独ソ不可侵条約

独ソ不可侵条約の締結

1939年8月23日にナチス・ドイツとソ連が不可侵条約を締結した。
イツは日本・イタリアと防共協定を結んでおり、イツは日本にソ連・敵視軍事同盟の締結を迫っていた。
そんな状況下で、ヒトラーとスターリンが手を結んだ事に日本をはじめ、世界中は驚愕。
日本政府・平沼騏一郎内閣は総辞職に追い込まれた。

ポーランド分割の密約が結ばれた

この独ソ不可侵条約において、ヒトラーとスターリンは、ポーランドの分割統治の密約を結んでおり、後のドイツのポーランド侵攻・第二次世界大戦の発端となる条約であった。
独ソ不可侵条約を簡単にまとめる。

1939年8月23日 独ソ不可侵条約

突然の発表であった不可侵条約

チェコがドイツの保護領となってから5か月後の1939年8月25日、世界を驚愕させる声明が、ソ連の首都モスクワで発表された。
6年前の1933年にヒトラーが政権の座について以来、犬猿の仲と目されていたドイツとソ連が、8月23日付で相互不可侵条約を締結したのである。

英仏米によって、独ソが協力関係に

英仏米から除け者にされていた独ソ

第一次大戦後の国際秩序において、ドイツとソ連は、英仏米を中心とする「戦勝国」から除け者にされる国同士だった。

除け者同士の独ソが実は裏で協力

しかし、1920年代後半から30年代初頭にかけて、独ソ両国は裏で手を結び、軍事提携を行っていた。

独ソ軍事協力、互いに戦争に備えていた

ベルサイユ条約で軍用機や戦車の開発を禁じられたドイツに、ソ連は「戦勝国」の目が届かない自国領内奥地の土地を貸そこで兵器の研究開発とテストを行わせた。
それと引き換えに、ドイツ軍の将校がソ連の軍事学校に教官として招かれ、プロイセン流の参謀教育などを「赤軍」の将校に講義した。

ヒトラー政権発足、独ソ協力は一時解消

その後、共産党への敵視を公言していたヒトラーが1933年にドイツで政権を握ると、独ソの秘密軍事提携は解消された。

スペイン内戦、独ソは敵同士に

1936年にスペイン内戦が勃発した時には、ドイツがフランコの右派ナショナリスト軍、ソ連が左派の共和国政府軍に義兵と各種兵器り込み、戦場で戦う関係となった。
のちに独ソ戦で使用される両軍の戦闘機や戦車は、スペインの戦場で性能を試され、実運用を通じて有効な戦術が模索された。

1939年、独ソ関係が急速に改善

ソ連からドイツに歩み寄った

1939年4月1日、フランコはスペイン内戦での勝利を宣言した。
それから約2週間後の4月17日、ドイツ駐在ソ連大使のメレカーロフがドイツの外務次官フォン・ヴァイツゼッカーに独ソの関係改善を打診する。
5月3日にソ連の外相がユダヤ人のリトビノフからロシア人のモロトフに交替すると、独ソ関係は急速に改善された。

スターリンが英仏に不信を持っていた

この時、ソ連は英仏両国とも、軍事協力も含めた相互援助条約について協議を進めていた。
だが、英仏両国政府は1938年のミュンヘン協定でヒトラーに譲歩してチェコ(ズデーテン地方)を見捨てた前歴があり、スターリンは有事の際に英仏両国が充分な兵力をソ連のために投入するかどうかを疑っていた。

英国もソ連に対し不信を持っていた

8月12日、英仏軍事使節団がモスクワに到着したが、使節団の団長は英仏両軍内でも地位の低い人物で、ソ連が要求した政府高官の派遣はイギリス政府によって拒絶されていた。
そして、有事の際にイギリス軍が派兵できる兵力は歩兵5個師団と機械化1個師団だと知ったスターリンは、英仏よりもドイツと組んだ方が当面は有利だと判断し、ドイツとの外交交渉に本腰を入れ始めた。

ポーランドとドイツの対立

ドイツがポーランドに旧領の返還を求める

一方、ドイツは1938年10月から、旧ドイツ帝国領のポンメルン地方(ポーランド北西部、第一次大戦後のベルサイユ条約でポーランドに割譲)を横断して、飛び地のドイツ領・東プロイセンと陸路で結ぶための細長い交通路の割譲と、同じくベルサイユ条約で非武装の国際自由都市となった旧ドイツ領ダンツィヒのドイツ帰属を承認せよという要求を、ポーランド政府に提示していた。

ポーランドが拒否

だが、ポーランドがこれらの要求を拒絶したことで、ドイツとポーランドの関係が悪化した。

ヒトラーがポーランド侵攻を指示

ヒトラーは1939年4月3日にポーランドとの戦争準備を軍に命した。
4月2日には、5年前に締結していたポーランドとの不可侵条約を破棄ると発表した。

ヒトラーがソ連に接近

ドイツがポーランドへの侵攻を開始する際、最大の懸念は東のソ連がポーランドを支援することで、その可能性を消すために、ヒトラーもソ連に接近した。

不可侵条約から一気に開戦に

英仏はポーランドの支援に動けなかった

ポーランドは、イギリスやフランスといくつかの条約を結び、軍事的な同盟関係にあったが、ドイツとの戦争が始まった時、英仏両軍がすぐにポーランドの救援に向かうことは困難だった。

不可侵条約は開戦のカウントダウンだった

このような状況下で、スターリンは8月24日、ドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッペントロップのモスクワ来訪を承認するとの電報を、ヒトラーに打電させた。
西と東に隣接する二つの大国が、独ソ不可侵条約という形で手を結んだことで、ポーランドは戦略的に極めて危機的な状況に追い込まれた。
第二次世界大戦のカウントダウンは、この時に始まった。


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