なぜ、ミッドウェー海戦は日本軍の惨敗に終わったのか?
ミッドウェー海戦は「ミッドウェー作戦」というアメリカとオーストラリアの分断を謀る作戦の一環であった。
しかし、日本軍の暗号が既に米軍に解読されていた事や、先の珊瑚海海戦で、多くの航空機やベテランパイロットを失っていた事、そもそもミッドウェー作戦自体が無謀な作戦であった事など、多くの要因があった。
>> 主な敗因
真珠湾攻撃をはじめとしたマレー・シンガポール攻略、フィリピン攻略、そして蘭印攻略も順調に進み、南方進攻作戦は思わぬ成果を挙げつつあった。
大本営陸海軍部はこれを第一弾作戦と称していたが、その目的は「オランダ領インドネシア方面の油田地帯を確保して、長期持久の態勢を確立する」事にあった。
その当初の目的は予想を超える早さで達成されつつあったが、その後の作戦はまだ決められていなかった。
当時決定されていた作戦は、アメリカとオーストラリアの海上交通路を遮断するという目的からのニューギニア東部のラエ、サラモア、ポートモレスビー、それにソロモン諸島のツラギ攻略だけであった。
昭和17年(1942年)1月23日に、さしたる抵抗もなくニューブリテン島のラバウルを占領するや、大本営は29日に前記ニューギニアの三地区とツラギの攻略命令を出している。
そして日本軍は、3月8日にラエ、サラモアを占領したが、2日後の3月10日、米豪の航空部隊は大反撃に出てきた。
日本軍は多くの艦船に大被害を受け、ポートモレスビーとツラギの攻略は延期されていたのである。
戦いの主役である海軍では、昭和17年の初めから大本営海軍部=軍令部と連合艦隊司令部双方が、それぞれ次の目標選びを始めていた。
連合艦隊司令部の考えは、艦隊主力を再び東太平洋に進出させ、米機動部隊に決戦を挑んでこれを撃滅し、同時にハワイも攻略するというものだった。
だが、作戦の決定権を持つ海軍部は連合艦隊司令部案には反対で、第二作戦の主攻撃正面は、既に1月末に陸軍部の賛成も得ているソロモン諸島-ニューギニア-ニューカレドニア-フィジー-サモア方面に進出して、米豪遮断作戦(FS作戦)を敢行し、オーストラリアを孤立させるという案だった。
これに対して山本五十六長官を筆頭に連合艦隊司令部が強力に進めていた米機動部隊撃滅案の概要は、まずミッドウェー島を攻略(占領)して前進基地を確保、同時に、米機動(空母)部隊を誘い出して撃滅し、その後でFS作戦を実施する。
そして10月を目途にハワイ攻略作戦の準備を進めるというものである。
4月3日、この連合艦隊案が大本営海軍部=軍令部に正式に提出された。
海軍部は反対であった。
特にミッドウェー島攻略には強く反対した。
作戦が危険であるばかりでなく、米空母の誘いだしにも疑問があり、同島の攻略後の保持も困難であるという。
東か西か、次の作戦をめぐる連合艦隊司令部と海軍部の交渉は暗礁に乗り上げていた。
海軍と折衝していた連合艦隊の渡辺安次専務参謀は、ここで「切り札」を出した。
「山本長官は、この案が通らなければ連合艦隊司令長官を辞任するといっておられます。」
真珠湾奇襲攻撃案を通すときに使った、あの「切り札」をまたも持ち出したのである。
そして結果もまた同じに出た。
「山本さんがそれほど言うなら・・・」という永野修身軍司令部総長の決裁で同案は承認されたのである。
4月13日、連合艦隊司令部は次のような以後の作戦日程案を海軍部に伝えた。
海軍作戦決定の責任部署である大本営海軍部第一課の参謀たちは、連合艦隊司令部のゴリ押しに苦虫を噛み潰すのだった。
当然、両者の間には険悪な雰囲気が漂うようになっていたが、まさにその時、俗に「ドゥリットル空襲」として知られている米陸軍のB25爆撃機による日本本土初空襲が敢行された。
全くの奇襲であり、昭和17年4月18日早朝の事であった。
被害は僅かであったが、帝都・東京が敵機に爆撃されたという国民のショックは大きかった。
