21代雄略天皇(大王)

21代 雄略天皇(ワカタケル大王)

目次

実在が確認された最古の天皇(大王)

5世紀後半にヤマト王権の版図を拡げた

雄略天皇(大王:おおきみ)(生没:允恭天皇7年(418)12月〜雄略天皇23年(479)8月7日)(在位期間 :安康天皇3年(456)11月13日 - 雄略天皇23年(479)8月7日)は、19代・允恭天皇の第五皇子、20代・安康天皇の同母弟。宮は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市黒崎もしくは岩坂)、陵は丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉8丁目)、母は忍坂大中姫、皇后は草香幡梭姫皇女。『古事記』によれば己巳年(489年?)8月9日に享年124歳で崩御。

21代雄略天皇(ワカタケル大王)

21代雄略天皇(ワカタケル大王)

即位前の名前は「おおはつせワカタケ」

即位前の名前(和風諡号:和諡)に、『日本書紀』では 「大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)」、『古事記』では「大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)」と記される。漢字の表記は両者で違うが、読みはどちらもほぼ同音で「ワカタケ」と入るのが特徴。

鉄剣に「ワカタケル大王」と記され実在が確認

埼玉・熊本の古墳から発見された鉄剣銘文(「ワカタケル大王」 と記述)と、中国の歴史書『宋書』の記述(倭王「武」)から、その実在が確認された最古の天皇といえる。(父の19代允恭も実在した可能性は高いが確認はできていない)
諸民族の反乱を鎮圧し、ヤマト王権(政権)の実行支配地域を大きく拡大し、養蚕の推奨、新羅への出兵、呉への遣使など事績は大きい。が、悪辣な専制君主であったとも。

別称の一覧

  • 大泊瀬幼武尊
  • 大長谷若建命
  • 大長谷王
  • 獲加多支鹵大王
  • 倭王武
雄略の父、19代 允恭天皇(倭王済)
允恭天皇(いんぎょう:?〜453年)は、16代仁徳天皇の第四皇子で、17代履中・18代反正の弟と「記紀」に記される。倭の五王の「済」にあたる天皇で、「記紀」『宋書』ともに【允恭(済)と雄略(武)】を父子としている。都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや:奈良県明日香村)のおいたとされ、初めて飛鳥に都を置いた天皇となった。

ヤマト政権を拡大した粗暴な大王

荒い気性の専制君主、大悪天皇とも

雄略は古代の天皇の中でも、気性の荒い乱暴な専制君主として知られる。
些細な罪で臣下を処刑する事も多く、日本書記では「朝に見ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され」とその恐怖政治ぶりを記し、「天下そしりて大悪天皇ともうす」とある。

暗殺事件を利用し、一気に権力を握る

即位の契機は眉輪王の安康天皇暗殺であった。
大王の座を狙う雄略は、事件に乗じて兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を殺害し、さらに大臣の葛城円邸(かつらぎのつぶら)に逃げた兄の境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王を3人まとめて焼き殺した。
また、皇位継承のライバルだった従妹の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と、その弟を欺いて射殺した。

悪辣さが目立つが、事績は大きい

競争相手を全て倒して即位した後、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)(奈良県桜井市)に都を置いた。
その後、雄略天皇の支配に反抗し、吉備の吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)ら、地方豪族の反乱が起こったが、全て鎮圧された。
また、重臣の合議制(大臣・大連制)や財政機構の整備(三蔵の分立)を整えた。
雄略期は、大王権力とヤマト政権の勢力が一段と拡大強化された時期であり、その事績は画期的なものとして評価されている。

中国の歴史書でも存在が確認

『宋書』の【倭の五王】の「武」と比定される

「宋書」の478〜502年の記録にある、倭王「武」として比定される。
「倭の五王」とは、5世紀に倭国から中国に外交使節を派遣した5人の王のこと。讃・珍・済・興・武の五人で、雄略は最後の「武」にあたる。
武(雄略)以外の四王は讃=応神or仁徳or履中、珍=反正、済=允恭、興=安康という風に、「讃」がどの天皇(大王)のことを指すのかが定説を見ない。(当サイトでは【讃=履中】と比定する事が多い)
>> 倭の五王

鉄剣が決め手に実在が確認された

埼玉と熊本から雄略ゆかりの鉄剣が発掘

埼玉県の稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した鉄剣に雄略天皇の名前(ワカタケル大王)が刻まれていた。また、熊本県の江田船山古墳からも同じ鉄剣が発見。
このことから、雄略天皇(ワカタケル大王)の実在が確認され、5世紀当時にはすでにヤマト王権(政権)が東国と九州にまで勢力を拡大していたことがわかった。

