1942年8月7日から1943年2月7日にかけて西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島で行われた戦い。
交戦勢力はアメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなどの連合軍で、日本側の敗北に終わった。
ミッドウェー海戦と並び、太平洋戦争における日米攻守の転換点となった戦いである。
連合艦隊がミッドウェー海戦で敗れた直後、大本営は第17軍(軍司令官・百武晴吉中将、司令部はラバウル)に東部ニューギニアのポートモレスビー(オーストラリア領)を陸路で攻略する研究を命じた。
連合軍によるラバウル空襲は日を追って激しくなるばかりで、その発進基地・ポートモレスビーを沈黙させたいというのであった。
海路による攻略作戦は、珊瑚海海戦によって阻止された為、陸路から攻略するほかなかった。
ポートモレスビーからの航空攻撃は、ラバウルだけでなく、東部ニューギニア北岸のサラモアやラエに対する日本軍陣地へ激しさを増していた。
これらの陣地は、昭和17年(1942年)3月、第144連隊と海軍特別陸戦隊一個大隊が占領した。
連合軍が進出し、その一帯を基地として利用させない為である。
このように連合艦隊の根拠地トラック諸島を防衛するためにラバウルを占領し、そのラバウルを守る為に東部ニューギニアの要地を攻略占領しようとした。
いわゆる外郭用地の攻略である。
第17軍はこうした目的を達成するために編成され(昭和17年5月)、ニューカレドニア諸島(仏領)、フィジー諸島(英領)、サモア諸島(米領)、そしてポートモレスビーを攻略しようとしていた。
これらの作戦は、海軍がオーストラリア本土を攻略占領したいという案に対して、陸軍が猛反対し、三か月協議を重ねた末、その妥協案として生まれたものである。
これらの要地を占領できれば、米豪遮断ができ、米軍がオーストラリア経由の反攻作戦を取れなくなり、ラバウルもトラックも初めて安泰になるというのである。
しかし、ニューカレドニア、フィジー、サモアへの攻略は、ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったので、立ち消えになった。
空母抜きで輸送船団を護衛する事は出来ないからである。
残るは、オーエンスタンレー山脈を超えて、ポートモレスビーを衝く以外にない。
だが、その道中は深いジャングルに覆われ、低い所でも2000m級の山々が立ちはだかっている。
満足な地図もなく、ジャングルに覆われた山越えの間、果たして食糧や弾薬の補給が続くかどうか、最初から危ぶまれた。
だから当初は「研究作戦」であったが、いつの間にか本物の作戦となってしまう。
命を受けた南海支隊(グアム島やラバウルを攻略した部隊。約5000名)の先遣独立工兵第15連隊は、7月半ば、ブナに上陸した。
どこまで道路があるか、ジャングルの中に道路が作れるかを見通す為である。
ちょうどその頃、英領のガダルカナル島(略語:ガ島)では日本海軍の基地設営隊が飛行場を建設しつつあった。
ガ島はラバウルから西へ約1000キロ、ソロモン諸島の西端から二番目の小島(四国の1/3)である。
島に進出したのも、やはりラバウルを守るという事である、そこに航空基地を前進させようとしていたのである。
ガ島の飛行場は7月末にはほぼ完成しようとしていた。
これに慌てたのは連合軍であった。
日本軍の進出を阻止する為、取り合えず大急ぎでガ島を奪回しようとした。
昭和17年8月7日早朝、アメリカ第一海兵師団(約20000人)がガ島へ上陸した。