特に海と空の防衛の当事者である海軍の衝撃は大きい。
ドゥリットル空襲は連合艦隊司令部のミッドウェー攻略案を一挙に推し進める形となった。
5月5日、ミッドウェー(暗号名AF)、アリューシャン(暗号名AO)作戦は大本営から正式に発令された。
1942年5月8日にオーストラリア北東海岸の縁海、珊瑚海で行われた戦い。
交戦勢力はアメリカ軍・オーストラリア軍で、戦術的には日本側の勝利、戦略的にはアメリカの勝利であった。
史上初の航空母艦同士の決戦であり、対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた、歴史上最初の海戦でもある。
大本営の命令を受けた連合艦隊は、即日、各艦隊に第二段作戦命令を指令した。
既にこの時、第二段作戦の先鋒を切るポートモレスビー攻略部隊はラバウルを出発していた。
ポートモレスビーは東部ニューギニア南岸の要地で、連合軍はここの航空基地を拡張して、ラバウル空襲の根拠地としていた。
「MO作戦」と呼ばれたポートモレスビー攻略作戦は、その後、ソロモン諸島のツラギ攻略も併せて実施される事になった。
ガダルカナル島の対岸にあるツラギ島には、当時オーストラリア軍の水上基地があり、ソロモン統治の中心地でもあったからだ。
MO作戦の総指揮は第四艦隊司令長官井上成美中将が執る事になり、南雲機動部隊から第五航空戦隊(司令官・原忠一少将)の新鋭空母「翔鶴」と「端鶴」が引き抜かれた。
この二隻の空母を中心に「MO機動部隊」(指揮官・高木武雄中将)が編成された。
また、完成したばかりの軽空母「祥鳳」が第六戦隊を主体とする「MO攻略部隊」(指揮官・五藤存知)に編入された。
作戦はまずMO攻略部隊(MO主体と援護部隊)はツラギ攻略部隊を支援し、攻略後は機動部隊とラバウルの基地航空隊の援護の下にポートモレスビー攻略を敢行しようというものであった。
5月3日深夜、ツラギ攻略が実施された。
攻略部隊はなんらの抵抗を受ける事無くツラギを占領した。
その頃、米太平洋艦隊司令官ニミッツ大将は、ハワイの米海軍情報部が解読した日本海軍の暗号からポートモレスビー攻略計画を知り、着々と迎撃準備を進めていた。
しかし、空母「サラトガ」は1月に受けた魚雷の損傷修理が終わっておらず、空母「エンタープライズ」と「ホーネット」も東京初空襲から帰還していなかった。
すぐ使用できる空母は「ヨークタウン」と「レキシントン」だけであった。
チェスター・W・ニミッツ大将
ニミッツは二空母を合同させて第17機動部隊を編成した。
総指揮官にはフランク・J・フレッチャー少将(のち中将)を任命した。
米機動部隊は5月1日に珊瑚海南東海上に集結し、日本の艦隊を待った。
二空母は合計141機の攻撃機を搭載し、重巡7隻(うち豪艦2隻)、軽巡1隻(豪艦)、駆逐艦11隻(うち豪艦2隻)、給油艦2隻を随伴していた。
フランク・J・フレッチャー少将
5月3日夕刻、日本軍のツラギ上陸を知ったフレッチャー少将は、ただちに空母「ヨークタウン」を率いて北上、4日朝ツラギの日本軍水上基地や駆逐艦への爆撃を繰り返した。
ポートモレスビーに向かっていた日本のMO部隊も、米軍機来襲の報を受けるやツラギに急行した。
しかし、米機動部隊を発見する事は出来なかった。
その頃、ラバウルを出発したMO攻略部隊は、翌5日に軽空母「祥鳳」とツラギ攻略部隊の輸送船を収容してポートモレスビーへ急行していた。
MO機動部隊は、5月7日も早朝から索敵機を発進させ、米機動部隊の発見に全力をあげていた。
午前5時32分、索敵機から「米空母1隻、駆逐艦3隻発見」の報告が入る。
「瑞鶴」と「翔鶴」から零戦、艦爆、艦攻の合計78機が発進した。
指揮は真珠湾奇襲攻撃以来のベテラン、「瑞鶴」飛行隊長嶋崎重和少佐が執った。
ところが、攻撃隊が発進した直後、MO攻略部隊の索敵機から、別の位置で米空母を発見したとの報が入った。