「獲加多支鹵大王」と掘られた鉄剣
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、雄略天皇に比定される「獲加多支鹵大王」(わかたける:おおきみ)の銘文が発見された。この発見により雄略天皇は、「記紀」に記される歴代天皇の中で【実在ほぼ確定の最古の天皇】となった。

女好きの残虐な暴君ともされる

兄や従兄弟まで手にかける

雄略天皇は苛烈な大王(おおきみ:天皇のこと)であったという。
政敵である兄の黒彦・白彦、従兄弟の市辺押磐(いちのべのおしは)らを殺害し即位すると、吉備氏など地域国家の多くを軍事力によってヤマト政権に臣従させた。

女性との悪逆なエピソードが多く残る

「記紀」(『古事記』と『日本書紀』)にも英雄として名を残しているかと思いきや、その人となりはなぜか暴虐で女好きな「大悪王」として語られているものが多い。
たとえば宮中に迎えようとした女性の密通を知り焼き殺したり、狩りの際に暴れる猪から逃げた臆病な舎人(とねり)を斬り殺そうとして皇后に諌められたりと、血気盛んなエピソードが耐えない。
釆女(うねめ)が酒杯に落ちた木の葉に気づかず天皇に奉ったことで斬り殺そうとしたこともあった。
ただし、このときは、采女が歌った即興の和歌に感心して刃をおさめ、褒美まで贈っている。

引田部赤猪子という娘との逸話

散歩に出かけたときに見初めた引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)という娘に、「宮中に迎えるから結婚するな」と命じたきり、30年間も放っておく。やむにやまれず赤猪子が皇居に参じると、「どこの婆さんだ」とすっかり忘れていたのである。さすがに心を痛めた天皇は、和歌と贈り物を渡して帰したという。

様々な顔をみせた雄略天皇

有徳王としての側面

山中でヒトコトヌシ(一言主)という神に出会い、礼を尽くした「有徳王」としても語られている。
『書紀』4年2月条では葛城山でヒトコトヌシと出会ったした雄略は神と共に猟を楽しみ、帰りは来米水(高取川)まで送られた。その豪胆さに感嘆した百姓達は、口々に「有徳天皇」と讃えたという。

二面性が描かれた雄略

雄略はよくも悪くも強大な力と奔放さを有した王だった。すぐにカッとなるが、諫めを聞く耳はもっているし、和歌も愛している。
気性はともかく有能な政治家でもあった。
それまでの豪族連合によって選ばれた大王から、絶対権力をもった専制君主へと変節していく、ヤマト政権が強化された時期の大王だったともいわれる。

雄略天皇の逸話(真偽は不明)

下記に雄略天皇に関する逸話をいくつかピックアップする。しかし、その内容が真偽不明である点は注意して欲しい。

少子部栖軽との逸話

『日本書紀』と『日本霊異記』にある逸話

「蚕」と「児」の聞き間違いに大笑い

生真面目で、ぬけたところもあった少子部栖軽(ちいさこべのすがる)という臣下を雄略天皇は気に入っていた。
あるとき雄略天皇は養蚕のため国中から蚕を集めるように栖軽に命じた。やがて栖軽はたくさんの赤ん坊を献上する。なんと「蚕」と「児」を聞き間違えたのである。天皇は大笑いして栖軽に「おまえが養えよ」と命じ、「少子部」の氏を与えたという。

「雷神をとらえてこい」という無理難題

またあるとき、情交のさなかの天皇の寝所に栖軽はうっかり足を踏み入れてしまう。気まずい雰囲気になるが、ちょうど雷が鳴ったため天皇は照れ隠しに「雷神をとらえてこい。そうしたら赦す」と栖軽に命じた。無理難題と思われたが、見事に栖軽は雷をとらえてしまったとのこと。

猪名部真根の逸話

『日本書紀』にある逸話

木を切る名人をイタズラに処刑しようとした

名工の猪名部真根(いなべのまね)が巨石の上で木を削っていた。それを見た雄略天皇が「誤って石に刃を当ててしまうことはないのか」と尋ねると、真根は絶対にないという。すると天皇は采女を集めて着物を脱がせ、ふんどし姿で相撲をとらせたという。それに気をとられた真根は誤って斧を石にぶつけてしまう。天皇は「嘘つきめ」と真根を処刑しようとしたが、真根の同僚が才能を惜しむ歌を歌うと「うっかり尊い人材を失うところであった」と後悔し、赦免したという。

