ドイツによる併合

オーストリアとチェコの併合

1938年3月13日にオーストリア、1939年3月15日にチェコが、ヒトラー率いるナチスドイツによって併合された。
生まれ故郷のオーストリアに侵攻し、そこで歓迎を受けたヒトラー、彼の領土的野心の第一歩であった。
両国の併合の経緯を簡単にまとめる。

ヒトラーの意向による併合だった

1937年11月5日、会議の席で宣言

1937年11月5日、ヒトラーは陸海空3軍の総司令官と外相が列席する会議の席で、ドイツの「生活圏(レーベンスラウム)」を確保するため、隣国オーストリアとチェコスロバキアを近い将来に併合する意向だと宣言した。

オーストリアはドイツ人が多かった

ヒトラーが生まれた国でもあるオーストリアは、人口の9割以上、600万人のドイツ人を擁する国家だった。

ドイツのオーストリア併合

ドイツ軍が軍事侵攻

それから3ヵ月が経過した1938年3月11日、ヒトラーはオーストリアへの武力侵攻を命令し、翌3月12日にはドイツ軍が国境を越えてオーストリア領内へと入った。

オーストリアでは併合が支持された

侵攻したドイツ軍の部隊が、オーストリア軍の抵抗ではなく、人々の歓喜の声と花束で好意的に迎えられているとの報告を受けたヒトラーは、オーストリアの全域をドイツへと併合する法律を両国政府に作成させ、3月13日付で公布した。
オーストリア国民の99.6%も、国民投票で「ドイツへの併合」を支持したとの結果が発表された。

ズデーテン地方の併合に乗り出す

軍事産業の技術力と生産力を欲していた

この成功に気をよくしたヒトラーは、次なる獲物であるチェコスロバキア併合の第一歩として、ズデーテン地方の割譲を公然とチェコスロバキア政府に要求した。
彼がチェコスロバキア併合を望んだ最大の理由は、同国が軍事産業の分野でオーストリアを上回る技術力と生産力を保有していることだった。

チェコスロバキアもドイツ系住民が多かった

チェコスロバキアは、約725万人のチェコ人と、約325万人のドイツ系住民(ズデーテン・ドイツ人)、約200万人のスロバキア人で構成されていた。
ドイツ系住民は国全体の人口では2番目に多いにも関わらず、それに見合った発言力を得ていないとして、政府への不満を募らせていた。

両国が開戦寸前の緊張状態に

1938年5月16日、ヒトラーは12個師団のドイツ軍部隊をズデーテン地方に隣接する国境のドイツ側へと配備させ、チェコスロバキア侵攻に向けた準備を命じた。
これを察知したチェコスロバキア軍が、5月20日に戦争準備を開始したことから、両国の国境は一触即発の状態となった。

チェコとズデーテン地方が併合

英仏がヒトラーの要求を認めてしまう

だが、ヨーロッパでの新たな戦争勃発を恐れた英首相チェンバレンは、仏首相ダラディエとともに、ヒトラーの要求を認める形での事態収拾に動き出した。
9月29日、独英仏伊4国の国家指導者がドイツ南部のミュンヘンに集まり、チェコスロバキア問題の最終的な解決法が話し合われた。

ドイツに多数の地域が併合される

翌9月30日、ズデーテン地方に加えてチェコスロバキア国内でドイツ系住民が50%以上を占める地域ドイツに併合することを認める「ミュンヘン協定」が調印された。
そして、1939年3月15日には、同国の西半分であるチェコが「ベーメン・メーレン保護領」としてドイツに併合された。

英国の融和政策がドイツの更なる侵略を招く

各国の思惑

ドイツの要求を認めた英仏の判断は現代からは信じられないモノであったが、当時としては戦争回避のための苦肉の策であった。
英国とはソ連と対峙する上でドイツを敵に回す事が出来なかった為、可能な限りドイツに譲歩して、対ソ連陣営に引き込む狙いであった。
そして、フランスは英国に同調、イタリアは仲介者として存在感を発揮したい思惑があった。

ヒトラーに騙された英国

ヒトラーは「領土要求はズデーテンが最後」と発言。
英仏両国はこれを信じ、ズデーテン地方のドイツへの割議が決定。
ヒトラーの東欧侵略を容認するこの宥和政策が、さらなる侵略を許すことになる。


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