しかし、原少将はそのまま攻撃隊を進撃させたが、目的地点に米空母の姿はなかった。
そこには油漕艦と護衛の駆逐艦の2隻がいるのみだった
嶋崎少佐はこの2隻を攻撃、沈没させた後、全機に帰還を命じた。
一方の米機動部隊は、同日の午前6時15分にはラッセル島南方115海里にあり、進路を北に転じていた。
そして空母「ヨークタウン」の索敵機から「日本艦隊発見!」の報を受けた。
フレッチャー少将は「レキシントン」と「ヨークタウン」から合計93機の戦闘機、雷撃機、爆撃機の大編隊を発進させた。
しかし米索敵機が発見した「日本艦隊」はMO攻略部隊であった。
一方、「祥鳳」では米空母発見の報せが入ったため、攻撃隊の発進準備にかかっていた。
12機編隊の米艦爆隊が襲ってきたのはその時だった。
米軍機は重巡には目もくれずに「祥鳳」に突進した。
「祥鳳」はジグザグ航法で出来の攻撃を辛うじて回避した。
敵の第一波が終わった時、「祥鳳」は無傷であった。
艦長の伊沢石之介大佐は、甲板に残る3機の零戦を急ぎ発艦させる事にした。
一番機、二番機、そして三番機が発艦しようとした時、「敵襲!!」と見張り員の絶叫が飛んだ。
米機の大群が襲って来たのだ。
「祥鳳」は懸命に攻撃を避けようとしたが、今度は避けきれなかった。
魚雷7発、爆弾13発を受けて大火災を起こしてしまう。
そして戦闘40分後の9時33分、祥鳳は沈没してしまった。
「祥鳳」は艦載機6機のうち3機を失い、他の3機はデボイネ島に不時着、乗組員630名が艦と運命を共にした。
尚、この時、米機の損失は僅か3機であった。
MO機動部隊の最初の攻撃が空振りに終わった後、原少将は「翔鶴」「瑞鶴」の熟練搭乗員のみで編成した夜間攻撃隊の出撃を決意した。
メンバーは嶋崎少佐率いる艦攻18機と、「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一(かくいち)少佐率いる艦爆12機の合計30機、78名の熟練搭乗員たちだった。
高橋少佐も真珠湾奇襲以来のベテランである。
夜間攻撃は悪天候をついて発艦し、米空母の予想位置に到着したが、そこに米空母の姿はなかった。
仕方なく帰路に着いたとき、米戦闘機と遭遇した。
爆弾や魚雷などの重い装備のままの空中戦となってしまい、日本機は艦攻8機が撃墜された。
米軍の思わぬ奇襲の為、夜間攻撃隊は魚雷や爆弾を空中に投下し、帰途についた。
とまもなく、闇夜に空母の灯火が見えた。
母艦に着いたと思い、ホッとした搭乗員たちは、着艦態勢に入る。
しかし、どこか様子の違う空母に、搭乗員たちはハッとする。
発見した空母は日本のものではなく、米軍空母「ヨークタウン」であったのだ。
慌てて夜間攻撃は急上昇した。
米機動部隊も日本機に気づき、猛烈な対空砲火を始めた。
攻撃隊は既に魚雷や爆弾を投棄していた為(爆薬を積んだまま、帰艦するのは危険なため)、米空母を真下にしながら攻撃を掛ける事が出来ないのだ。
このため、無事に母艦にたどり着けた機は「瑞鶴」の9機、「翔鶴」の8機のわずか17機に過ぎず、五航戦はこの戦闘で13機を失い、多くの熟練パイロットも同時に失ってしまった。
残る五航戦の稼働機数は零戦37機、艦爆33機、艦攻26機の合計96機だけとなった。
8日午前6時30分、「翔鶴」から飛び立った菅野兼蔵飛曹長の索敵機が、米空母発見の第一報を送ってきた。
「翔鶴」と「瑞鶴」から零戦、艦爆、艦攻の合計69機が、高橋少将の指揮のもとに出撃した。
日本の攻撃隊は、菅野機の誘導で午前9時5分に米機動部隊の上空に達した。
なお、長時間の索敵飛行に続いて、攻撃隊の誘導を買って出た菅野機は、このあと燃料不足から母艦に辿り着く事が出来なかった。
高橋少佐は輪形陣を敷く米機動部隊へ突撃を敢行した。
「レキシントン」と「ヨークタウン」に爆弾と魚雷が次々と命中し、「レキシントン」は3カ所から火災が発生した。
