ポーランド侵攻

ドイツ軍のポーランド侵攻

英仏が対独宣戦布告、第二次世界大戦へ

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻を開始。
これを受けて、ポーランドの同盟国であった英仏が同月3日にドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まった。
さらに同月17日にソ連もポーランド領内に侵攻し、ポーランドは独ソによって分割統治された。

ドイツがポーランドを戦力で圧倒

ドイツ陸軍150万人

1939年8月31日時点で、ドイツ陸軍は150万人の人員を持ち、計100個師団の戦闘部隊を保有していた。
ポーランド国境には、そのうちの54個師団が投入され、当時のドイツ陸軍が保有していた戦車部隊(装甲師団7個と軽師団4個)と自動車化部隊(自動車化歩兵師団4個)の全てがポーランド侵攻部隊に編入された。

戦車の数はドイツが8倍

対するポーランド軍は、同日時点での人員数が100万人で、ドイツ軍がポーランド正面に展開した兵力(80万人)よりも勝っていた。
しかし、機械化旅団は2個しかなく、非力な豆蔵車を除く戦車の数は、実質的にドイツ軍の8分の1程度しかなかった。

旧態依然としていたポーランド軍

ソ連との秘密軍事提携やスペイン内戦での実戦経験により、ドイツ軍の戦車部隊は独自の進化を遂げていた。
逆に、ポーランド軍の上層部は、騎兵という旧時代の兵と戦術に固執していたため、戦車など近代兵器の集団的な運用法でドイツ軍に大きく立ち遅れていた。

独軍の動きを読み違えたポーランド

限定攻撃を想定、全域攻撃を予想せず

1939年9月1日午前4時45分、ドイツ軍はポーランド全域の制圧を目指して広範囲で侵攻を開始した。
その事実を知ったポーランド軍首脳部は、予想外の展開に狼狽した。
彼らは、ドイツ軍の軍事侵攻があるとしても、その目標はダンツィヒとポーランド回廊(ポンメルン地方)の奪取に限定されるに違いないと思い込み、それを前提とした部隊配置を行っていたからである。

独戦車が防衛線をあっさり突破

ポーランド軍の防衛線は、開戦直後から、戦車部隊を伴ったドイツ軍の総攻撃により広い範囲で突破された。

ソ連の軍事技術が独軍を強くしていた

ドイツ軍の中でとりわけ目覚ましい戦果を挙げたのは、グデーリアン装甲兵大将を長とする第19軍団で、ソ連との秘密軍事提携にも参加した経歴を持つ彼は、自動車化部隊の移動速度が大きな武器になることを見抜いていた。

ソ連参戦、ポーランド政府は国外へ

ソ連もポーランド領を狙っていた

9月17日、ソ連軍の兵力4万7000人が「ポーランド東部の白ロシア人とウクライナ人の保護」という大義名分で、東からポーランドへの侵攻を開始する。
東西からの独ソ両軍による挟み撃ちで逃げ場を失ったポーランド軍は、絶望的な戦いを強いられた。

ポーランド軍が勝手に降伏しだす

そして9月25日、ドイツ空軍の爆撃機400機による大規模な爆撃がワルシャワに襲いかかると、ポーランド軍の首都防衛隊は抵抗の意欲を喪失し、9月27日にドイツ軍に降伏した。

独ソがポーランドを分割統治、政府は亡命

10月5日、ポーランドでの戦闘は終了し、ポーランド政府は国外に脱出した。
同国の国土は、そのほとんどがドイツとソ連の二大国によって東西に分割併合され、ポーランドという国名は地図上から一時的に消し去られた。

ポーランド侵攻の流れ(年表)

@ドイツの侵攻 1939年8月31日〜9月15日
ヒトラーは8月31日、ポーランド侵攻をドイツ軍に命じた。北方軍集団は、東プロイセン側から攻め込み、ビスワ川の西に広がるポーランド主力部隊の孤立化を企む。南方軍集団はウッチとクラクフへの進撃後、ワルシャワに向かう。ポーランド軍は、ブズーラで反撃に出たが、すぐに退却を強いられる。
Aドイツ進撃・ソ連侵攻 1939年9月15日〜28日
9月15日、進撃を続けた結果、ドイツ軍はワルシャワを包囲。さらに東進し、サン川を渡り、ソ連への帰属を認めた地域に侵入。一方、ソ連は、9月17日、白ロシア西部とウクライナ西部の2方面から、ポーランドに侵攻。ポーランド政府は、全方位から攻撃され亡命。残ったポーランド軍は降伏した。
Bポーランド分割 1939年9月28日〜10月12日
9月28日、ドイツの外務大臣(ヨアヒム・フォン・リッベントロップ)とソ連の外務大臣(ヴャチェスラフ・モロトフ)はポーランドの分割案をまとめた。ドイツはポーランドの西側半分を併合、ソ連はポーランドの領土の半分をウクライナ共和国と、白ロシア共和国に編入。ポーランド住民の一部は、故郷を失い、ドイツの占拠地域(ポーランド総督府)に送られた。

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