春日大娘皇女の説話

『日本書紀』にある逸話

女性に対し疑り深かったという雄略

采女の童女君がたった一夜で身ごもったため、雄略天皇は自分の娘ではないのではと疑い、養育しなかった。物部目が娘を哀れに思い、天皇に一夜に何度召したかと尋ねると「7度」という。さすがに物部目が天皇を諌め「身ごもりやすい人は褌が体に触れただけで身ごもります」と述べた。すると、雄略はようやく春日大娘を娘と認知し、皇女とした。のちに春日大娘皇女は24代・仁賢天皇の皇后となり、25代・武烈天皇を生んだ。

雄略天皇の歌『万葉集』より

女性に対する雄略からの求婚の歌

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家告らな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも(『万葉集』巻1.1より)

現代語訳
籠よ、美しい籠を持ち、箆(ヘラ)よ、美しい箆を手に持ち、この丘で菜をお摘みの乙女よ。家をお告げなさいな。名をおっしゃいな。そらみつ大和の国は、すべて私が治めている。私が支配しているのだ。私こそ明かそう、家柄もわが名も。
解説〜雄略天皇の名のり歌
『万葉集』の巻頭を飾る雄略天皇の御製歌(ぎょせい)。「御製」は天皇の作という意味。本来は春の野遊びの若菜摘みの歌だったが、雄略物語にとりこまれた。女性に家や名を聞くのは求婚の意思表明だった。実際には大和国原があまねく天皇の統治する平和な国であれとの願いを込めた歌でもある。「そらみつ」は大和にかかる枕詞(まくらことば)。詠まれた場所は奈良県桜井市黒崎の天の森付近とされている。

鹿を案ずる慈愛の歌

夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも(『万葉集』巻9.1664より)

現代語訳
夕暮れになって小倉の山に宿る鹿は、今夜は鳴かない。寝入ったらしい。
解説〜動物に対する優しさも持っていた雄略
「小倉の山をねぐらとして目を開けて臥す鹿は、今夜は鳴かない」というのは、「仁徳紀」の話を踏まえてのもので、危険にさらされた鹿らしい。どうしたのか、と案ずる気持ち、慈愛をあらわした歌と思われる。

雄略の血筋はやがて絶えてしまう

雄略の子が即位、22代清寧天皇

実子を遺さず皇后も持たなかった謎の天皇

雄略の第三子。御名の由来は、生まれながらに白髪だったため(古事記)。皇后も実子もなく、実在性も含め、謎に包まれた天皇である。
即位前の名前は白髪皇子(しらかのみこ)とされ、この名前はその白髪に由来する。

磐余甕栗宮(奈良県橿原市)を都に、白髪部を定める

即位前に異母兄の星川雅宮皇子(ほしかわのわかみや)が謀叛を起こしたが、大伴室屋大連らに命じてこれを焼き殺した。即位後、磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや:奈良県橿原市)に都した。政務は室屋と大臣の平群真鳥が担った。
子がなかったので白髪部(名を後世に残すための部民)を定めた。

清寧に子がなかった為、他の皇族を即位させた

父の雄略に殺害された市辺押磐皇子の遺児、億計尊(おけ:23代 仁賢天皇)・弘計尊(をけ:24代 顕宗天皇)兄弟を探しだし、後継とした。
清寧が子を遺さずこの世を去ったため、雄略の血筋もそこで絶えてしまったことになる。

白髪部以外に事績なし、非実在説もある

「記紀」ともに后妃なし、皇子女なしとされ、在位期間はわずか4年、生没年も不詳である。
実際に行政を行った記録も全く無く、仁賢&顕宗を即位させた話のみが『日本書紀』に記されるが、仁賢&顕宗には非実在説もある。
和諡の【白髪皇子】についても、髪色にあわせて命名するとは考え難く、ゆえに清寧天皇についても非実在説がある。
父・雄略は実在が確認されているだけに、この、子の清寧との落差は一考の価値がある。

25代武烈と雄略の同一人物説

【おはつせ】と【おおはつせ】、名前が似ている

雄略天皇は、25代・武烈天皇(小泊瀬天皇:おはつせ)との同一人物説もある。
系図上は孫にあたる武烈の紀に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とある。これが「大悪天皇」の異名を持つ雄略を想わせ、さらに「小泊瀬(おはつせ:武烈)」「大泊瀬(おおはつせ:雄略)」と名前まで似通っている。