やがて「レキシントン」は浸水が激しくなり、さらに軽油タンクから洩れたガソリンの気化ガスに引火、大爆発を起こして操舵不能になった。
そして12時45分、二度目の爆発を誘発した「レキシントン」は乗員200余名、艦上機36機と共に海底に沈んでいった。
炎上し沈んでいく米空母「レキシントン」.2
「ヨークタウン」も命中弾一発、至近弾二発を受けて大きな損傷を被っていたが、沈没は免れていた。
この間、日本機は空中戦で米機23機を撃墜したものの、自らも12機を失っていた。
また、攻撃隊は全弾を投下したにも関わらず、「ヨークタウン」はまだ戦闘行動を続けていた。
結局、攻撃隊は「ヨークタウン」に止めを刺す事が出来ずに帰途に就いた。
その帰投の途中で米戦闘機に襲撃され、攻撃隊はさらに艦攻及び艦爆11機を失った。
日本の攻撃隊が米空母を攻撃している頃、「翔鶴」も熾烈な攻撃にさらされていた。
「レキシントン」と「ヨークタウン」から飛び立った戦闘機15機、雷撃機21機、爆撃機46機は8時30分に攻撃態勢に入った。
米攻撃隊はまず「翔鶴」に対して攻撃を開始した。
「翔鶴」は米機の魚雷を全て交わしたが、飛行甲板前部、後部、右舷側機銃砲台に3発の命中弾を浴びてしまった。
航行は可能であったが、甲板の損傷で攻撃機の発着が不可能になってしまった。
そこで飛び立っている攻撃機の収容を「瑞鶴」に任せ、自らは火災の鎮火を待って巡洋艦「衣笠」などに護衛されて戦線を離脱した。
「瑞鶴」は上手くスコールの中に身を隠し、攻撃を免れていた。
連合艦隊及び南洋部隊から「作戦続行」の命令を受けた機動部隊司令部では、改めて米機動部隊の追撃を検討したが、米空母2隻を撃沈したと判断していた事や、艦艇の燃料不足などにより、現下のMO機動部隊の編成を考えて追撃を断念した。
帰投した攻撃隊は「瑞鶴」機24機、「翔鶴」機22機の合計46機で、全て「瑞鶴」に収容された。
また機動部隊の上空直衛にあたっていた「翔鶴」機6機、「瑞鶴」機1機は不時着水して搭乗員のみが収容された。
さらに「瑞鶴」に収容された航空機のうち、修理不能になった12機が海中に投棄された。
現存機は零戦24機、艦爆9機、艦攻6機の僅か39機に過ぎず、修理可能とみられるもの17機であった。
それよりも、攻撃隊総指揮官の高橋少佐をはじめ、多くのベテラン搭乗員を失った事は、非常に痛手であった。
MO作戦の総指揮艦である井上中将は、ポートモレスビー攻略作戦の無期延期を決定した。
この決定に対して連合艦隊司令部は追撃を督促したが、既に米機動部隊は戦場を離脱していた。
こうして史上初の空母VS空母の戦いは終わった。
戦いは大型空母一隻を撃沈した日本側の勝利といわれたが、後に米軍が珊瑚海海戦で「日本は戦術的には勝利したが、戦略的には敗北した」と評したのも、多くの航空機と熟練パイロットの損失を指していったものである。
それはただちに現れ、続くM1作戦(ミッドウェー海戦)に「翔鶴」と「瑞鶴」の2空母が参加できなかった事でも証明された。
珊瑚海海戦が起きた時、広島の柱島泊地に碇泊していた「大和」(連合艦隊旗艦)の連合艦隊司令部では、ミッドウェー作戦の図上演習に余念がなかった。
現地の第四艦隊司令部から入る戦況報告は日本軍の攻勢を伝えている。
ところが、午後になって聴取する現地部隊の無電交信は、一転して悲観的になっていた。
そして午後1時45分には井上南洋部隊指揮官の「攻撃ヲ止メ北上セヨ」という無電を聞き、さらに午後3時ごろには「MO攻略作戦ヲ延期ス」という無電を聞く。
戦艦「大和」の連合艦隊司令部では「第四艦隊は「祥鳳」一艦位の損失で敗戦思想に陥っている。なぜ追撃をして戦火の拡大をはからないのか!」と、井上長官に対する憤慨が噴出していた。
だが、間もなく開始される一大作戦、連合艦隊司令部が陳頭指揮をとるミッドウェー作戦が、無残な敗北に終わった時、もはや珊瑚海海戦の結果を云々といえる連合艦隊参謀は一人もいなかった。
