昭和14年(1939)5月11日〜9月15日
ノモンハン事件(1939年5〜9月)は満洲国とモンゴル人民共和国の国境紛争、日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。満洲国軍とモンゴル人民軍の紛争から、両国の後ろ盾である日本陸軍とソ連が開戦。ドイツのポーランド侵攻をうけて停戦協定が結ばれた。
昭和6年(1931) | 9月 | 満州事変勃発 |
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昭和12年(1937) | 7月 | 盧溝橋事件(日中戦争開始) |
昭和13年(1938) | 7月〜8月 | 張鼓峰事件(ソ連・満州国境で日ソが軍事衝突) |
昭和14年(1939) | 5月11日 | 第1次ノモンハン事件 |
6月19日 | 第2次ノモンハン事件 | |
7月26日 | アメリカが日米通商航海条約廃棄を通告 | |
8月23日 | 独ソ不可侵条約締結 | |
9月1日 | ドイツがポーランドに進攻(第2次世界大戦勃発) | |
9月15日 | ノモンハン事件の停戦協定 | |
昭和16年(1941) | 4月13日 | 日ソ中立条約締結 |
12月8日 | 対米英蘭宣戦布告 |
満州国を実質支配の関東軍大陸を守る要の精鋭部隊
明治38年(1905)日露戦争に勝利した日本は、遼東半島先端の関東州を、ロシアに代わって租借することとなった。その関東州の守備と、南満州鉄道付属地の警備を担当する関東都督府の守備隊が関東軍の前身。その後、大正8年(1919)関東都督府が関東庁に改組されたのと同時に、関東軍として独立した。関東軍は内地から交替で派遣された。当初は兵カー個師団の他、独立守備隊旅順要塞司令部、関東憲兵隊などを統轄する小規模な軍であった。その任務は在満権益の擁護だったが、次第に兵力を拡大、政治的発言力も増し、満州事変などを起こす。同時に陸軍中央の方針から逸脱していく。最大時には74万の兵力を擁していた。
ノモンハン事件の前年、昭和13年(1938)7月29日、満州国東南端の琿春市張鼓峰で、日本軍とソ連軍の戦闘が起こった。張鼓峰事件と呼ばれる、国境紛争である。
張鼓峰は、朝鮮に近く満州国とソ連との国境不明確地帯で、この月にソ連軍が進軍してきて、頂上一帯を占拠、兵力を増強していた。
日本軍はソ連軍の実力を図るため、限定戦闘(威力偵察)を試みた。ソ連が日本と中国との戦争に、どれほど介入する気があるのかを判断する材料にしようとしたのだ。
日本軍が張鼓峰を占拠すると、ソ連軍は激しく攻め立ててきた。
8月に入ると機械化された部隊が続々と投入され、日本軍の3倍もの兵力となった。
結局、両軍は激戦を繰り広げることとなり、日本の第19師団は526人もの戦死者を出す。戦傷を含めると損害率は22パーセントを超えてしまう。
この状況で停戦に踏み切ったのは、ソ連が本格的に日中戦争に参戦することを恐れ、日本軍中央が不拡大方針をとったからだ。
この武力衝突は、日本軍にさまざまな教訓を与えた。
このとき日本側は、ソ連軍が戦車や重砲、航空機を装備し、部隊がハイレベルに機械化されつつあったことを認識できたはずだ。
だが何も手を打たず、放置してしまう。
翌・昭和14年(1939)5月11日、ハルハ河東岸の国境線係争地区で、20〜60人のモンゴル人民共和国(外モンゴル)軍と、満州国軍の間で武力衝突が起こった。
モンゴルと満州国との国境は、もともと牧草地帯であり、加えて中国がモンゴルの独立を認めていなかったため、極めて不明瞭だった。それは満州国の場合も変わらない。
日本軍は満州国を支配したことで、ソ連・モンゴルと直接境界を接するようになった。そのため国境策定の会議を催したが実を結ばず、満州国とモンゴルとの国境紛争が、頻繁に起こっていた。
そしてこの時も、そんな国境を巡る小競り合いのはずであった。
だがこの報に接すると、ハルハ河を担当正面とする関東軍第23師団は即座に出動準備を整えた。師団長の小松原道太郎中将は、4月下旬に関東軍から示達された「満ソ国境紛争処理要綱」により、直ちにモンゴル軍を撃破する決心をしたのだ。
そして歩兵第64連隊第1大隊、捜索隊主力※に出動を命じた。
※捜索隊(捜索連隊)とは戦闘斥候を任務とする機動偵察部隊
5月13日から15日にかけて、第23師団はハルハ河東岸のモンゴル軍を攻撃し、これをハルハ河西岸に追いやった。