系譜が断絶した点も似ている

25代武烈の断絶により、初代神武から繋がる天皇の系譜は一旦は断たれてしまう。(26代継体天皇は少し遡り15代応神の五世孫とされる)
雄略も子の清寧(非実在説あり)を最期にその血筋は断たれてしまったが、この点でも武烈と雄略は酷似している。

25代武烈天皇〜ひとつの善行もないと伝わる
非実在説もある24代仁賢天皇の皇子。『日本書紀』によれば「しきりに諸悪をなしても善を修めなかった」という、残虐な天皇だったとされる。たとえば妊婦の腹を割いて胎児を見た、人の生爪を剥いで芋を掘らせた、などの悪事が伝わる。歴代でこれほどの暴君ぶりが強調されている天皇はいない。ただし『古事記』には「皇后も御子もなく没した」とあるのみで、こうした悪行はいっさい記されていない。

雄略天皇の次は継体天皇だった?

武烈の崩御で仁徳天皇の王統は断絶し、次に継体天皇が立つことになるが、書記の一連の記述は、続く継体王統を正当化するための捏造とする見方もある。
武烈天皇の存在が捏造であったなら、当然、仁賢&顕宗も、清寧までもその存在が疑わしさを増す。
武烈の非実在説と武烈雄略同一人物説とあわせてみると、雄略の次の天皇は継体だったのかも知れない。

猪狩りをする雄略天皇(安達吟光画)

猪狩りをする雄略天皇(安達吟光画)

尾形月耕:月耕随筆/雄略天皇・葛城山狩図(明治29年:1896年版行)

尾形月耕:月耕随筆/雄略天皇・葛城山狩図(明治29年:1896年版行)

雄略天皇の年表(日本書紀)

『日本書紀』準拠の雄略天皇の年表。この時代はまだ年号がないため、天皇の即位年を元号のように用いて年度を表す。年度を西暦で表すと、正確性は保証できないが【允恭7年(西暦418年)】から【清寧元年(480年)】までとなる。

允恭7年 12月:誕生
安康3年 8月:天皇を暗殺した眉輪王を誅殺。同時に兄の白彦・黒彦を殺害し、葛城一族を誅滅
10月:従兄の市辺押磐皇子・御馬皇子を殺害
11月:即位。泊瀬朝倉宮に遷都
雄略元年 3月:草香幡梭姫を立后
2年 7月:百済から池津媛が献上されるが、入内前に姦通したため処刑
3年 4月:伊勢神宮の斎宮に任じた栲幡皇女が流言により自殺
5年 4月:百済から池津媛の代わりに王弟の昆支が派遣される
6年 4月:呉が使者を派遣
7年 8月:吉備下道臣前津屋の乱
吉備氏の乱、吉備上道田狭から妻の吉備稚姫を奪い妃とする
8年 2月:身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に派遣
9年 2月:凡河内直香賜と采女を宗像大社に送る
3月:紀小弓・蘇我韓子・大伴談・小鹿火宿禰に新羅征討を命じる
5月:新羅征討軍に仲間割れが起きたため撤退
10年 9月:身狭村主青・檜隈民使博徳が帰国
11年 7月:百済から呉国人を名乗る貴信という者が亡命
12年 4月:身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に派遣
13年 8月:播磨の文石小麻呂を征伐
14年 1月:身狭村主青・檜隈民使博徳が帰国。使者と工女を連れ帰る
15年 全国に分散していた秦氏を秦酒公に統率させる
16年 7月:秦酒公に養蚕・紡績技術の普及を命じる
18年 8月:物部目が伊勢の朝日郎を討伐
19年 3月:穴穂部を置く
20年 百済が高麗に滅ぼされる
21年 3月:文周王に久麻那利を与え百済を救い興す
22年 1月:白髪皇子を立太子
23年 7月:病気のため太子に政務を委ねる
8月:崩御
清寧元年 10月:丹比高鷲原陵に葬られる

出典・参考資料(文献)

  • 『一冊でわかるイラストでわかる図解日本史100人』成美堂出版 監修:東京都歴史教育研究会
  • 『別冊宝島2128 完全保存版 天皇125代』宝島社
  • 『万葉集で詠まれた美しい日本』宝島社 監修:中西進

↑ページTOPへ