上陸前の砲撃で海軍陸戦隊と飛行場設営隊はジャングルの中に逃げ込んだ。
戦闘部隊は約300人しかおらず、とても太刀打ち出来なかった。
日本海軍はガ島前方の、フロリダ島に抱かれたような小さな島ツラギ(ソロモン諸島の政庁があった)も占領していたが、ここの部隊250人は全滅するまで抵抗したという。
島が小さすぎたので逃げ場がなかったのだ。
ラバウルにあった第8艦隊(司令長官・三川軍一中将)は直ちに反撃に出た。
8日深夜中にはガ島海域に到達、たまたま付近を航行中の米艦隊を発見して海戦となった。
そして、重巡洋艦「キャンベラ」など3隻を沈め、他の数隻にも大損害を与えた。
日本側には大きな損害はなかった。
これが第一ソロモン海戦である。
当初の目的は、ガ島に揚陸中の輸送船団を砲撃する事だったが、思わぬ海戦で手間取り、敵空母からの航空攻撃を避けるために、海戦が終わるとただちに戦場を離れ、ラバウルに帰港した。
ガ島奪回の為、海軍から相談を受けた陸軍は、ガダルカナルとは何処にあるのかさえ、知らなかった。
しかし、大した事はあるまいと、一木支隊(旭川第7師団第28連隊の一個大隊を中心に約2400人)を上陸させる事になった。
支隊はミッドウェー島へ上陸する為、編成されたが、海戦に負けて用済みとなり、旭川へ帰る途中を呼び戻されたたのである。
8月18日、支隊長・一木清直大佐ら約900名の先遣隊は駆逐艦9隻に分乗してタイポ岬(米軍陣地から30キロ)に上陸、20日夜に飛行場へ突撃した。
が、猛烈な火砲の前に21日昼頃までにはほぼ全滅、一木支隊長はピストルで自決した。
一木支隊の敗因としては、米軍の兵力を2000人(実際の1/10)と推定した事、戦車がある事が分かっていながら速射砲を持って行かなかった事、重火器としては僅か2門の歩兵砲と機関銃8挺ぐらいだった事、中国の戦場と同様に銃剣突撃すれば鎧袖一触、敵はたちまち降参するか逃げていくと軽く考えていた事等が指摘されている。
一木支隊の鎮魂碑
一方、ニューギニアのポートモレスビーを目指す海南支隊は8月19日ブナに上陸、先遣隊の後を追って、23日にはスタンレー山脈の入り口ともいうべきココダに進出した。
8月24日、ミッドウェー敗北のあと再建された新編機動部隊(南雲忠一中将指揮)は第二艦隊(近藤信竹中将指揮)を伴ってガ島へ向け南下中、米機動隊(フレッチャー中将指揮・第61任務部隊)を発見、互いに攻撃機を飛ばしての海戦が始まった。
第二次ソロモン海戦である。
結果は日本軍は空母「エンタープライズ」に大損害を与えたが、日本軍も軽空母「龍驤(りゅうじょう)」を撃沈された。
その海戦中、一木支隊の後続部隊が輸送船3隻に分乗してガ島上陸を何回も試みたが、活発な艦爆機の空襲で果たせなかった。
ガダルカナル島を巡る日米の陸海軍あげての攻防戦が始まったのである。
そして、一方ではポートモレスビー攻略の為の山越え作戦も進行しつつあり、二正面に大きな戦いを挑んで、太平洋戦争は一つの分岐点を迎えつつあった。
陸軍は一木支隊先遣隊の全滅に驚きながらも、8月末、川口支隊(第18師団の第35旅団司令部と第124連隊基幹、旅団長・川口清健少将指揮、約6500名)をガダルカナル島へ派遣した。
岡明之介連隊長と第2大隊はタサファロングに、川口旅団長と残り二個大隊はタイポ岬に上陸した。
実兵力は約3000人であったが、両者で挟み撃ちの様にして飛行場を奪い返そうとした。
9月13日夜(日本軍の陣地攻撃はたいてい夜襲である)、各部隊は暗闇の中をソロリソロリと進んでいくうちに、米軍の最前線に接触、たちまち十字砲火を浴びてしまう。
ここでも米軍部隊との火力の差が歴然だった。
