六国史

六国史

六国史(りっこくし)とは日本の正史で6つある歴史書のこと。日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録の計6つとなる。 飛鳥時代晩期に始まり、奈良時代平安時代に掛けて朝廷(天皇)や藤原氏などによって編纂された。 各史書の性格・特徴は書物ごとで様々だ。

目次

国家の正史とは

日本の正史となる6つの歴史書

正史というのは、国家が自らの王朝について、公式に編纂した歴史書のことであり、日本の正史は6つである。
日本書紀』『古事記』は有名であるが、他にも正史があることは意外と一般には知られていない。

  1. 日本書紀
  2. 続日本紀
  3. 日本後紀
  4. 続日本後紀
  5. 日本文徳天皇実録
  6. 日本三代実録

以上が日本の正史である。総称して「六国史」とも呼ばれる。
これらの正史には、それぞれ特徴がある。

日本書紀〜最初の正史

神話より始まる日本史(文献による歴史)

最初の正史である『日本書紀』の場合、全30巻のうち巻1、巻2は神話になる。最初の国史であり、国の成り立ち、大王(天皇)の正統性を示すために神話・伝承の文章量が多くなっている。

「一書」〜最初期にみられる注釈

さらに特徴としては、「一書(あるふみ)」に曰くという形で異伝が併載されている点があげられる。
特に神話のところに多く、その理由については諸説があるが、公平性をきすため、朝廷を支えるさまざまな氏族に配慮したものではないかなどともいわれる。
実際、『日本書紀』には有力な氏族の出自・由来について記されている。

天皇家と藤原氏の力が拮抗していた時代

『日本書紀』の成立期、朝廷では藤原不比等が権勢を誇っていたが、まだまだ天皇家の力も強かった。
不比等の後は皇族の長屋王、その後は不比等の子どもたち、そして皇族の橘諸兄というように、藤原氏と皇族が交代で実権を握った。
平安時代になると藤原北家が権力を独占するが、それまでは国史の編纂中に権力の交代があったりと、編纂者も気を使ったであろう。

日本書紀のあとの正史

続日本紀〜奈良時代の歴史書

奈良時代の『続日本紀』になると、神話や伝承的な内容はなくなり、国の行政的なこと、事件や法令に関する記述が増えてくる。
この時代になると、正倉院文書や「令義解」(養老令の公的注釈書)のような国史以外の史料も豊富になる。
それまでは、例えば「壬申の乱」といえば、『日本書紀』の天武期の記述しかなかったが、さまざまな史料から出来事を比較できるようになり、より公平で正確な解釈が可能となった。

日本後紀以降〜平安時代の歴史書

しかし、『日本後紀』以降、平安時代の国史は、叙述の視野が限定的である。
それまでは天下のことが論じられてきたのに、平安時代の国史は朝廷の人事や出来事、年中行事などの記録的なことが多い。
それまでの国史とあきらかに性格が違っている。中央の記録ばかりが中心で、都の外のことなどはどうでもよい、というニュアンスがある。

困窮により国史編纂が止まる

経済的困窮による国史編纂が中断

『日本三代実録』を最後に国史は編纂されなくなる。これはおそらく、経済的な困窮が最大の理由であった。
(江戸時代に水戸藩は約250年かけて『大日本史』を編纂するが、それが藩の財政を悪化させる一つの要因になったもといわれている)

本朝世紀〜未完に終わった幻の国史

『日本三代実録』の後も、国史を編纂する予定はあったと思われる。
実際、鳥羽上皇の命で、信西(藤原通憲)が『本朝世紀』を編纂した。しかし、信西は、平治の乱(1160)で殺害されてしまい、未完成のまま終わった。

中央政府の力が弱まると同時に編纂が止まった

信西は藤原頼長と並ぶ当代屈指の大学者であったが、歴史書は一人では編纂できない。
協力者と資金が充分にあって、初めて進められる大事業だ。
武士が台頭し、貴族の力がだんだん弱くなっていった時代。国史がつくられれなくなるのは必然だった。

