出雲大社の創建と経緯

出雲大社の創建と経緯

出雲大社の創建と歴史について。 出雲大社は天穂日命(アメノホヒ)の系統を受け継ぐ社家に守られた古社である。 天穂日命は天孫ニニギの甥とされ、天皇家の始祖の親戚でもある。 かつては巨大な神殿が存在しており、その大きさは一説には48mに及んだともされる。 南北朝時代に出雲国造家が分裂し、さらに明治時代に大変革を迎える。

目次

出雲〜「百八十神」の神々が鎮まる国

弥生時代の祭祀遺跡が多く遺る出雲

古来、出雲は「百八十神」と称えられるほど多くの神々が鎮まる国とされていて、『出雲国風土記』には大国主神、「熊野」、「佐太」、「野城」の四大神を筆頭に、記紀神話には見られない出雲独自の神々の名前が数多く記されている。
文字記録のない『風土記』以前の祭祀の様子を知るのは難しいが、出雲地域では弥生時代までさかのぼる祭祀遺跡が多く発見されており、古代出雲人の精神世界を探る貴重な手掛かりとなっている。

日本の神々は「八百万」、出雲の神々は「百八十」

『古事記』など日本神話で多くの神を表すのには「八百万」という呼び方がよく見られるが、出雲の神々は「百八十神」と称される。
『古事記』のなかでは大国主神自身も子神の数を「百八十神」といっており、意図的に180という数が選ばれている様子がみえる。

出雲独自の聖なる数【180】

神の数も神社の数も180、意図的に整備された可能性

実は「180」という数字は、出雲関連以外にはほとんど使われることのない独特なものだ。
『日本書紀』でも大国主神の子神の数は181神とされており、『出雲国風土記』には朝廷の管理する官社が184社とあり、両者ともにほぼ180に対応している。
さらに時代が下って10世紀に記された『延喜式』神名帳でも出雲の神社は187社とされ、200年経っても180という数字が意識され続けていたことがわかる。
このことから出雲の地を統治する際に、神話になぞらえて意図的に180の神社を整備したとも考えられている。

出雲大社の名前・読みについて

本来は「いづも“おおやしろ”」と読む

まさに「神々の国」といった様子の出雲における信仰の中心が出雲大社だ。
一般的に「いづもたいしゃ」と呼ばれることが多いが、「いづもおおやしろ」が正しい。

出雲大社〜国をゆずる代わりに造ってもらった

地上世界を開拓した大国主神は、天照大御神からの求めに応じて、その国土を天孫に譲った。
この国譲りとの交換条件に創建されたのが、出雲大社であったとされる。

本来は「杵築大社」と呼ばれた

延長5年(927)に編纂された『延喜式』の神名帳には【杵築大社(きずきおおやしろ)】とあり、現社名に改められたのは明治4年(1871)である。

神話に起源を持つ【出雲国造家】

天穂日命と建比良鳥命を起源とする出雲国造

出雲大社の祭神である大国主神には180ともいわれる多くの子神がいるが、出雲国造家の系図はどの子神にもつながらない。
『古事記』によれば、出雲国造の祖は天照大御神の子神・天穂日命(アメノホヒ)と、その子神・建比良鳥命(タケヒラトリ)だとされている。

出雲国造
出雲国造は、出雲国を支配した国造。その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。

天皇家と出雲国造家は神話の時代からの親戚

天穂日命のすぐ上の兄・天忍穂耳尊の子の瓊瓊杵尊(ニニギ)は、のちに地上に降臨し、その子孫はやがて天皇家となる。
つまり天皇家と出雲国造家は、神話時代までさかのぼる遠い親戚ということにもなるのだ。※天穂日命の甥が瓊瓊杵尊

天穂日命〜高天原から最初に地上に遣わされた神

天穂日命は国譲り神話において高天原から最初に地上に遣わされる神である。
ただしこのとき、天穂日命は地上界で大国主神に従い、3年経っても高天原に戻らなかった神として描かれている。
そこで、天照大御神は天雅彦(アメノワカヒコ)を派遣することになったが、この天雅彦も大国主神の娘と結婚して、天上世界に戻ることはなかった。
そのため、天照大御神は武神を派遣して、国譲りが完了することになる。

