パリ陥落とフランス降伏

パリ陥落とフランスの降伏

1940年6月、ドイツ軍がフランスへの侵攻を開始。
フランス・イギリス両軍は主力が包囲された後、フランス軍は首都パリを守る予備兵力を持たず、ドイツ軍の侵攻を止める術が失われた。
ドイツ軍の電撃戦の前にパリは陥落、フランス政府は短期間のうちに降伏に追い詰められた。(1940年6月4日〜6月22日)

ドイツ侵攻を想定していたフランス

対ドイツ戦を想定準備していたフランス

フランスの政府と軍の上層部は、ヒトラーの再軍備宣言以来、将来の対ドイツ戦を想定した準備を進めていた。

戦車が通れなさそうな部分は手薄に防備

その骨子は、ドイツと対峙する東部の正面を三つの戦域に分け、戦車などの大兵力の通過に適さないと思われた中央部のベルギー領アルデンヌ地方の正面には最低限の部隊のみ配置した。

戦車が通れそうな部分を強固に守った

一方、ドイツと直接接する南の長い国境地帯では巨額建設費を投じた大規模な要塞線「マジノ線」の砲台で敵の攻撃を阻止し、ドイツ軍との直接対決はイギリス・ベルギー両軍の部隊とともに、ベルギー北部の平原地帯で行うというものだった。

ドイツが真逆から侵攻

フランスの想定は既に古くなっていた

当時のフランス軍上層部も、ポーランドと同様、第一次大戦型のイメージで次なる対ドイツ戦を想定しており、第一次大戦がそうであったように、攻撃側よりも防御側の方が有利だという思い込みにとらわれていた。

移動困難なルートを移動して来た独軍

だが、ドイツ軍は「アルデンヌ地方は移動が困難」「攻撃側よりも防御側が有利」というフランス軍の二つの固定観念を逆手に取り、そのアルデンヌに戦車部隊の大兵力を投入して電撃的な突破侵攻作戦を実施した。
ドイツ軍の新型戦車は移動困難と思われていたアルデンヌの森を移動可能になっていた。

仏の防御網が無力になり、独がパリに侵攻

仏英軍があっさり包囲される

この迅速な展開により、独仏国境に建設された「マジノ線」は無用の長物となった。
アルデンヌの森の突破に成功したドイツ軍の戦車部隊がまたたく間に英仏海峡に到達したことで、北部正面に展開したフランス軍とイギリス軍の主力は、北部のダンケルク周辺で袋のねずみとなった。

フランス政府が即座に降伏

パリを戦場にしない事が最優先された

後方にはフランス軍の予備部隊がほとんど残されておらず、もはや首都パリを守れないと悟った仏首相レイノーは、6月11日に同市の「無防備都市」宣言を行った。
無防備都市とは、都市の内部に戦闘部隊を配置せず、抵抗も行わないという、交戦による人的・物的な被害を避けるための措置だった。

6月14日、パリ占領

6月14日の早朝、ドイツ軍の先遣部隊がパリ市内に入り、午前9時45分には、カギ十字の描かれたドイツ国旗がエトワール凱旋門に翻った。

6月16日、フランス降伏

6月16日に総辞職したレイノー内閣の後を引き継いだフィリップ・ペタン元帥は、これ以上の抵抗は無意味と判断、ドイツとの休戦(事実上の全面降伏)を受け入れる決断を下した。

6月22日、休戦条約調印

6月22日、第一次大戦の休戦条約が締結されたのと同じコンピエーニュの森で、先の大戦とは「勝者と敗者」が完全に立場を入れ替える形で、休戦条約の調印式が行われた。

オランダ・ベルギー・フランスが降伏

オランダ・ベルギーは既に降伏

ドイツ軍に国土を蹂躙されたオランダとベルギーも、フランス降伏に先立つ形で、ヒトラーの軍門に降っていた。

オランダ政府首脳はイギリスへ亡命

ドイツ空軍による空襲で市民の死傷者が増大することを危惧したオランダ政府は、5月15日にドイツへの降伏を決断した。
そして、4月13日にハーグの王宮を脱出していたウィルヘルミナ女王とオランダ政府首脳は、イギリス軍の船でロンドンへと向かった。

ベルギーは降伏も亡命はせず

ベルギー国王レオポルド三世も、ダンケルクで孤立した英仏軍部隊の撤退がいまだ完了していない5月28日に、降伏の意向をドイツ側に伝えた。
ただし、彼はロンドンへの亡命を勧める側近の助言を断り、ベルギーに留まって国民と運命をともにする道を選んだ。

なぜドイツが勝ったのか

戦車&航空機などの新技術を連携させた独

戦車や火砲、師団の数は連合国の方がドイツ軍を上回っていた。
しかし、戦車の集中運用、航空機との綿密な連携などの 面ではドイツ軍が大きく勝っていた。

第一次大戦の時より進化していた独軍

ドイツ軍は第一次世界大戦のときから戦術を大きく進化させていた。
まず第一次大戦では存在しなかった急降下爆撃機によって敵の重要施設を攻撃。
同時に、前進を阻む要塞や橋をパラシュート降下によって奇襲して奪取。
その後地上の機動部隊が突入するという戦術で、空軍と地上部隊の連携でフランス軍の防御網をあっさり破っていった。

独軍のパラシュート降下

ドイツにおける空挺兵は「降下猟兵」と呼ばれた。
第二次世界大戦前期では、大規模な降下作戦を実行した。
このパラシュート降下は日本軍も多様している、当時は新しい戦術だった。


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