それで小松原師団長は目的を果たしたと判断し、部隊をハイラルに帰還させた。
しかし、ソ連&モンゴル軍は再びハルハ河東岸に進出してきたので、小松原師団長は5月21日、再度歩兵第64連隊、捜索隊に攻撃命令を下した。
その報告を受けた関東軍は「相手が越境したらすぐに出動するのは、急襲成功の道ではない。しばらく機会を伺い、相手が油断した時に一挙に急襲するのが採るべき道」と、再考を求める電報を送ってきた。
だが小松原師団長は「すでに出動命令を下した以上、中止にするのは統帥上不可能だ」と、攻撃を主張した。
結局、関東軍司令官の植田謙吉大将は小松原師団長の主張を認め、23日に中央部へ本事件の処理方針について報告。
それとともに、関東軍として事件を拡大しないように、現地軍に注意をする旨も伝えた。
参謀本部ロシア課は、ソ連側には事件拡大の意図はない、と判断していた。
関東軍に対しては、航空兵力を増強してモンゴルを爆撃しようと考えていないのなら、あまり干渉しない方がいいと結論。
参謀次長から関東軍参謀長への返電では、関東軍として適切な処置をとるように要望しただけであった。
これを受け小松原師団長は27日、第23師団麾下の山県支隊にハルハ河に向かって進撃を開始するように命じた。
この支隊は歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門を合わせ1058人、捜索隊220人、輜重部隊340人の日本軍に、464人の満州国軍が加わっていた。
これに対してソ連・モンゴル軍は兵員だけでも2300人と日本を圧倒。
さらに砲は日本軍が5門なのに対し、自走砲も含め76ミリ砲12門、122ミリ榴弾砲4門、戦車は日本軍が0なのにソ連軍は多数を投入していた。
それだけの兵力差があるにもかかわらず、支隊長の山県武光大佐は「歴史の第一頁を飾るべき、栄えある首途に際し必勝を期して巳まず」という訓示を述べている。
先行する捜索隊200人は、28日早朝に出発したが、優勢な敵に包囲されたうえ、一方的に砲撃されたため壊滅した。
山県支隊の本隊も、圧倒的な敵兵力に阻まれ、捜索隊に援軍を送ることができずにいた。
こうした戦況を見た小松原師団長は、山県大佐に29日をもって後退するように命じた。
だが激戦が続いていたため、思うように後退もできない。
そんな状況下に、関東軍参謀の辻政信少佐が山県支隊本部にやってきた。
そして山県に「あなたの用兵の拙さにより捜索隊を見殺しにした。今夜半、夜襲をかけ捜索隊の遺体を収容するように。新京に帰ったら支隊が夜襲で、敵を国境線外に撃退したと発表する」と告げる。
5月31日に撤収命令が出され、第一次ノモンハン事件と呼ばれる戦闘は終了する。
辻ら関東軍参謀は、捜索隊の全滅を隠匿。
「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり」と参謀本部に報告する。
そこには敵の兵力が充実していたのを見誤ったことや、前線部隊に対戦車兵器などを準備できなかった反省はなかった。
その後、ソ連軍は拙い戦闘を行ったという理由で、幕僚だけでなく前線指揮官まで更迭された。
一方の日本軍は、敵の戦力を過小評価し撃滅に失敗した小松原師団長をはじめ、辻から「捜索隊を見殺しにした」と非難された山県も留任している。
6月に入ると、日本の航空隊に徹底的にやられていたソ連戦闘機部隊が態勢を立て直し、国境を越え日本軍基地を空爆してきた。
日本側も報復爆撃を行ったが、極めて限定的だった。それは不拡大方針だったため、航空攻撃は認められていなかったからだ。
だが6月23日、関東軍はソ連の航空基地があるタムスクを攻撃することを、参謀本部に知らせずに行うことを決めた。
そして27日に実行し、大戦果を挙げた。
こうして第二次ノモンハン事件が始まった。
作戦計画を主導した辻はわざわざ戦果確認のために自ら爆撃機に同乗している。
この戦果を参謀本部に連絡した関東軍参謀は、激しい非難を浴びてしまう。
これで関東軍と中央との対立は決定的となり以後、関東軍はますます暴走していく。
関東軍に歯止めをかける命令が出され、航空攻撃は明確に禁じられたが、陸上部隊の越境攻撃には含みがもたせてあったので、辻をはじめとする関東軍参謀は陸上部隊による越境攻撃計画を進めていった。
そして6月30日、2万を超える将兵と砲124門、戦車73両、装甲車19両という大兵力もってハルハ河東岸に築かれたソ連軍陣地に向け、果敢な攻撃を開始。