吾妻鏡〜鎌倉幕府の正史

その後、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』は、あくまで鎌倉幕府(執権北条氏)の歴史であり、朝廷や天下万民の歴史書である六国史とはニュアンスが違う。

現代でも続く正史編纂

『日本三代実録』に続く国史『大日本史料』の編纂事業は、ようやく明治時代に始まり、現代では、東京大学史料編纂所によって進行中である(2023年現在)。

6つの正史 歴史書一覧

名称 掲載年代 主な編纂者
@日本書紀 神代〜持統天皇の御代 舍人親王
A続日本紀 文武〜桓武天皇の御代 菅野真道、藤原継縄など
B日本後紀 桓武〜淳和天皇の御代 藤原冬嗣、藤原緒嗣など
C続日本後紀 仁明天皇の御代 藤原良房、春澄善縄など
D日本文徳天皇実録 文徳天皇の御代 藤原基経、菅原是善、島田良臣など
E日本三代実録 清和〜光孝天皇の御代 藤原時平、大蔵善行、菅原道真など

六国史の編纂目的

日本の古代史を知る重要な手がかりとなる六国史はどのようにして編まれたのか、それぞれの編纂目的と構成についてまとめる。

約40年かけて編纂された『日本書紀』

原本は現存せず、平安時代初期の写本が遺る

飛鳥時代晩期、奈良時代から平安時代前期にかけて編纂された六国史の中で、現存する最古の正史が『日本書紀』である。
残念ながら原本は残っていないが、写本は多く残っている。
現存する最古の写本は、平安時代初期のもの(田中本巻10とその僚巻とされる巻1の断簡)とされる。

中国に倣い『日本“書”紀』という題名となったか

題名については最初から『日本書紀』だったとする説がある一方で、「もともとは『日本紀』だったが、途中から『日本書紀』になった」という説もある。
中国の紀伝体(本紀、列伝、表、志などから成る形式)の史書には「書」(『漢書』『唐書』など)の文字が使われているので、それになら倣って『日本紀』にも「書」の字をつけたという見方もある。

天皇による統治を正当化する為の史書

編纂の主な目的は天皇家の正当化で、多くの天皇や皇族が『日本書紀』の中で礼賛されている。
「天皇は天照大神という神々を統べる神の子孫で、神から地上世界の支配を託された」として、天皇がこの国の支配者であることの根拠を示している。

飛鳥時代晩期、天武天皇の命で編纂が始まる

『日本書紀』の編纂は天武天皇10年(681)、天武天皇が6人の皇子と6人の官人に「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことから始まったとされる。
当初は川島皇子や忍壁皇子が編纂の舵取り役だったが、最終的には舎人親王の下で養老4年(720)に完成した。

藤原氏に都合がよくできており、改竄の疑い

編纂には、藤原氏の礎を築いた藤原不比等もかかわっていた。当時の不比等は揺るぎない地位を築いていたが、藤原氏が権力を握った正当性を証明するため、印象操作を行ったという見方もある。
『日本書紀』はすべての記述が正しいわけではなく、信憑性に疑問符がつく記述も見られる。

天地開闢から持統天皇までの歴史を記述

『日本書紀』は全30巻で、他に1巻の系図(現存せず)があった。
天地の始まりから初代神武天皇の即位を経て、持統天皇に至るまでの天皇家の事績と系譜を記載している。
聖徳太子(厩戸皇子)の政治や仏教の伝来、大化改新、壬申の乱など、日本の古代史の出来事のほとんどが『日本書紀』に書かれている。

神話から実在性の低い天皇などの歴史

巻1・巻2は神代の記述で、天照大神の末裔(天孫ニニギ)が地上に降臨し、国土を統治するまでを語っている。
巻3の神武天皇からは神代と区別するため、「人皇紀」とも呼ばれる。
2代から9代までの天皇は巻4にまとめられているが、実名(諱)や陵といった基礎情報だけが連ねられているので、この8代の天皇は「欠史八代」とも呼ばれる。
実在した可能性がある最初の天皇は10代崇神天皇で、国土を統べる過程が書かれている。

