真珠湾攻撃

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃は1941年(昭和16)12月8日、ハワイ真珠湾の米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃。
当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)であった。
太平洋戦争における南方作戦の一環として、開戦劈頭でマレー作戦に次いで実施された。
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に喪失した。

攻撃を受けて黒煙を上げる米艦船

攻撃を受けて黒煙を上げる米艦船
手前がウェストバージニア、右がテネシー

日米開戦までの道のり

日米開戦を想定し始めた日本

昭和16年の2月初頭、源田実中佐は個人的にも親しい大西瀧治郎少将から「相談したいことがあるから、鹿屋に来てくれ」という連絡をもらった。
このとき源田中佐は第一航空戦隊(第一航空艦隊の前進)の航空参謀で、有明湾の志布志沖に停泊していた旗艦の空母「加賀」に乗艦していた。
大西少将も源田中佐と同じ“航空屋”で、つい先頃の1月15日に編成されたばかりの第十一航空艦隊の参謀長として鹿屋に赴任していた。
鹿児島県の鹿屋は海軍陸上攻撃機の中心基地で、司令部も鹿屋にあった。

山本五十六からの手紙

源田中佐はすぐに鹿屋の参謀長室に大西少将を尋ね、大西は源田中佐に一通の手紙を渡したという。
手紙の表には「第十一航空艦隊司令部 大西少将閣下」と墨書きされ、裏には「山本五十六」とあった。

連合艦隊司令長官 山本五十六

連合艦隊司令長官 山本五十六

手紙の内容は源田氏の『真珠湾作戦回顧録』によると、次のようだった。

山本五十六による真珠湾攻撃作戦

「国際情勢の推移如何によっては、日米開戦も已むなきとなる。日米が武器をとって相戦う場合、我が方としては、何か余程思い切った戦法を取らなければ、勝つ事は出来ない。それには開戦すぐに、ハワイ方面にある米艦隊の主力に対し、我が第一、第二航空戦隊飛行機の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋侵攻を不可能にしなければならない。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざる事なるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力をあげる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すれば良いか研究してもらいたい。」

山本五十六は当時の連合艦隊司令長官で、当時の日本海軍にあっては文字通りの実力者である。

開戦前の真珠湾と戦艦「ウエストバージニア」

開戦前の真珠湾
戦艦「ウエストバージニア」が航行中

源田中佐に作戦研究を依頼した大西少将

源田中佐が手紙を読み終わるのを待って、大西少将は言った。
「君にこの作戦の研究をして欲しい。出来るか出来ないか、どうすれば出来るか、それが知りたいのだ。」
二人は手紙にある攻撃目標が戦艦である事の是非、片道攻撃の問題、水深12メートルという真珠湾での雷撃の問題、攻撃時刻などを論議して別れた。

海相に出された奇襲作戦構想

ドイツの裏切りに平沼内閣総辞職

米内光政海相の下で海軍次官をしていた山本五十六中将(昭和15年11月に大将に昇進)が、連合艦隊司令長官に親補されたのは昭和14年8月30日だった。
その10日前の8月21日、、日本と「防共協定」を結んでいるドイツは、日本に何の事前連絡もなしに「独ソ不可侵条約」を締結した。
この為、米内光政海相・山本五十六次官・井上成美軍務局長の“海軍トリオ”の猛反対の中、陸軍の推すドイツ、イタリアとの三国同盟締結問題に悩んでいた平沼騏一郎内閣は、ドイツの裏切り行為に「欧州の天地は複雑怪奇」という有名な言葉を残して8月28日に総辞職した。

そして米内は海相を辞めたが、山本はそのまま時間の職を続けたいと思っていた。
だが、山本の身を案じた米内は、山本を説き伏せて海上勤務を承諾させた。
三国同盟を締結すれば必ず米英と戦争になると、強硬に反対する米内や山本の下には、陸軍の意を体した右翼などからの脅迫状が相次ぎ寄せられ、実際に身の危険が迫っていたからである。

連合艦隊司令長官の親補式を済ませた翌8月31日、山本は東京を発って和歌山に向かった。
旗艦「長門」を始めとする連合艦隊が和歌乃浦に入港していたからだ。

突如、始まった第二次世界大戦

9月1日、慌ただしく「長門」艦上で着任式を済ませた山本は、その夜は南紀白浜に宿をとった。
そして山本が副官の藤田元成中佐と温泉宿に入った頃、ヒトラーのナチスドイツが突如、ポーランド領内に電撃的な進撃を開始していた。
翌々9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告、第二次世界大戦が始まった。