当初は敵軍を圧倒し、相当な戦果を挙げることができた。
だがソ連軍の計画では、ハルハ河東岸の陣地を確保し、日本軍の包囲には機甲兵団で対応。その後、航空部隊を含む優勢な兵力をもって、縦深陣地からの反撃を予定していた。
日本軍はソ連軍が退却してしまうのではないかと焦り、十分な準備や捜索をせずに追撃していく。
結果、ソ連軍の反撃が始まると、日本軍は質量とも優勢な機甲部隊、砲兵による攻撃に晒され、進撃を阻止されるだけでなく、約2万人の将兵を失う大打撃を受けてしまったのだ。
6月に日ソ両軍による空爆の応酬で始まった第二次ノモンハン事件は、大がかりな地上戦へと発展する。
この時、関東軍も中央もソ連が大兵力を動員することはないという先入観にとらわれていて、作戦は辻政信参謀を中心に練り上げられた。
それは第7師団と戦車部隊を持ってハルハ河西岸に進入し、ソ連軍砲兵陣地を蹂躙。その後、ハルハ河東岸のソ連・モンゴル軍を背後から攻撃。23師団は主力の攻撃に呼応して、ハルハ河東岸のソ連・モンゴル軍を攻撃し殲滅する、というものだった。
第7師団を主力としたのは、関東軍の中で精鋭師団だったからだ。
しかし、植田謙吉関東軍司令官が第23師団を外すことに異を唱えた。「皇軍の伝統は打算を超越し、上下父子の心情をもって結合するにあり。血を流し、骨を曝す戦場における統帥の本音とは、数字ではなく理性でもなく、人間味あふれるものでなければならない」というのだ。この後のアジア・太平洋戦争でもよく見られた、人情優先の人事である。
こうして主力が第23師団になり、6月30日に攻撃に関する師団命令が下達された。
しかし6月に入ってからは、日本側の捜索活動ができないほどソ連軍陣地は強化され、警戒も厳重であった。
にもかかわらず関東軍の状況判断は、極めて楽観的であった。
そのため十分な装備と捜索をせずに、追撃思想による攻撃を継続。
こうした敵を軽視し、自軍の火力が不足していても肉弾攻撃に勝るものはないと過信。補給能力、通信能力、架橋能力など全てが不足した状況でも攻撃を強行する姿勢は、まさにその後も何度となく繰り返される日本陸軍の悪癖であった。
日中戦争の最中に、事件が日本とソ連との全面戦争に拡大することを恐れた大本営は、関東軍にあらためて不拡大方針を伝え、政府も事件の平和的解決の方針を定めた。
しかし関東軍はこれを無視し、7月23日から再び攻勢をかけた。
しかし、その再攻勢も失敗に終わった。
そして8月20日になると、国境線回復のために大兵力を集中したソ連軍の総攻撃が始まった。
歩兵だけでなく狙撃師団、戦車師団を加えた大軍に、第23軍は壊滅するという大敗を喫する。
9月1日になるとヨーロッパで第二次世界大戦が勃発する。
大本営はようやく攻撃中止と軍の後退を厳命した。そして9月15日にモスクワで停戦協定が結ばれた。
この、日本の「休戦すべきタイミングで休戦できない」体質が、第二次世界大戦で国民をおおいに苦しめることとなる。
一連の戦いで日本軍第一線部隊の連隊長クラスが戦死、あるいは戦闘の最終段階で自決した。
生き残った部隊長の中には、独断で陣地を放棄し後退したことを厳しく非難され、自決を強要された者もいた。
つまり、ノモンハン事件における失敗を目の当たりにした人々から、その失敗を受け継ぐ機会を潰してしまったのだ。
9月から11月にかけ、ノモンハン事件の責任を明らかにするための人事異動が行われた。
中央部では参謀次長、第一部長が予備役にまわされ、関東軍は軍司令官、参謀長が予備役に編入された。責任追及は下級幕僚らにも及んだ。
強硬な作戦を指導した関東軍作戦参謀の辻政信少佐は第11軍司令部付に左遷された。 だがアジア・太平洋戦争が始まると、マレー作戦に作戦参謀として参戦。 その成功により、作戦の神様のようにたたえられてもいる。 その後、辻はガダルカナルの戦いなども指導し、実情を顧みない無理な作戦を立案し、多くの犠牲者を生み出した。
ノモンハン事件は、日本軍に対して当時の“近代戦の実態”を余すところなく示した。
しかし、当の日本軍はなすすべを知らず、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。
日本軍はこの自分たちの至らなさと向き合う事なく、是正せぬまま、その後のガダルカナルの戦いやインパール作戦で全く同じ過ちを繰り返すこととなる。