彼らが被告の立場に立たねばならなかったからだ。
しかし、この頃の山本五十六連合艦隊司令官の脳裏には、まだまだ米機動部隊の壊滅構想が大きな比重を占めていたという。
山本は、「米豪遮断というが、遮断の対象はやはりアメリカ機動部隊である。ミッドウェー攻略によって彼我の決戦が起これば、それこそ望むところである。もし、アメリカ艦隊が挑戦に応じないとなれば、その攻略によって、東方哨戒線の推進強化が出来るのではないか」と、軍令部との論争時、説得理由の一つに挙げていたという。
さらに山本は、ミッドウェー攻略作戦で米空母の撃滅が出来なくても、米空母は必ずミッドウェーを奪回にくると考えた。
つまり、ミッドウェーを占領さえしていれば、その後、米機動部隊を撃滅するチャンスはあるとみていた。
この山本の予想は当たっていた。
日本側のミッドウェー攻略の暗号解読に成功した後、米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ大将は第16任務部隊ウィリアム・ハルゼー中将の後釜として就任したばかりのレイモンド・A・スプルーアンス少将に言っている。
「日本軍がミッドウェーを占領しても、我々は、後からゆっくり取り返せばいい。戦況不利なら退却しなさい。」と。
ところで米軍は、日米開戦前から日本の暗号解読に取り組み、完全ではなかったが、要所要所の暗号の解読に成功していた。
5月5日、日本ではミッドウェー作戦に関する大海令(大本営海軍部命令)18号が発令された。
作戦目的は「陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」というものである。
AFとはミッドウェー、AOとはアリューシャン列島の地名略語であったが、5月初上旬ごろから頻繁に使われ始めたこの「AF」に米軍は注目していた。
日本軍の暗号の癖から「AF」が地名である事は理解できた。
そしてAF占領目的地である事が解読されると、急ぎAFがどこであるか検討された。
そして、過去に傍受した真珠湾攻撃時の通信文にAFが使用されていた事を突き止め、「AF」はミッドウェーの可能性が高いと予想した。
米軍は一計を案じた。
現地の部隊に「ミッドウェーでは蒸留装置が故障で真水に不足している」との虚偽の平文を発信させてみた。
この平文を傍受したウェーク島の日本軍は、「AFは現在、真水が欠乏している」と東京へ打電する。
この東京に送られた情報の傍受により、米軍は日本軍の次の攻撃目標を特定した。
さらにミッドウェー攻撃開始日をも解読、また珊瑚海海戦に参加した「翔鶴」「瑞鶴」の二空母も参加しない事を解読するなど、作戦の概要をほぼ知る事が出来た。
このため、珊瑚海海戦で大破し、その修理に一ヶ月は掛かるであろうといわれた空母「ヨークタウン」を3日で修理し、6月3日には米機動部隊の空母「ホーネット」「エンタープライズ」他と合流し、ミッドウェーでの戦いに間に合わせた。
明らかに米軍の情報戦の勝利であった。
空母4隻vs2隻のところを4隻vs3隻に出来たのだから。
5月25日、最終的な打ち合わせが連合艦隊と南雲機動部隊の幹部によって行われたとき、宇垣纏(うがきまとめ)参謀長が第一艦隊司令長官南雲忠一中将に訪ねている。
「ミッドウェー基地に空襲を掛けている時、敵基地空軍が不意に襲ってくるかもしれない。その時の対策は?」と。
南雲中将は思わず、航空参謀の源田実中佐を見たという。
「わが戦闘機を持ってすれば鎧袖一触である。」
すると山本は厳しい表情で源田に言った。
「鎧袖一触などという言葉は不用心極まる。実際に、不意に横槍を突っ込まれた場合にはどう応じるか十分に研究しておかなくてはならない。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的でなく、そこを衝かれて顔を出した敵空母をつぶすのが目的なのだ。いいか、決して本末を誤らぬ様に。だから攻撃機の半分に魚雷を付けて待機させるように。」
