嵯峨天皇

第52代・嵯峨天皇

優れた文化人、蔵人頭・検非遣使の設置

子に、初代源氏長者・源信

平安遷都から9世紀末頃までの文化を、年号にちなんで「弘仁・貞観文化」と呼ぶ。
これを生み出し先導したのが嵯峨天皇であった。
諱は神野(賀美能・かみの)といい、父は桓武天皇、母は藤原乙牟漏皇后、子に仁明天皇・源信(初代源氏長者)がいた。

神野親王が即位して第52代天皇に

806年(大同元年)、兄である平城天皇の皇太子(皇太弟)となり、809年(同4年)に神野親王が即位して第52代の天皇となった。

嵯峨天皇は書の達人だった

嵯峨天皇自身は書の達人として知られ、橘逸勢や空海とともに「三筆」と讃えられた。

薬子の変、混乱期を切り抜ける

平城上皇と嵯峨天皇が対立

810年(大同5年)に、観察使の制度を巡って、平城上皇と嵯峨天皇が対立した。
嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。
>> 薬子の変の詳細

嵯峨天皇が勝利

藤原薬子の変の結果、平城上皇は出家、薬子は自害(薬子は平城上皇の愛妾)、薬子の兄である参議・藤原仲成は射殺され、嵯峨天皇の皇太子だった高丘親王(平城天皇の第三子)は廃された。
代わりに桓武天皇の第三子・大伴親王を立てて皇太子とした。

嵯峨側の情報が平城側に筒抜け

薬子の変は上皇側に計画性がなく、広く同志を糾合できなかった為に失敗に終わったが、嵯峨天皇にとっても反省すべきことが多かった。
そのひとつは嵯峨天皇側の動きが上皇側に筒抜けになっていたことだ。

嵯峨天皇の功績

蔵人頭・検非遣使を設置

薬子の変「情報漏洩」の教訓から

内裏で天皇と官人を取り次ぐのは尚侍という女官。
薬子が尚侍を務めていたので、重要な情報が漏れてしまったのだ。
嵯峨天皇は機密情報を守るため、蔵人頭を新たに置き、巨勢野足や藤原冬嗣ら側近を起用。
天皇と太政官の連絡や朝廷事務の処理にあたらせた。

京都の治安維持に貢献

続いて京の治安維持のために、警察と裁判所の機能を持つ検非遣使が設けられた。
蔵人頭や検非遣使、勘解由使(国司交代の際の監督役)などは律令に規定されていない令外官で、必要に応じて令外官を置くことで柔軟な政治が可能になった。

律令・荘園制の見直し

律令制を補強・弘仁格式

この時期、律令制度の矛盾が露わになっており、原理原則に固執していては政権運営が困難になった。
嵯峨天皇は格式を再編成し、藤原冬嗣に「弘仁格式」としてまとめさせた。
「格」とは律令の規定を現状にあわせて改めたもので、「式」はその施行細則にあたる。
清和天皇の貞観格式、醍醐天皇の延喜格式も、弘仁格式の延長線上にある。
これらは後に「三大格式」と呼ばれた。

農民を雇用した公営田

租税関係では823年(弘仁14年)に大宰府が設置した公営田が注目される。
農民を雇用し、食料と労賃を与えて、国家所有の田を耕作させる制度であった。
同じやり方で、後に官田・諸司田なども設けられた。

弘仁・貞観文化

嵯峨天皇は、弘仁・天長・承和の約30年間にわたって天皇・上皇として君臨。
宮廷儀礼と文学を中心にした弘仁文化が花開いた。
年中行事の次第を定めた「内裏式」や、すぐれた漢詩を集めた勅撰集『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などは、その一端といえる。
漢文学に注目し、大学でも中国の史学や文学を学ぶ紀伝道中心の教育課程が立てられ、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院など、有力氏族による大学別曹も人気を呼んだ。

薬子の変

上皇と天皇の「二所朝廷」に

平城が愛妾・薬子を贔屓

平城天皇は皇太子時代、参議・藤原縄主と薬子の間に生まれた娘を後宮に迎えたが、母親の薬子を気に入り、ただならぬ関係に陥った。
それを父・桓武天皇に知られ、薬子は後宮から追放されたが、思いが消えることはなかった。
平城が即位すると薬子を呼び戻し、後宮の女官の責任者ともいえる尚侍に抜擢した。

愛妾の兄も横柄な態度

薬子だけでなく、薬子の兄・仲成にも天皇の威を借りた行動が目立ち、朝廷内での天皇や薬子、仲成に対する反発が強くなった。

皇位を譲った後に上皇が政令を出す

平城が嵯峨に譲位

平城天皇は病弱だったが、809年(大同4年)に病状が悪化する。
皇位を弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲り、自身は太上天皇(上皇)となって平城旧京で隠棲生活を送った。

「二所の朝廷」状態

ところが、皮肉なことに、しばらくすると健康が回復する。
薬子や仲成の助言もあって政治に対する意欲が湧き、上皇の命令として旧都から政令を乱発するようになった。
「二所の朝廷」と呼ばれる対立状態に陥ったのだ。

平城京への再遷都を勝手に指示

嵯峨天皇があっさり鎮圧

上皇方はさらに攻勢に出る。
809年(大同4年)11月には平城京に新たに宮殿を設けることを決め、翌年9月6日には上皇の立場で、平安京を廃し、都を平城京へ戻すよう命令した。
ただし、緻密な計画は欠けていた。
嵯峨天皇としても、さすがに見逃すことはできなかった。
9月10日、薬子の官位を奪うとともに、平安京にいた仲成を捕縛し射殺した。

平城が観念し、出家した

平城上皇は東国へ脱出し、そこで兵を募って挙兵しようとしたが、大和国越田村まで来たところで前方に朝廷方の兵士がいるのを見て、平城京へ引き返した。
薬子は自害し、平城天皇は剃髪して出家した。


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