ドイツの奮闘

日本海軍の第一線指揮官になった山本五十六長官が、ヨーロッパでの大戦勃発の報をどう受け取ったかは記録にない。
その後、日本は破竹の勢いでヨーロッパを席巻するドイツ・イタリアと三国軍事同盟を結び、次第に欧米諸国との対立を深めていく。

このままでは米国と戦争になる

駐米武官などを務め、米国の国力を知り尽くしている山本五十六長官はもとより、米内光政、井上成美などといった避戦派の人達は誰もがそう思っていた。
事実、事態は日米開戦へと駆け足で近づいていた。

真珠湾攻撃の発案

もし米英と戦争になれば、日本は滅びる。
山本五十六長官はそう考えていたが、しかし連合艦隊司令長官という現場の最高責任者の地位にある以上、「やれ」と言われれば拒む事は出来ない。
日米が開戦した場合の作戦は、しっかりと立てておかなければならなかった。
そこで山本が考えたのが真珠湾攻撃だったのだ。

海軍大臣及川古志郎大将に作戦を伝える

昭和15年11月15日に海軍大将に親補された山本長官が、開戦すぐにハワイの米太平洋艦隊を撃滅しようという具体案を、第三者に初めて明かしたのは昭和16年1月7日の事だった。
相手は当時の海軍大臣及川古志郎大将で、山本は私信の形で3千近い長文の手紙を同日付で書き送った。
その内容は、空母主体の機動兵力(航空兵力)を総投入して真珠湾の米艦隊を壊滅させるというモノで、後に大西少将に送った手紙の内容と同じほぼモノだった。
手紙には「客年11月下旬、一応口頭進言セルトコロト概ネ重複ス」とあるから、及川海相にとっては初耳の作戦構想ではなかったようだ。
山本長官が航空作戦の第一人者であった大西少将に作戦研究の手紙を出したのは、それから間もなくの事だった。

対米戦争を甘く見ていた日本海軍

日米が開戦した場合、日本海軍は明治以来の「漸減・邀撃作戦」を柱として、日本の海軍は兵力の整備と訓練を行っていた。
この旧態依然とした考え方に、山本は不満を持っていた。
航空の発達した当時では艦隊決戦は起こり辛く、さらに日本本土の空襲の危険性の回避、そして山本はあくまで日本が米国に戦争で勝てるとは考えてなかった。
日本と米国では、国力にしろ、戦力にしろ既に優劣がはっきりしている。
山本は劣勢(日本)が優勢(米国)と戦うには、日本が先手を取り、積極的に米国の弱点を突き、終始米国を守勢に追い込んでいくしかないと考えていたようだ。
それは日本海軍が描いていた「漸減・邀撃作戦」とは相半するモノだった。

源田中佐が真珠湾攻撃の草案を大西少将に提出したのは鹿屋訪問の約一週間後だった。
この源田案に若干の手を加え、大西少将が山本長官に計画書を手渡したのが四月初め。

真珠湾奇襲攻撃計画が軍令部に提出される

一方、戦艦「長門」に置かれている連合艦隊司令部でも、首席参謀の黒島亀人大佐の命令で航空参謀の佐々木彰中佐が真珠湾攻撃の研究に入っていたが、まだ具体案は見ていなかった。
そこで山本長官は黒島大佐と戦務参謀の渡辺安次中佐を長官室に呼び、真珠湾作戦の構想を打ち明けた。
山本と大西の個人的構想にすぎない真珠湾奇襲攻撃計画は、こうして連合艦隊司令部の作戦計画へと拡大していく。
同時に山本長官は大西・原田案に手を加え、正式な連合艦隊作戦計画案として軍令部に提出した。

連合艦隊の猛訓練

静かに攻撃訓練が始まる

連合艦隊司令部や新たに編成された第一航空艦隊の幕僚たちは、山本長官からハワイ奇襲攻撃案を示されてからは、全海軍からそれとなく各科の優秀な人材を集め、適材適所に移動させていた。
そして目的は極秘事項だったが、真珠湾攻撃を想定した各種訓練も密かに開始していた。
水深わずか12メートルと浅い真珠湾を想定しての浅海面雷撃訓練、高度3〜4000という高空から爆撃する水平爆撃の命中精度アップ訓練など、それまでの訓練とは一味も二味も違う実戦訓練ばかりだった。