しかし、今回は速射砲の部隊もおり、この舞台は攻めて来る14両の戦車部隊のうち10両を仕留めた。
一木支隊のようにやられっぱなしでもなかったわけだ。
しかし、川口支隊の総攻撃は完全に失敗に終わった。
飛行場の真南から進んだ支隊主力2000名は、飛行場突入直前に阻止され、700名以上の戦死者を出している。
米軍は戦死者60名、負傷400名を出したこの戦場は、「血染めの丘」と呼ばれる。
川口支隊はその後、タサファロング付近に集結するが、わずか一週間分という携行食糧も底をついた。
食糧は飛行場を占領して米軍から頂くという想定だったのだ。
中国での戦いが全てそうだったからだ。
飢餓が忍び寄りつつあったのがガ島だけではなかった。
ポートモレスビー攻略部隊も食糧不足とマラリアに悩み始めていた。
先遣隊と本隊は8月20日過ぎ、イスラバの手前で合流した。
そこにはオーストラリア軍(一個大隊と二個中隊)が強固な陣地を敷いていた。
しかし、敵はオーストラリア軍ばかりではない。
昼なお暗いジャングルと、一度食いついたらなかなか離れない山ヒルと、既に始まっていた雨季のスコールとそれが止んだ後の凄まじい湿気、朝晩の寒気(既に標高2000mに近い)と、アノフェレス蚊が媒介するマラリアに、疲労困憊していた。
細々と人力で補給される食糧は、階級が上の者から取っていくため、初年兵に行きつく時はさらに少なくなっていた。
イスラバ守備隊との力闘一週間、迂回して偶然にも敵の刃異母に回り込んだ部隊に驚いたオーストラリア軍は、あっさり抵抗をやめ、大量の弾薬と食糧を残して撤退した。
南海支隊は残されたバターやチーズ、ハム、ソーセージなどで久しぶりに腹を満たした。
二回にわたる反撃が完全に失敗した陸軍は、ガ島の米軍が侮れない敵であるという事をようやく理解した。
そこで、メンツにかけても、本腰を入れてガ島を奪回を図る事になった。
ジャワ島の警備にあたっていた第2師団全てを急いで(約一ヶ月半かけ)上陸させ、さらにスマトラ島の警備にあたっていた第38師団をもガ島へ急がせた。
これらの部隊を指揮する第17軍司令部もラバウルからガ島へ進出、さらに東京の大本営からも辻正信中佐参謀が指導にやって来るという、形の上では一大決戦に相応しい態勢をとったのだった。
第2師団の三個歩兵連隊と第38師団の一個連隊、さらに、それまでに上陸していた将兵全てを合わせた約15000人がヘンダーソン飛行場への突撃態勢をとったのは、昭和17年10月24日だった。
当初の計画では、大軍を持って海岸沿いにマタニカウ川を渡り、さらにルンガ川を越え、雪崩をうって飛行場に殺到するという作戦が立てられた。
ところが、その準備をしている内に、米軍は先手を打って攻撃し、準備中の日本軍の一個連隊(第4連隊約3000名)をほぼ壊滅させ、マタニカウ川の対岸に強固な陣地を敷いてしまった。
日本軍は仕方なく、飛行場の裏手にそびえる標高500m程のアウンステン山を大きく迂回する道路(第2師団長の名前をとて丸山道という)をジャングルの中に切り開き、飛行場の背後から突撃する事になった。
攻撃隊は左翼と右翼に分かれ、24日午前5時、一斉に前進を開始した。
ちょうど雷鳴轟く豪雨となった。
将兵は丸3日間殆ど食事を取っていなかった。
携行して来た一週間分の食糧が切れていたのである。
かといって、前線には全く補給はなかった。
左翼隊の場合を見ていると、土砂降りの中、漆黒のジャングルの中をゆっくり前進しつつ、ともかくも飛行場の突入地点に到着したが、突入の頃になって雨はすっかり上がった。
ふと気が付くと、マイクロフォンがあちこちに仕掛けれられていた。