南雲がこの山本の言葉をどう捉えたか。
5月5日に発令された大海令には「連合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」とあり、陸海軍の中央協定には、作戦目標に「ミッドウェー島ヲ攻略シ、同方面ヨリスル敵国艦隊ノ機動ヲ封止シ、兼ネテ我ガ作戦基地ヲ推進スルニ在リ」とあり、さらに「作戦要領」の4には「海軍ハ有力ナル部隊ヲ以テ攻略作戦ヲ支援援護スルト共ニ、反撃ノ為出撃シ来ルコトアルベキ敵艦隊ヲ捕捉撃滅ス」とある。
これでは、米機動部隊撃滅とミッドウェー島攻略のどちらが主目的なのか、南雲中将には理解出来なかったのではないか。
山本は自分の考えを人に納得させるまで説明するような性格ではなかった。
山本は、自分の真の狙いが「反撃ノ為出撃シ来ルコトアルベキ敵艦隊ヲ捕捉撃滅ス」にあるならば、それを幕僚たちにも徹底させなければならなかったのだ。
だが空母4隻を率いる指揮官の南雲とも綿密な作戦計画を話し合っていない。
南雲に一言「ミッドウェー占領より、米機動部隊撃滅が真の目的だ」とはっきり言っていたならば、後に問題になる航空機への「爆装取替え問題」は起きなかっただろう。
結局、南雲は二兎(ミッドウェー島攻略と米機動部隊撃滅)を追う作戦として行動を開始する。
昭和17年5月27日、南雲忠一中将率いる第一機動部隊は広島湾を出撃した。
旗艦の空母「赤城」を筆頭に、ミッドウェー攻略作戦に参加する艦艇は150隻、航空機が1000機以上、参加将兵数が10万人と、まさに史上空前の作戦であった。
主力空母は「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻である。
一方の米側兵力は、ミッドウェー島守備隊に第六海兵防衛隊長ハロルド・D・シャノン中佐率いる2438名の海兵隊と、ミッドウェー海軍基地隊司令のシリル・T・シマード中佐率いる1494名が駐屯しており、旧式の急降下爆弾機や哨戒機を含む121機の飛行機があった。
そしてミッドウェーに前進した空母群はスプルーアンス少将率いる「エンタープライズ」「ホーネット」を中心とする第16機動部隊と、フランク・J・フレッチャー少将の率いる「ヨークタウン」を中心とする第17機動部隊である。
スプルーアンス少将
空母だけの比率で言っても4対3で日本軍が有利であるが、先の「ヨークタウン」の修復を計算に入れるわけがない日本軍は、海戦前に「米空母は、出てきても比率は4対2が有力」と考えていたのは当然の事である。
6月4日、「大和」に大本営から「敵機動部隊らしきものがミッドウェー方面に行動中の兆候があり」との情報が届いた。
山本は連合艦隊参謀黒島亀人大佐に「南雲機動部隊に転電するか」と尋ねたが、黒島は「(赤城でも)傍受されているでしょう、無線封止を破ってまで知らせる必要はないでしょう。」と答え、山本はそれに従っている。
しかし南雲座乗の空母「赤城」はアンテナも低く、この電文を傍受していなかった。
6月5日午前1時30分、ミッドウェー島攻撃に向けて友永飛行隊長率いる第一次攻撃隊(全108機)が飛び立った。
97式艦攻36機、99式艦爆36機、零戦36機からなる大編隊であった。
この第一次攻撃隊の出撃と前後して「赤城」「加賀」より97式艦攻各1機、重巡「利根」「筑摩」より零式三座水偵各2機、戦艦「榛名」より95式三座水偵1機の全7機が索敵に発進したが、「利根」の四号機のみ30分遅れで発進した。
勿論南雲にこの報は届いた。
そして各空母に残った艦攻には敵空母への攻撃に備えて800キロ魚雷、艦爆には250キロ爆弾を装着、第二次攻撃隊(全108機)として待機させた。
第一攻撃隊は発艦二時間後に、ミッドウェーのサンド島とイースタン島に攻撃を仕掛けた。