古事記〜日本書紀と同時期に編纂

物語風に記された史書、国内向けで政治臭はうすい

『日本書紀』と対比されがちなのが、和銅5年(712)に完成した『古事記』である。
元明天皇の命を受けた太安万侶が稗田阿礼の誦習する『帝紀』(天皇の系譜)と『旧辞』(朝廷に伝わる神話・伝承を集めたもの)を筆録し、神代から推古天皇までの歴史を物語風にまとめている。

全3巻、書紀とは微妙に表記が異なる

『古事記』は全3巻からなり、『日本書紀』と同じ漢文で書かれている。
ただし、表記は微妙に異なり、例えばスサノオは『古事記』では「須佐之男」だが、すさのお『日本書紀』では「素戔嗚」である。

豪族・寺院などの記録も用いられた

編纂に際しては、『古事記』の基本史料とされる『帝紀』『旧辞』だけでなく、朝廷の外交記録や豪族の先祖にまつわる記録、百済三書(『百済本紀』『百済新撰』『百済記』)、個人及び寺院関係の記録など、さまざまな史料が文献として用いられた。

多くの史料を用いた結果、矛盾も生じてしまった

しかし、これらの史料や伝承には記述の食い違いがあるので、そのまま書くと、いろいろと矛盾が生じてしまう。

そのため、『日本書紀』には「一書」と呼ばれる異伝が多く収録されている。

続日本紀〜奈良時代についての国史

六国史の第二、文武(697)〜桓武(791)まで

六国史の第二に当たる『続日本紀』は、文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)までの95年間の歴史が掲載されている。
編年体※の漢文表記で、全40巻からなる。※出来事を年代順に記録する方法
8人9代の天皇を対象とし、国家体制が確立された奈良時代(710〜784)を網羅している。
編纂過程は複雑で、文武天皇元年(697)から天平宝字2年(758)までの前半20巻と、天平宝字2年(758)から延暦10年(791)までの後半20巻に分けることができる。

続日本紀は編纂過程が複雑、一度中断

『日本書紀』に続く史書の編纂は、奈良時代の後半に始まったとされる。
淳仁朝で政治を牛耳っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の下で古代氏族の系譜や藤原氏の祖先の伝記が整備された。
しかし、押勝は天平宝字8年(764)に乱を起こして討ち取られ、史書の編纂は草案作成の段階で終わってしまった。

編纂再開後に一巻が紛失、再開し前半20巻が完成

その後、光仁朝の時代に文武天皇から孝謙天皇までの治世を扱った30巻が編纂されたが、天平宝字元年(757)を扱った1巻を紛失し、歴史書としては不完全なものだった。
編纂事業は桓武天皇の代に仕切り直され、菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄らによって、『続日本紀』の前半20巻がまとめられた。

後半20巻が完成、奈良時代の出来事が奈良時代に編纂された

後半20巻は、まずは天平宝字2年(758)から宝亀8年(777)までの編纂が行われた。
桓武天皇の命を受けた石川名足と上毛野大川によって編集された20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻にまとめ、延暦13年(794)にいったん提出された。
その後、桓武天皇の治世のうち、延暦10年(791)までを6巻分加え、延暦16年(797)に完成した。

リアルタイムに編纂されたため信憑性が高い

『日本書紀』と異なるのは、木簡や正倉院文書など、記述と照らし合わせる一次史料が多くあることだ。
後代にまとめられた二次史料編纂物)よりも史料的価値が高いので、細かいところまで歴史を再現することができる。

記事は簡潔、一部内容が飛び飛びになる面も

記述は全体的に簡潔で、詳しくは述べられていない。
天皇の代替わり記事が巻の途中に来ているものがあるなど、体裁が統一されていない部分もある。
例えば、聖武天皇がいつの間にか孝謙天皇に位を譲っていたり、淳仁天皇の治世の終わりが不明瞭だったりする。

編纂時に存命の桓武天皇に政治的な配慮

また、編纂時に存命だった桓武天皇に対して政治的な配慮をしたと思われる箇所もある。
例えば、早良親王廃太子の記事が削除され、次の平城天皇の時代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されている。