米軍側は日本軍の行動を音によって知り、待ち構えていたのだ。
ようやく鉄条網にぶち当たり、その一部を破壊して突入が始まったが、それは文字通り弾雨の中に身をさらすようなものだった。
最後は連隊長(歩兵第29)自ら、軍旗と共に突撃し、それっきり行方不明となった。
後方の師団司令部とはもちろん連絡はとれない。
丸山正男師団長は翌朝早く、何事もなったように米軍機が飛び立ち、前夜の戦場付近をゆっくり旋回しているのを望見して、攻撃の失敗を悟ったという。
右翼隊は米軍の先制攻撃で、突撃すら出来なかった。
翌日、予備の部隊を繰り出して同じような攻撃を実施したが、前日にも増した惨憺たる敗北となった。
翌26日から27日にかけてガ島北方海上では、日本の機動部隊と米機動部隊が一戦を交え、米空母「ホーネット」を沈めるという戦火を上げた。
食糧の補給が殆どなく、マラリアに罹りながらも戦いを続けなければならなかったのは、ポートモレスビー攻略部隊(南海支隊)も同じだった。
腹をすかし、マラリア熱でだるい身体を鞭打ち、途中に待ち構えるオーストラリア軍の小部隊と戦い、約1000名の犠牲を出しながら、ポートモレスビーの街が見える地点に達したのは9月半ばである。
イオリバイオであった。
しかし、そこまで進出した南海支隊に対して、第17軍は撤退を命令した。
ガ島への手当てに忙殺されていて、南海支隊への補給に自信を失っていたのだ。
退却を始めた南海支隊をオーストラリア軍は追撃を開始する。
それはマッカーサーの指揮のもとに開始された、東部ニューギニアの奪回作戦の一環だったのだ。
連合軍は東経159度から西、つまりオーストラリア・ニューギニア・フィリピン・ソロモン諸島を含む南西太平洋をマッカーサーに、東側、つまりガダルカナル島・ツラギ・フロリダ諸島をニミッツに、それぞれ指揮させたのである。
11月16日ブナ南方オロ湾に米軍1000人が上陸した。
周辺は東からブナ、ギルワ、バサブアに日本陣地がありブナ地区と総称されていた。
オーストラリア軍に追われて退却中の南海支隊は、その地域を目指していたのだが、米軍に先回りされてしまった。
こうして、辛うじてたどり着いた南海支隊も含めてブナ地区で新たな戦いが始まった。
支隊長堀井富太郎少将は、ブナ到着前に戦死していた。
ブナ地区には陸海軍の小部隊が混在して守備していたが、米軍上陸後、第21旅団が他の増援部隊と共に派遣され、旅団長山県栗花生(つゆお)少将が統一指揮する事になった。
総兵力11000である。
米軍は爆撃機で陣地を叩き、歩兵部隊が少しずつ前進して陣地を崩すという戦法に徹した。
航空攻撃に全く無力な日本軍陣地は次第に追い詰められ、12月中旬にはバサブア陣地が、1月初旬(1943年)にはブナ陣地が全滅した。
残るギルワ陣地はバサブアとブナの東西から挟み撃ちされるように圧迫され、遂に1月中旬ブナ地区を退いて、ラエ、サラモア方面に退却した。
退却時に約5000まで減っていた兵力は退却途中でさらに失われ、3400人がブナの戦場からようやく脱出した。
歩けない傷病兵は置いて行かれたが、その命令を出した新任の南海支隊長小田健作少将は責任を取ってピストル自決した。
南海支隊はポートモレスビー攻略の途上とブナ地区の戦闘で、編成当初の人数とほぼ同数の約5500名が戦死した。
第2師団による10月24日・25日の総攻撃は完全に失敗したが、大本営も第17軍もガ島の奪回を諦めた訳ではなかった。
しかし、駆逐艦で細々と補給される食糧と弾薬では攻撃の方法がなかった。
ガ島の海浜を進軍する日本軍
11月14日、新しい兵力として第38師団主力約5000人が、11隻の輸送船に分乗してガ島へ到着しようとしていた。