しかし、ミッドウェーにあった米軍機は、第一次攻撃隊が上空に到着する前に全機離陸しており、後に日本空母に対して5回に渡って攻撃を仕掛け、その多くは日本の零戦などに撃墜されていた。
一方、米機動部隊も日本の第一次攻撃隊とほぼ同時刻に索敵機を発進させ、日本空母群の位置を確認するや攻撃隊を発進させていた。
第一次攻撃隊の友永飛行隊長は、ミッドウェー島に対して一通りの攻撃を終えたが、攻撃は不十分であると判断し、「第二次攻撃の要ありと認む」を午前4時ごろ「赤城」に打電した。
索敵機が索敵線の先端に達する予定時刻は4時15分(利根四号機は30分遅れの発進の為、4時45分)であった。
しかし4時15分になっても敵空母発見の報告はない。
南雲の頭には「ミッドウェー付近に米空母は存在しない」との先入観が強かったため、一時も早く第二次攻撃隊を発進させたかった。
索敵機からの報告を待つ時間も惜しかったのだ。
また、第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将も、出撃前に連合艦隊司令部から「今回の出撃目標はミッドウェー島を攻略する事が第一優先」といわれていたから、ミッドウェー攻撃優先の意見を南雲中将に具申する。
南雲は第二次ミッドウェー攻略を決断した。
ただちに甲板に嫌いを抱いて待機する艦上攻撃機の兵装を、陸上攻撃用の爆弾に変換する作業が始められた。
ところが、遅延発進した「利根」四号機から「敵らしきもの十隻発見」の報が4時28分に送られてきた。
南雲中将は空母かどうかの確認を急がせる。
同時に爆装への変換を中止して「艦上攻撃機の兵装元へ(電装へ)」を命じたのである。
4時45分だった。
そこにミッドウェー攻撃を終えた第一次攻撃隊が戻ってきた。
既に燃料切れ寸前の為、各空母は収容を急がなければならない。
4隻の空母は上を下への大騒動となった。
何百キロもある魚雷を外して爆弾を装着する。
それをまた「魚雷に転換せよ」というのだから、時は経つばかりである。
午前7時20分、魚雷と艦船用爆弾への換装が済み、第二次攻撃隊の発艦準備がやっと整った。
空母「赤城」の甲板上には97艦攻18機が並び、プロペラがまわり始める。
まさにその時だった。
はるか上空からドーントレス米急降下爆撃機27機が「赤城」を襲ってきたのだ。
魚雷や爆弾を抱えた甲板上の97式艦攻は次々に火を噴き、誘爆し、「赤城」はたちまち炎に包まれた。
「加賀」「蒼龍」も米軍機の餌食になっている。
こうして3隻の空母は一気に炎上し始めた。
唯一残された「飛龍」の攻撃機が、後に米空母を攻撃、「ヨークタウン」にダメージを与えた。
その「飛龍」もドーントレス急降下爆撃機の攻撃を受け、炎上した。
「空母炎上」の報告が「大和」の艦橋に届いたとき、山本は前日から腹痛だったため気分を紛らわす為に将棋を指していた。
山本はこの報を受けると「うむ」と口走っただけであったという。
「大和」を旗艦とした戦艦7隻を中心とする連合艦隊主力部隊は、この時、南雲機動部隊の後方約300海里(約550キロ、一説では485海里で約900キロ)の位置に留まっており、実戦には参加していなかった。
そして「空母炎上」の報せを知っても前進する事なく、「作戦中止」を命令して退却行動に移っただけだった。
ミッドウェー攻略作戦の失敗には、情報、暗号解読の重要性を認識出来なかったこと、目的が曖昧であった事、さらに索敵の失敗(重要視せず、発進遅延、見落とし、索敵コースの外れ、発見位置の誤認、報告の不手際)、航空作戦指導、艦隊編成など様々な原因があげられている。
また、兵装転換による戦術ミスは、セイロン島沖海戦時にもみられたにも関わらず、またも同じ失敗を繰り返していた。
過去の失敗を蔑ろにし、戦訓としてただちに次の作戦に生かす事をしなかった日本軍の硬直性は、早くもこのミッドウェー海戦に現れていた。