出雲氏は天穂日命(アメノホヒ)を始祖とする出雲国造の氏族。古代の出雲地方に存在した出雲族の子孫とされる。賀茂川と高野川の合流付近に勢力を持っていた。日本最古の史書『古事記』において存在感を放ち、出雲地方の支配者であったがヤマト王権の支配下に入る。現在も出雲大社の祭祀を司る出雲国造家。
出雲国造として出雲(杵築)大社の祭祀を執り行ってきたのは、天穂日命(アメノホヒ)を祖とする出雲氏である。
元々は出雲東部の意宇(おう)を本拠とし、意宇川の上流に鎮座する熊野大社の祭祀を司っていた。
しかし、出雲西部を併合したことで、出雲大社の祭祀権も掌握するようになったとみられる。
アメノホヒはアマテラスとスサノオの誓約によって生まれた神で、天孫降臨に先立って出雲のオオクニヌシのもとへ遣わされた。(天照とスサノオの対立)
しかし、オオクニヌシに懐柔され、3年経っても復命しなかった。
その後、国譲りが行われたが、その過程でオオクニヌシを祀る出雲大社が創建された。
出雲は元々独立した勢力だったが、やがてヤマト王権の支配下に入ったとみられる。
『日本書紀』の10代崇神天皇条には、出雲がヤマト王権に服属していることを暗示する記述がある。
豪族の出雲振根(兄)が筑紫に赴いているとき、弟の飯入根が独断で出雲の神宝をヤマトに献上した。
激怒した振根(兄)は飯入根(弟)を誅殺するが、ヤマトの命を受けた吉備津彦と武淳川別によって討たれた。
出雲に比肩する力を持つ吉備氏が、その背後にいるヤマト王権と共に介入してくる。
これが歴史的事実を反映した上での記述とは考えにくいが、ある程度の史実は反映していたものと思われる。(吉備氏が強大な力を有していた事は、現地に遺る古墳からもうかがえる)
『延喜式』によると、代替わりした出雲国造は朝廷に参向し、新任の儀式に臨んだという。
その後、出雲で1年間も潔斎を行い、再び上京して『出雲国造神賀詞』を奏上した。
「神賀詞」は、国造として天皇の盛世を誓う祝詞である。
また、出雲国造が代替わりをする際には、意宇の熊野大社に赴いて神火を受け取る「火継式」を行っている。(「死」という穢れを火によって禊ぐという考えが、この儀式の基底にあるともいわれている)
古代の地方支配を象徴する国造の官職は、大化改新以降、徐々に廃止されていった。
しかし、出雲国造はごく一部の例外として称号が存続された。
律令制下においては、国造は祭祀を司る世襲制の名誉職になった。(現在は「くにのみやつこ」ではなく、「こくそう」と称している)
一方で、出雲氏はかつての国造の役割を担う郡の大領(たいりょう:郡司の最高職)も務めていた。
出雲氏は出雲大社の祭祀を行うと共に、出雲地方の統治者でもあった。
延暦17年(798)に国造職と意宇郡司職の兼任が禁止され、出雲氏は国造として祭祀に専念するようになった。
拠点も意宇郡から出雲大社がある出雲郡杵築郷に移し、一子相伝で祭祀職務を受け継いだとされる。
南北朝時代に国造職の継承をめぐって争いが起こり、千家氏と北島氏に分かれた。
それぞれが出雲国造を称し、出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。
明治時代に入ると千家氏が「出雲大社教」、北島氏が「出雲教」という宗教法人をそれぞれ主宰し、出雲大社の宮司は千家氏が務めるようになり、現在に至っている。