日本後紀〜平安時代初期の国史

桓武・平城・嵯峨・淳和、792年から833年まで

第三の国史である『日本後紀』は、桓武天皇の治世後半から平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の治世を記している。
延暦11年(792)から天長10年(833)までの42年間を全40巻に収めている。巻1〜13が桓武紀、巻14〜17が平城紀、巻18〜30が嵯峨紀、巻31〜40が淳和紀という構成である。
1巻でほぼ1年の歴史をまとめているので、記事の密度は『続日本紀』よりも高くなっている。

六国史で唯一の散逸、他の史料から復元

応仁の乱の影響で散逸したが、江戸時代中期に10巻分(桓武紀4巻・平城紀2巻・嵯峨紀4巻)が再発見され、盲目の国学者・塙保己一によって出版された。
六国史では唯一の散逸だが、失われた箇所は六国史などを要約した『日本紀略』、六国史を記事別に再分類した『類聚国史』から復元されているので、『日本後紀』の全容はほぼ把握することができる。

鮮度の高い史料〜嵯峨天皇が819年に編纂を命じる

弘仁10年(819)、嵯峨天皇は藤原冬嗣、藤原緒嗣、藤原貞嗣、良岑安世らに史書編纂の監修を命じた。
筆頭撰者の冬嗣は『弘仁格式』や『内裏式』などの編纂に携わった経験があり、嵯峨天皇からの信頼も厚かった。
左大臣まで昇進し、藤原摂関家の礎を築いた。

840年に仁明天皇の下で完成

弘仁14年(823)、嵯峨天皇は譲位して淳和天皇の世に代わった。
緒嗣以外の撰者も相次いで死去し、新たに清原夏野、小野岑守、坂上今継、島田清田が撰者に加わって事業が継続された。
天長10年(833)にも天皇の代替わりがあり、仁明天皇の下で編纂事業が行われた。
そして承和7年(840)、『日本後紀』完成した。

藤原緒嗣の意見が強く反映か、批評まで記載

『日本後紀』の内容は、最初から最後まで編纂に携わった藤原緒嗣の意見が最も反映されたといわれる。
人物の死亡記事には続柄や官歴、短い人物伝(薨伝)も記載されている。
これは『続日本紀』に倣ったものだが、『日本後紀』は編纂者の視点を交えた独特の批評や感想が述べられている。

政治的中立性には欠けている

例えば、右大臣の藤原継縄については、「政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったが、世の批判を受けることはなかった」と評している。
桓武天皇の第9皇子・佐味親王も、「女性との情事をすこぶる好んだ」と“暴露”されている。
厳しい論評は天皇にも向けられ、平城天皇は「猜疑心が強く、人の上に立ちながら寛容ではなかった」と述べられている。

和歌が多く収録、撰者も和歌に関心あり

また、『日本後紀』は書中に和歌が多く収録されている。
そのため、撰者は和歌に関心がある人物だったとみられる。

続日本後紀〜仁明天皇1人の国史(833〜850)

第4は天皇一代を対象にした最初の国史

第四の『続日本後紀』は、天皇一代を対象にした最初の国史である。
仁明天皇が即位した天長10年(833)から葬送の嘉祥3年(850)までの18年間を扱っている。
編年体の全20巻で、基本的には1年に1巻という構成だが、即位年(833)と承和の変が起きた承和9年(842)は2巻構成になっている。

承和の変を詳しく掲載、当時の政権の主張を記す

承和の変を詳しく取り上げているのは、変で起きた皇太子・恒貞親王の廃止と道康親王(後の文徳天皇)の擁立の正当性を主張する狙いがあったからともいわれる。

文徳〜清和天皇の代に編纂(855〜869)

『続日本後紀』の編纂は斉衡2年(855)、文徳天皇の代に藤原良房、伴善男、春澄善縄、安野豊道によって開始された。
文徳天皇は天安2年(858)に崩御し、次の清和天皇の代である貞観11年(869)に完成した。
仁明朝は承和の変以外に目立った事件はなく、政治関係の記述は比較的少ない。
人物の記事は、個人の業績よりも人物像に焦点が当てられている。

