍はエストニアの港から、巡洋艦キーロフと、グネフヌイ級駆逐艦2隻からなる艦隊を出撃、それらはハンコへと向かった。
9時57分ハンコ沖のルッサロ島の沿岸砲台の234ミリ砲は、約23キロの距離で敵艦に対して砲撃を開始した。
駆逐艦ストレミテルヌイが被弾して避退、さらにキーロフも被弾して艦隊は南に遁走した。
同様の戦闘は14日にも生起した。
ソ連海軍のグネフヌイ級駆逐艦2隻が、フィンランド湾上のウトヤ島を襲撃したのである。
11時に砲台は駆逐艦を視認、砲台の152ミリ砲は距離11.5キロで射撃を開始した。
砲弾は命中、敵艦は煙幕を張って避退した。
このように冬戦争中、沿岸砲台は敵艦を寄せ付けず、期待された任務を十分果たしたのである。
フィンランド空軍の歴史は長い。
独立直後の1918年に設立され、さらには1921年には航空機の国産に着手している。
しかし、実際のところ、やはり当時のフィンランド空軍もその国力に応じた貧弱なものでしかなかった。
冬戦争勃発当時のフィンランド空軍は、戦闘機と爆撃機の2個の飛行団を基幹としていた。
戦闘機部隊の主力はフォッカーD・XX1、爆撃機部隊の主力はブリストル・ブレニムであった。
どちらも大戦前にフィンランドが採用したばかりの当時の新鋭機であった。
しかし難点はあまりにその数が少ないことで、開戦時のフィンランド空軍の戦力
は、新旧合わせて301機しかなかった。
これに対してソ連空軍は、開戦時約6000機を保有しており、そのうち約3000機が近代的な戦闘機および爆撃機であった。
そして、ソ連はフィンランド方面に2318機を展開させており、彼我の戦力差は大きかった。
冬戦争中、ソ連空軍は事実上フィンランド空軍に妨げられることなく、戦場上空を自由に飛び回ったのである。
フィンランド空軍に捕まったのは、運の悪い機体だけだった。
冬戦争中、フィンランド空軍はソ連空軍機、207機を撃墜し、それに対する損害は53機であった。
これに加えてフィンランド側では対空部隊も、314機のソ連空軍機を撃墜している。
合わせて521機(これはソ連側の記録ともほとんど一致している)、10対1の戦果である。
しかし、フィンランド空軍の奮戦も空しかった。
冬戦争終結時にソ連空軍がフィンランド周辺に展開させていた機体数は、実に3818機と開戦当時より増加していたのである。
落としても落としても優勢な敵、フィンランド空軍の戦いには永遠に終わりがなかったのだ。
冬戦争は終わったもののフィンランドには本当の平和は訪れなかった。ソ連が講和にもかかわらずフィンランドに次々と追加要求を突き付けていたからだ。
一方、冬戦争で一度はフィンランドを見捨てたドイツも、刻々と高まるソ連との緊張関係を背景にフィンランドへの接近を図った。
1940年にドイツがデンマーク、ノルウェーを占領し、ソ連がバルト三国を併合したことで、フィンランドが近隣で頼れる先はドイツ以外になくなってしまっていた。
その結果フィンランドは、1941年6月ドイツ軍のソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦の実施に呼応して、ソ連との戦端を再び開くことになったのである。
フィンランドとしてはドイツの力を借りてでもソ連の圧力から独立を守りたかったのだ。
7月10日、攻撃を開始したフィンランド軍は、ソ連軍に対応する余裕を与えず電撃的に進撃した。
ラドガカレリアは7月末、そして8月末にはカレリア地峡が解放された。
レニングラードは指呼の先であったが、フィンランド軍には、レニングラードを攻撃する意思はなかった。
9月4日フィンランド軍の東カレリアへの進撃が開始された。
フィンランド軍は再び快進撃を続け、7日にはスヴィル川に到達し、翌日にはムルマンスク鉄道を切断した。
さらにフィンランド軍は東力レリア一帯の占領を進め、ペトロザボーツクは10月1日に陥落した。
フィンランド軍は、さらに北方にソ連軍部隊を押しやり、12月にはメドベジェゴルスクからポヴェンツァでスターリン運河を切断して停止した。
最高指揮官のマンネルヘイムはフィンランド軍に停止命令を下し、以後、座り込み戦争とも呼ばれる陣地戦に移行することになる。
フィンランドの座り込み戦争はすぐには終わらなかった。
その間、独ソの戦争は続いたが、1942〜43年のスターリングラードでの敗北、そして1943年7月のクルスク戦の失敗によって、ドイツの敗勢は明らかとなった。
1943年秋、ソ連軍は翌年の全般的作戦計画を策定した。
その最大のものは、ベラルーシでの一大攻勢「バグラチオン作戦」であった。
彼らはその前段階としてその側面の安全を確保するため、フィンランドを戦争から取り除くことにした。
1944年6月9日、ソ連軍の大攻勢は開始され、再びソ連軍が主攻正面としたのはカレリア地峡であった。
しかし、その規模は、以前よりはるかに大規模なものだった。
そして、彼らの実力はここ3年のドイツ軍との戦いで鍛え上げられていた。
冬戦争のときに3ヵ月かかったヴィープリは、たった10日で陥落した。
フィンランドは必死でドイツの支援を求めた。
リュティ大統領がソ連と単独講和しないことをドイツに約束したことで、軍事援助と支援部隊は到着した。
ヴィープリを陥としたソ連軍は、その東を回って、フィンランド軍戦線の後方を突破しようとした。
そこからフィンランドの首都ヘルシンキへは一直線であった。しかし、フィンランド軍は虎の子の戦車、突撃砲部隊を投入して突破を防いだ。
こうしてなんとか戦線は安定した。
7月に入ってもソ連軍の攻勢は続いたが、その攻勢の方向はヴィープリ周辺から、地峡中央部に移っていった。
さらに東カレリアでも攻勢は続いていたが、フィンランド軍はソ連軍を遅帯させつつ本土への後退に成功した。
7月半ばになると、ソ連軍はカレリア地峡から兵力を引き上げつつあるのが、明らかとなった。
彼らはバルト、ベラルーシ地域での攻勢に、兵力を必要としていたのである。
こうしてフィンランドは救われた。フィンランド軍の、最後の頑張りはムダにはならなかった。
こうして戦争の決着は戦場でなく、外交で決せられることになったのである。
リュティ大統領は辞任し、総司令官マンネルヘイムが新大統領に就任した。
ソ連側の休戦条件は厳しいものであった。
フィンランドは1939年国境を望んだが、1940年国境しか認められなかった。
加えて北極海への出口、ペツァモ地域も差し出さなければならなかった。
しかし、最大の問題となったのはドイツ軍のフィンランド領内からの追放であったが、それでも無条件降伏よりはましだった。
9月19日正午、休戦協定はソ連の要求通り調印された。
その結果、この後フィンランドはドイツ軍を追放するため、ラップランド戦争と呼ばれる戦争を戦うことになるのであった。