しかし、米軍は接岸寸前にこの輸送船団を空襲して、7隻を沈没させた。
将兵は大部分が駆逐艦に救助されたが、兵器弾薬、食料は全て沈んでしまった。
残りの4隻は岸に乗り上げたが、陸揚げされた物資は食糧1500俵と、野砲・山砲弾薬260箱に過ぎなかった。
5000人の大部隊が殆ど丸腰で上陸してしまったのだ。
この第38師団の上陸直前に、第17軍司令部が推定した所では、ガ島にはそれまで27000人が上陸し、19000人が生きていると推定された。
しかし、戦闘に耐えられる平氏は約800人程度だった。
丸腰のまま上陸した第38師団も一か月後には同じ運命をたどる事になるのだ。
そういう中にあっても、当然、米軍の掃討作戦は続けられる。
ジャングル内のある患者収容所では患者と守備部隊の計488名が戦死した。
11月30日の事だという。
細々と続けられていた駆逐艦による食糧補給も潜水艦に切り替えられた。
その僅かな食糧を受け取る為に、ガ島西端のカミンボまで、各部隊は比較的元気な者を選んで派遣したが、帰りには遊兵、棄兵となった日本兵に襲われる者が続出した。
12月31日、御前会議はガ島からの撤退を正式に決定した。
昭和18年(1943年)2月2日から8日にかけて3回の撤退作戦が実施され、約10000人がガ島を離れた。
ガダルカナル奪回作戦は失敗のうちに幕を閉じた。
ガ島戦没者は20000名、このうち戦闘で死亡した者は約5000〜6000名で、他は餓死と病死だとされている。
第三次ソロモン海戦は第38師団を11隻の輸送船に乗せてガ島へ急いでいた11月12日から14日にかけて起こった。
連合艦隊はこの輸送を側面支援する為、第11戦隊の戦艦「比叡」「霧島」をガ島飛行場の砲撃に派遣したが、12日真夜中に米艦隊と遭遇、近接戦となり、混乱のまま両者互いに撃ち合い、「比叡」と駆逐艦「夕立」「暁」が沈没した。
米軍側は防空巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」の他、駆逐艦4隻を失った。
海軍作戦部戦争計画部長リッチモンド・k・ターナー提督は「海戦史上最も過酷な戦闘」と評した。
次いで13日真夜中、密かにガ島に近づいた重巡洋艦「摩耶」「鈴谷」はガ島飛行場に合計約1000発の20cm砲弾を撃ち込んだ。
ガ島飛行場の混乱に乗じて第38師団の輸送船団を接岸させようとしたのだが、船団は14日朝、空母「エンタープライズ」から発進した艦載機の集中攻撃を受け、7隻が沈没した。
前夜、ガ島飛行場を砲撃した艦隊も攻撃され、重巡洋艦「衣笠」が沈没した。
1000発の砲弾を撃ち込まれたヘンダーソン飛行場だったが、ブルトーザー(日本軍はガ島で初めて見た)でならし、鉄板を敷きなおしてたちまち飛行場を再建、翌日から何事もなかったように航空機が発着したという。
輸送は、ガ島への弾薬食糧を詰めたドラム缶を駆逐艦がタサファロング沖合まで運び、そこで海上投下して陸上部隊が小舟に拾い上げるという方式によった。
米軍はこの輸送駆逐艦隊(第二水雷戦隊。田中頼三少将指揮)を「トウキョウエキスプレス」と呼び、海軍は自嘲気味に「ねずみ輸送」(敵の目を盗んでコソコソとやるから)と呼んだ。
11月30日、それ海上投下中に米艦隊と遭遇、たちまち海戦となった。
結果は、駆逐艦一隻を撃沈されたものの、重巡洋艦「ノーザンプトン」を沈め、他の2隻の重巡洋艦に大被害を与え、日本の勝利とされている。
この海戦後まもなく、駆逐艦輸送も中止され、捕球は潜水艦に頼る「もぐら輸送」に変わった。
ガ島の陸軍部隊はますます飢えていったという。