日本文徳天皇実録〜文徳わずか8年(850〜858)

文徳天皇1人の代、最も少ない10巻構成

六国史の第五に当たる『日本文徳天皇実録』は、文徳天皇が在位した嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間を扱っている。
編年体の漢文で書かれており、六国史で最も少ない10巻構成。
1巻当たりの範囲は10ヵ月強で、『続日本後紀』とほぼ同じ割合である。

清和〜陽成天皇の代に編纂(871〜879)

貞観13年(871)、清和天皇が藤原基経、南淵年名、都良香、大江音人らに詔を下し、『日本文徳天皇実録』の編纂が始まった。
途中で清和天皇が譲位し、年名と音人が没したが、元慶2年(878)に陽成天皇の下で事業が再開された。
このとき、菅原道真の父・是善が編纂に加わり、元慶3年(879)に完成した。

「実録」とは皇帝一代ごとに書き記したものを表す

日本の国史は『続日本後紀』まで「紀」と命名されていたが、『日本文徳天皇実録』以降は「実録」の名称が付されている。
「実録」は皇帝や君主の事績を一代ごとに書き記したもので、仁明天皇一代の事績をまとめた『続日本紀』も、実質的には「実録」であった。

規模は小さいが編集は丁寧、政治の記述は少ない

『日本文徳天皇実録』は規模は小さいが編集は丁寧で、五位以上の官人がすべて採録されている(従来は四位以上)。
政治や法制に関する記述は少なく、人物の伝記記事が多い。

日本三代実録〜清和・陽成・光孝(858〜887)

六国史で最も多い50巻

第六の国史『日本三代実録』は清和・陽成・光孝の三代、天安2年(858)から仁和3年(887)までの30年間を扱っている。
巻数は六国史の中で最も多い50巻で、1巻当たりの収録年月は平均7カ月弱である。
序文によると、源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが宇多天皇の命を受け、編纂を開始したとされている。

宇多〜醍醐天皇の代に編纂(892or893〜894)

六国史やその後の歴史をまとめた『日本紀略』では、『日本三代実録』の編纂開始日を寛平4年(892)5月1日としている。
しかし、記された各人の官位から、歴史学者の坂本太郎氏は「寛平5年(893)4月から同6年(894)8月の間に編纂が始まった」としている。

巻1〜29「清和紀」、巻30〜44「陽成紀」、巻45〜50「光孝紀」

筆頭撰者の源能有が寛平9年(897)に没し、翌年に宇多天皇が譲位したため、編纂事業は一時中断された。
しかし、皇位を継いだ醍醐天皇の勅を受けて事業が再開され、延喜元年(901)8月に完成した。
編年体の漢文で書かれており、巻1〜29が「清和紀」、巻30〜44が「陽成紀」、巻45〜50が「光孝紀」である。

国家儀礼や慶事などを皆取り上げて記載した

8世紀以来続いた史書編纂の集大成ともいえる『日本三代実録』は、編纂開始から10年足らずで全50巻をまとめ上げた。
序文には「国家儀礼や慶事などを皆取り上げて記載する」とあり、これが50巻という膨大な巻数につながっている。
国史に載せるべき五位以上の官人の数も増加し詔勅や上表もなるべく原文のまま掲載されている。

地震について300以上の記述

災異についても詳細に記録されており、地震は300以上の記述がある。
貞観11年(869)に陸奥国東方沖で発生した貞観地震は推定マグニチュード8.3以上の巨大地震で、平成23年(2011)の東日本大震災との関連性も指摘されている。

宮廷の年中行事を掲載(以前は省略)

また、今までの六国史では恒例の年中行事や日常の些細な出来事は省略されていたが、『日本三代実録』では朝賀以外の年中行事も掲載された。
9世紀後半以降の宮廷では決まった儀式行事を滞りなく行うことが重視され、年中行事の重要性も高まった。
そのため、毎年同じ内容でも詳しく記されるようになったのである。


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