天穂日命が出雲大社の祭祀責任者に就任

創建された出雲大社での祭祀の責任者として選ばれたのが、天穂日命だった。
この天穂日命の子孫は代々、出雲国造として出雲大社に仕えることになった、という。

出雲国造は天皇に「出雲国造神賀詞」を奏上

奈良平安時代初期には、新任の出雲国造は任命されると潔斎に入り、1年後には都に赴き、天皇に「出雲国造神賀詞」を奏上した。
その目的は、簡単に言えば天皇の長寿を祈願し、そのための神宝を献上することで、新国造は出雲で国造職を継承した後、足掛け3年にもわたって儀式を行った。

寿詞とは
祝賀の意を述べる朗読文。臣下から天皇に奏上し、天皇の長寿と治世の繁栄を祝福する善言、吉言と解される。

出雲国造の就任儀礼は特段に大規模

出雲国造の上京には出雲の国司や神職、その一族などが大挙して付き従ったが、全国の国造のなかでもこれほど大規模な就任儀礼を行ったのは出雲国造のみで、特殊性と神秘性を際立たせている。

天皇に対し古事記神話と違う話が奏上された

「出雲国造神賀詞」では、『古事記』の国譲り神話と異なり、出雲国造の祖神・天穂日命と建比良鳥命親子が国譲りでみせた活躍が語られている。
建比良鳥命は地上の神々を平定する実働隊として、天穂日命は全体のとりまとめ役として大国主神との交渉にあたり、首尾よく国譲りを成功させたとされる。

全国に広がる出雲大社の信仰

南北朝時代、出雲国造家が二家に分裂

天皇家が2つに分かれ争っていた南北朝動乱の時代、神代からの歴史を持つ出雲国造家に大きな変化が起きる。

「千家家」「北島家」の二家に

徳治2年(1307)から出雲国造を務めた53代の出雲孝時には3人の息子があり、孝時の没後、国造の職は長男の清孝に継承されていた。
ところが清孝が没すると、次男・孝宗が千家家を、三男・貞孝が北島家それぞれ名乗ることになり、出雲国造家は二家に分かれることになった。

両家が所領・祭事を半分こ、二頭体制が続く

翌年、朝廷のとりなしによって、両家は大社の所領を折半し、祭事も奇数月を千家家、偶数月を北島家が執り行うこととなった。
以来、出雲大社では両国造家が月代わりで大宮司を務める二頭体制が続くことになった。

神在月〜全国から神々が出雲に集まる

10月の神在月は江戸時代に全国に広がる

出雲大社の代名詞ともいえる「10月は全国の神々が出雲に集まり、縁結びの取り決めをする」という伝承は、江戸時代には日本全国に広がりをみせ、「出雲大社は縁結びの神」という現代日本人の信仰にまで直結している。

平安時代には神在月の風習が存在か

この神々が出雲大社に集まる伝承は、文字としては平安時代末の書物で確認することができ、神々が出雲に集うという意識自体の広まりはさらに古いものだったと考えられる。

偶数月の宮司職を持つ北島家が10月(偶数月)を布教か

大国主神信仰が全国的な広がりを持つようになったのには、中世以降、出雲大社の御師(神職)たちが積極的に布教活動を行った功績が大きいといわれる。
また、二家に分かれ隔月で大宮司職を務めるようになっていた出雲国造家のうち、偶数月、つまり10月の宮司職を受け持っていた北島国造家が、積極的に「10月の出雲は神在月」という信仰の布教を後押ししたともいわれている。

明治に出雲大社の体制が大変化

両国造家を出雲大社から切り離す

500年以上も続いた千家家と北島家の並立体制を揺るがせたのが、明治維新の大変革だ。
神社を国家管理下に置いた明治政府は、出雲大社の特殊な大宮司体制を認めず、両国造家を出雲大社から切り離してしまう。