「赤城」の零戦パイロットたち

真珠湾攻撃当時の「赤城」の零戦パイロットたち
2列目中央にいるのが板谷茂少佐、右隣が進藤三郎大尉

日本列島の「地形」を駆使した戦闘訓練

訓練は機種別に九州の各基地で行われていたが、ハワイの真珠湾に碇泊する米艦艇群を目標にした雷撃訓練は、桜島を挟んだ鹿児島の錦江湾で行われていた。
湾の推進も浅く、地形的にも真珠湾に似ているという理由からだった。
当初、攻撃機のパイロットたちは、碇泊している艦を目標に雷撃訓練をやると聞いて、「動いていない艦の攻撃など命中するに決まっている」とバカにしていたという。
だが、目標艦は陸岸から500メートル、魚雷の沈度12メートルで陸地側から目標に接近すると聞いて、今度は誰もが驚いた。

鹿児島・錦江湾

鹿児島・錦江湾
真珠湾と地形が似ており、雷撃訓練が行われた

当時の鹿児島市街

当時の鹿児島市街
中央に山形屋デパートが見える

真珠湾攻撃が明かされる

昭和16年10月7日、この秘密の訓練に励んでいる現場の指揮官たちが第一航空艦隊旗艦「赤城」に招集された。
そして、今までの訓練が、実は真珠湾攻撃を想定したものである事が初めて明かされた。
これら艦爆、水平、雷撃の各指揮官を指導統制するのが、この作戦のために「艦隊司令部幕僚事務補佐」に任命され、8月末に「赤城」飛行隊長に着任した淵田美津雄中佐(10月15日に中佐に進級)である事も発表された。

隊員たちは淵田中佐を総隊長と呼び、連日の猛訓練を繰り返した。
日向灘での空母発着訓練、洋上航法通信訓練、そして標的艦「摂津」を目標にした碇泊艦に対する単機あるいは編隊による水平爆撃、雷撃訓練など、午前・午後・夜間と昼夜続く反復訓練を続けた。

正式に真珠湾攻撃準備が開始

軍令部は反対していた真珠湾攻撃

連合艦隊司令部から出された真珠湾奇襲攻撃案に対し、海軍の全ての作戦を決定する軍令部は、大反対であったが、連合艦隊側は一歩も引かなかった。
軍令部が作戦を認めたのは10月19日の事であった。
軍令部との交渉に当たっていた連合艦隊首席参謀の黒島大佐は、この日も上京して軍令部側と交渉していたが、相変わらず埒があかなかった。
そこで黒島大佐は「山本長官は、ものこの案が採用できないというのでしたら、連合艦隊司令長官の職をご辞退すると申しております」と、恫喝に近い交渉に入った。
これを受け、軍令部次長の伊藤整一少将や永野修身軍令部総長は、「山本長官がそれ程までに自信があるというのなら、総長として責任を持ってご希望通り実行するよう致します」と認めざるを得なかったのだ。

御前会議で攻撃準備開始が決まる

この時、既に日米交渉は決裂寸前の状況にあった。
そこで日本政府は11月5日の御前会議で「12月1日午前零時までに交渉が成功しない場合は武力を発動する」事を決め、陸海軍部隊に作戦準備に入るよう命じたのだった。

機動部隊出撃

ハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲する南雲忠一中将指揮の第一航空艦隊(空母六隻を中心とした機動部隊)は、急遽、訓練中の各飛行隊を母艦に収容し、集結地の択捉島単冠湾に向かう。
各艦船は泊地を出港と同時に一切の電波通信を禁じられ、乗組員は「訓練地に向かう」とだけ言われ、本当の目的は告げられなかった。
隊員たちが正式に「真珠湾を奇襲する」事を告げられたのは、機動部隊が単冠湾に集結し終えた11月24日だった。
そして11月26日、機動部隊は一斉に錨を上げて、ハワイへ向け出航した。
水深12メートルで使用できる魚雷の目途も立っており、洋上補給も順調だった。

出撃前の空母「瑞鶴」の搭乗員たち

出撃前の空母「瑞鶴」の搭乗員たち
中央に立っているのが嶋崎重和少佐

新高山登レ1208

12月2日、機動部隊は「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」という、日米開戦日を知らせる暗号電を受信した。
さらに、ホノルルの日本総領事館の書記生、森村正こと吉川猛夫海軍予備役少尉からの、詳細な真珠湾在泊艦艇の情報も軍令部を経由して入り始めている。

最期まで戦争回避を望んでいた山本五十六

一方、山本五十六大将は12月3日、天皇に戦争に対する決意を述べる為に上京していたが、この時でさえなお「野村(駐米大使)さんは何とか日米交渉をまとめてくれるだろう」と、日米戦争回避への希望を繋いでいた。
しかし交渉成立の“朗報”は遂にもたらされなかった。

真珠湾攻撃開始

真珠湾上空に殺到した攻撃隊

機動部隊はハワイ時間の12月7日午前6時(日本時間・8日午前1時3分)、オアフ島の北およそ350qに達し、予定通り艦首を風上に向けて次々と攻撃隊を発艦させた。
風速40メートル、艦は激しくピッチング(縦揺れ)を繰り返していたが、訓練を重ねた優秀なパイロットたちは、苦もなく発艦していった。
そして、攻撃隊はわずか15分で発艦作業を終えた。

出撃する攻撃隊員たち

出撃する攻撃隊員たち

トラ・トラ・トラ

午前7時49分、オアフ島のカフク岬から侵入した第一次攻撃隊183機を率いる淵田中佐機は「全軍突撃せよ」を意味するト連送を打電。
さらに3分後、真珠湾のアメリカ太平洋艦隊が全く無防備な姿で日曜日の朝を迎えているのを認めた淵田は、「トラ・トラ・トラ=われ奇襲に成功せり」の電文を打った。

攻撃開始

7時55分、急降下爆撃機が真珠湾口の東側、米海軍基地フォード島の対岸にある陸軍のヒッカム飛行場に日米開戦の第一弾を投下した。
忽ち濛々たる黒煙が吹き上がる。
雷撃隊はフォード島の戦艦泊地に突入していく。

攻撃を受ける戦艦群とヒッカム飛行場

攻撃を受けて黒煙を上げる戦艦群とヒッカム飛行場(手前下)

米戦艦に魚雷が直撃

最初の魚雷は戦艦「カリフォルニア」に放たれた。
「カリフォルニア」には魚雷3発、爆撃弾1発が命中し徐々に沈んでいった。
さらに「ネバダ」「ウェストバージニア」「オクラホマ」、そして「アリゾナ」といった米太平洋艦隊の誇る戦艦群が、ことごとく黒煙を噴き上げ始めた。
地上でも米陸海軍の飛行機が、急降下爆撃や戦闘機の機銃掃射によって次々と破壊されていった。

攻撃を受けて黒煙を上げる米艦船

攻撃を受けて黒煙を上げる米艦船
手前がウェストバージニア、右がテネシー

すぐに始まった米軍の反撃

急襲されても冷静に対応した米兵たち

7時58分、米海軍無線局の無電士カール・ボイヤーは「真珠湾ニ空襲、コレハ演習デハナイ」という平文(暗号の掛かってない電報)を打電した。
平和な日曜日の朝の静けさを破った日本軍の奇襲に対して、最初に反撃を試みたのは艦隊の乗組員たちであった。
水兵たちは日本軍の銃爆撃下で銃座に付くと、果敢に攻撃隊に対空砲火を撃ち上げた。

炎上する飛行機の誘爆を防ぐ米兵たち

炎上する飛行機の誘爆を防ぐ米兵たち

米軍によって撃墜される日本の攻撃機

第一次攻撃隊が去った30分後の午前9時前、修羅場と化した戦場に第二次攻撃隊167機が飛び込んだ。
迎撃態勢を整えた米軍の反撃は熾烈で、第二次攻撃隊は撃墜されたものも含めて20機が未帰還となった。
だが、米軍の混乱と被害はそれにもまして大きなものだった。

潜水艇も戦果をあげていた日本軍

日本軍の攻撃は空からだけではなく、五隻の特殊潜航艇(2人乗りの小型潜水艦)によって海底からも行われた。
真珠湾口で撃沈された潜水艇もあったが、この特殊潜航艇が戦艦「オクラホマ」への魚雷攻撃に成功していた。

戦艦群の消火作業

戦艦群の消火作業

米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル大将

この「潜水艦撃沈」の報せを聞いた米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル大将が、丘の上の官舎を出て司令部に向かおうとした時には、既に真珠湾はいたる所で黒煙を噴き上げていた。
艦隊司令部にたどり着いた後も、日本軍に蹂躙され、壊滅していく戦艦群を手をこまねいて見ているしかなかった。
その時、勢いを失った流れ弾がキンメル大将の胸ポケットにあった眼鏡ケースに当たって跳ね返った。
キンメル対象はそれを拾ってポケットに入れ、「これに当たって死んでいたら、どんなに良かった事か」と呟いたという。
この日から一ヶ月を経ないで、キンメル大将は真珠湾攻撃の責任を問われて退役処分となり、やがて軍法会議に掛けられる身となってしまった。