出雲信仰の布教組織「出雲大社敬神講」が創設

両家はのちに少宮司として再任用されたものの、政府に管理されない自由な宗教活動を求めた時の宮司、千家尊福と北島脩孝はともに出雲大社の職を離れ、出雲信仰の布教組織「出雲大社敬神講」の活動に専念することになる。

神道大社派→出雲大社教、出雲教会→出雲教

出雲大社敬神講は明治15年(1882)、千家家の主宰する神道大社派と、北島家主宰の出雲教会とに分かれ、それぞれ出雲大社教、出雲教へと発展し、今日に至っている。

現代まで続く千家国造家と北島国造家

明治以降、出雲大社宮司を務めるのは千家家のみとなったが、千家、北島両家ともに当主は祖神の霊を継承する特殊な神事「火継式」を経て出雲国造を名乗る。
現在、千家国造家&北島国造家ともに80代を越えている。

磐座信仰〜巨大な岩に神が宿る

社殿の祭祀よりはるかに古い磐座

出雲大社の地における信仰の古さについて、よくわかる例が出雲に残る磐座信仰である。
巨大な岩を神の依り代と考えて祭祀を行う磐座信仰は、社殿における祭祀よりはるかに昔からある古い信仰のかたちである。
古代の出雲の人々が磐座を祀っていた証拠は、出雲大社のすぐ近くから見つかっている。
出雲大社の摂社で、境内から200メートルほどのところに鎮座する命主社という小さな神社である。

岩下から銅剣・銅戈・勾玉が発見、起源は弥生か

江戸時代に、この御本殿の裏手にある岩の下から、銅剣、銅戈、勾玉などがまとまって発見された。
散逸したものもあって現在保存されているのは銅と勾玉のみだが、青銅器と勾玉が一緒に出土した例は、古墳の副葬品を除くと国内でもここ以外に存在しない。
出雲大社の起源は弥生時代まで遡るとみられる。

神社はもともと巨石を祀る祭祀場だった

命主という社名は江戸時代まで「命石」と呼ばれていたのが訛ったもので、神社はもともと巨石を祀る祭祀場だったのだ。
出土した勾玉は上質な越国(福井県から山形県南部)のヒスイ製で、ここで祭祀を行ったのは古代出雲のかなりの有力者った可能性が高い。

出雲の巨大神殿〜48m級が実在か?

出雲大社が最も大きいという伝承

現代の社殿も約24mで日本最大

出雲大社といえば、巨大な御本殿が有名だ。全高8丈(約24メートル)と現存する神社では最大の高さを誇るが、古代の御本殿は今の倍の16丈(約48メートル)もあったと考えられている。

「雲太、和二、京三」東大寺45m以上の大きさ?

平安時代の書物『口遊』には、出雲大社が大和の東大寺や京の大極殿より高かったことを示す「雲太、和二、京三」という言い回しがあり、地元出雲にも昔の社殿はずっと高かったという伝承が残されていた。
しかし、古代における木造建築で東大寺の15丈(約45メートル)以上という高さはあまりにケタはずれで、研究者の間でも実在には否定的な声が多かった。

巨大社殿を想わせる巨大な柱が境内で発見

ところが平成12年(2000)、出雲大社御本殿前での発掘調査中に、直径1メートル以上もある大木を3本束ねた巨大な柱・宇豆柱の遺構が出土した。
大木3本で1つの柱という工法は、出雲国造家に伝わる「金輪御造営差図」に描かれた図面そのもので、この発見によって幻の巨大社殿が実際に建てられていた可能性がにわかに高まった。

現代技術による復元設計と試算

柱は直系3.6m、階段は約109mに及ぶ

大手ゼネコンの大林組は、この発見の100年以上も前の平成元年(1989)、「金輪御造営差図」をもとに古代御本殿の復元設計を行っている。
柱は図面通り木材3本を金輪で結束したものを想定し、総直径は約3メートル。
社殿の中心に立つ最も太い柱(心御柱または磐根の御柱とよばれる)は直径1丈2尺(約3.6メートル)で、断面積が四畳半以上という超巨大サイズだ。
さらに社殿正面から伸びる引橋(階段)は、170段、全長1町(約109メートル)というスケールだった。