日本軍の戦果が山本に届く

そのころ山本は、旗艦「長門」で真珠湾攻撃の第一報を待っていた。
8日午前3時19分、機動部隊からの第一報が届いた。
淵田中佐の打電した「ト連送」である。
以後、時間が経つにつれ攻撃隊からの戦果報告が次々と入電してきた。
「敵戦艦を雷撃、効果甚大」
「ヒッカム飛行場を攻撃、効果甚大」
奇襲は大成功であったが、山本には気掛かりな事があった。
山本は攻撃の報せに耳を傾ける一方、藤井茂政務参謀に向かって、「開戦の通告は、奇襲前に届くようにしてあったろうな」と確かめた。

炎上するホイラー飛行場の施設と航空機

炎上するホイラー飛行場の施設と航空機

間に合わなかった日本からの開戦通告

日本の最後通牒は野村吉三郎駐米大使を通じて真珠湾攻撃開始の30分前にコーデル・ハル米国務長官に渡される事になっていた。
全14部に分かれた最後通牒は外務省の暗号電で駐米大使館に送られていたが、翻訳に手間取り、最後の第14部が清書されたのは手交予定時刻を過ぎた午後1時50分の事だった。

開戦通告が米国に届く

第二攻撃隊が真珠湾に殺到していたワシントン時間の午後2時5分(ハワイ午前8時35分 日本午前4時5分)、通告文を携えた野村駐米大使と来栖三郎特派大使が国務省に到着し、15分後にハルと会見した。
当時、駐米海軍武官だった実松譲によれば、ハルは文書に最後まで目を通すと、野村に目を据えたまま言ったという。

日本の宣戦布告に対するハルの返答

「ハッキリ申し上げるが、私は過去9カ月の間、貴方との交渉中、一言も嘘を付かなかった。それは記録を見ればよく分かる事だ。私の50年の公職生活を通じて、これ程に恥知らずな、虚偽と歪曲に満ちた文書を見た事がない。こんな大掛かりな嘘とこじ付けを言い出す国がこの世にあろうとは、今の今まで夢にも思わなかった。」

話を打ち切った米国

野村は、なにか言いたげな様子であったが、ハルは手を振って、何か言いだしそうな野村を制止し、顎でドアの方を指した。
翌日午後零時29分(ワシントン時間)、米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、万雷の拍手に迎えられて上下両院本会議場の演壇に上り、演説を行った。 真珠湾への奇襲攻撃に向けた米国からの返答であった。

米国に筒抜けだった日本の動き

状況を読み違えた山本五十六

山本五十六の真珠湾攻撃における狙いは、米国に対し「開戦間もなく強い挫折感を与える」事だったが、山本の目論見は完全に外れる事となった。
真珠湾への奇襲攻撃によって、米国の世論は一気に「リメンバー・パールハーバー」、日本への復讐心に燃えついたのだ。
日本からの宣戦布告が間にあわなかった事も無関係ではなかったかも知れないが、後の祭りであった。

既に日本の暗号は米国に解読されていた

開戦前、既に米国は日本の外交暗号の解読に成功しており、当然、日本側はその事実に全く気付いていなかった。
特に最高機密に属する暗号情報は殆ど解読され、外務省と日本大使館のやり取りの筒抜けだったのだ。
ハル国務長官は野村から最後通告を受け取る以前にその内容、日本の宣戦布告を知っていたのだ。
ハルが野村の前で見せた言動は芝居であった。

ホワイトハウスは日本の最後通告分を解読していたが、ハワイの陸海軍部隊には一通の警告文も届いてなかった。
この外交暗号解読による重要な情報がハワイに知らされなかった事を後で知ったキンメルは激怒したという。

何故、米国は日本の宣戦布告を極秘にしたか?

ここからの記述は憶測であり、物的な証拠は残っていない事を先に述べておく。
ルーズベルトは第二次世界大戦に参戦したがっていたと思われる。
それまでは米国は、第二次大戦に対して立場上、中立であった。
しかし、既にナチス・ドイツに圧迫されていた英国に対しては援助を行っており、ウィンストン・チャーチル英首相も米国に参戦を即していた。
その為、ルーズベルトは日本からの宣戦布告のない奇襲攻撃を待っていたというモノだ。
真実は分かっていない。

真珠湾攻撃の損害

真珠湾の損害は、米国側が沈没・擱座7隻(うち戦艦5隻)、大破3隻、中・小破7隻(うち戦艦3隻)の合計17隻。
飛行機陸・海軍合わせて231機を喪失し、人的損害は陸・海軍合わせて戦死・行方不明・戦傷後死亡2402名、戦傷者2382名、合計4784名であった。
うち103名は民間人も犠牲となってしまった。
日本側は飛行機29機、搭乗員54名を失い、この他5隻の特殊潜航艇と9名の隊員を失った。

炎上する戦艦「カリフォルニア」

炎上する戦艦「カリフォルニア」


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