作業人数12万6700人、総工費約122億円(1989)

この試算では、完成までの工期は6年、建築に携わる延べ人数は12万6700人で、ピークには1日1000人もの労働者が従事していたと推定された。
総工費は約122億円(試算当時の物価)という数字が弾き出されている。

何度も倒壊を繰り返すうちに縮小されたか

超巨大神殿はその大きさゆえに強風などに弱く、倒壊を繰り返すうちに縮小されていったとされ、発見された宇豆柱はその後の調査から15世紀中頃のものであることがわかり、鎌倉時代まで出雲には巨大な社殿がそびえ立つ風景が見られたとも考えられるのである。
ただ長すぎる階段がネックで、階段の倒壊に引っ張られる形で頻繁に倒壊したようだ。

大きさを求めた理由はいくらでも考えられる

それでもなおこの高さを求めた理由には、出雲大社の祭神・大国主神の鎮魂説、海からのランドマークにしたという説などが唱えられている。

出雲大社の神事・お祭り

古くからの伝統を伝える年中行事

年間22回の祭事

出雲大社では、旧暦10月に行われる神在祭をはじめ、年間22回の祭事が行われている。

1月3日「吉兆さん」〜家の厄を祓う

新年の喜びを祝うのが1月3日に行われる、吉兆さんと呼ばれる祭である。朝に町内会ごとに「歳徳神」の文字をあらわした金襴の幟を担ぎ、八足門前に立ち、その後、町内を巡り、福をまく。また番内さんと呼ばれる、鬼の面をかぶり金襴の衣装を身につけた厄年の男性が、青竹を叩きながら町内を巡り、玄関をたたいて「悪魔祓い」と大声で呼び、その家の厄を祓う。

5月14〜16日「大祭礼」〜豊作祈願

5月14日から16日には、大祭礼が行われる。初日の14日には天皇からの勅使が参拝するほか、松の馬場では的射祭、流鏑馬が行われる。15日の二之祭では、豊作が祈願される鈴振り舞が奉納され、神輿渡御が行われる。そして、16日の三之祭では、獅子舞や神楽の奉納が行われる。

6月1日「涼殿祭」〜夏場の無病息災を祈る

6月1日の涼殿祭は真菰の神事とも呼ばれる。出雲大社の境外東方にある涼殿の地で行われる。イネ科の多年草である真を50センチメートル間隔で敷き、立砂を蒔いた道を国造が進む。この真菰は祭事後に氏子に授与され、各家の神棚に祀られるほか、飲むと腹痛が治るといわれる。

8月14日深夜「身逃神事(神幸祭)」

8月14日の深夜に行われるのが、身逃神事(神幸祭)である。神職1人のみが大国主神にお仕えして、神幸のお供をすることになる。境内の門がすべて開放されると、この神職は御本殿に参拝し、湊社、赤人社に参拝し、稲佐の浜の塩掻島で祭事を行った後に、国造館から御本殿へと戻る。

この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々はこの日は門戸を閉ざし、外出を避ける。身逃とは、国造が斎館を出て穢れを避けることを指している。

10月15日「古伝新嘗祭」〜新穀を神前に供える

10月15日には、身逃神事とともに古い歴史を持つ古伝新嘗祭が行われる。新嘗祭は全国の神社で行われる祭事で、その年の新穀を神前に供える。出雲大社の古伝新嘗祭では、八雲村の熊野大社で同日行われる鑽火祭の火が用いられる。

夕刻7時から行われる神事では、「オジャレモォ(お出でませ)」の声とともに国造以下神職たちが参進する。そして、神火・神水を用いて古式に則って調理された新穀の御飯と醴酒をお供えし、国造自らも食す儀式が行われる。


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