農業の技術は格段に進化したが、度重なる災害や飢饉、そして戦(いくさ)に苦しんでいた戦国時代の百姓や農民。しかし彼らはその苦境を脱するために、村(惣村)をつくり、武器を携え、戦や合戦、落ち武者狩りにも参加し、ときには盗みも働いた。百姓は大名らからただ支配されるだけの存在ではなかったのだ。
中世において一般庶民にあたるのが、「百姓」身分である。この百姓という身分については、現在でも誤解されることが多い。
百姓は一般的には農民に言い換えられることが多いが、これは誤りである。
農民という語は、漁民・林業民などと対比される、農業を生業とする人々についての用語である。 中世では、そうした農業民については「農人(のうじん)」といっていた。
農民の用語が普及するのは近世の江戸時代からで、いわゆる「士農工商」の用語の普及にともなう。
そこでは村落の居住民をさして「農民」と称され、それが近代の明治時代に農業従事者を農民と称することによって、百姓は農民と認識されるようになってしまった。
しかし中世・近世における「百姓」は、あくまでも国家的・社会的な身分であり、すなわち納税者身分にあたっていた。
したがってその生業は、農業に限られず、漁業・林業・運送業・商業・工業など多岐にわたっていた。
当時は現代的な専業農家などは存在せず、多くの百姓は、農業以外の生業にも従事していた。
一般庶民のすべてが百姓身分にあったわけではなかった。百姓はあくまでも納税者身分をさしており、村落に居住している人々すべてが百姓であったわけではなかった。
納税者であるということは、納税の対象になる生産のための資産を所有していなければならない。農業であれば耕地、漁業であれば漁船などの漁業用具、林業であれば山林などである。村落住民でのその割合は、江戸時代でも半数ほどにすぎなかった。その他の半数は、それら百姓に家来として奉公する、下人身分にあたっていた。だから百姓とは、一般庶民のなかでも資産を有する階層ということになる。
中世成立期(平安時代院政期ごろ)、荘園制の展開とともに百姓身分は生まれた。そこでの納税者が百姓とされた。
中世成立期では、その人数はかなり少数であったと推測されている。領主に納税できる資産を所有できたのは、ごく限られた人々と推測されるからである。
それが鎌倉時代中期頃に、地縁的共同体である「惣村」が成立し、その惣村の正規の構成員について、百姓身分が適用されるようになったと考えられている。
納税は村落として請け負う「村請(むらうけ)」の形態がとられ、その納税を分担する人々が、村落の正規の構成員とされ、それが百姓と認識されるようになったと考えられている。
惣村が成立すると、種々の生業は惣村ごとに行われた。
それ以前での生業の在り方については判明していないが、おそらく血縁共同体によったのではないかと思われる。
それが惣村という地縁共同体に転換したのは、鎌倉時代中期からみられた飢饉の恒常化によると考えられる。
それ以降、江戸時代中期の17世紀半ばまで、日本列島は慢性的な飢饉状態になっていた。 惣村は、そうした恒常的な飢饉状態にあったが、当然、それは戦国時代も同様であった。
恒常的な飢饉状態、自力救済社会のなか、百姓は惣村をもとに生存をはかり、そのために武力行使を行っていた。
中世は庶民階層においても自力救済社会であった。そこでは自らの権益確保のために、最終的には武力が行使された。
百姓も武士と同じで、成人男子は大小二本の刀を差し(帯刀という)、弓・鑓という武器を所有していたた。
帯刀や武器所有は、武士の特権と見られがちだが、それは江戸時代の話であり、戦国時代の百姓は武装は自由であった。
また、江戸時代において百姓も武器所有は認められてはいた。(猟銃など。ただし、人間への武力行使は禁止)
惣村における百姓のうち、成人男子は、村の兵士として存在していた為、武器がないと役割を果たせなかったのだ。
災害が起こるたびに民衆たちが飢餓に陥ってしまうような状況だった戦国時代。惣村には百姓を中心として、それらの問題を克服するための手段があった。
それは資源を自村のものとして占有し、他の村との争いに打ち勝つことだ。他の村落との戦いに勝つ為に、村の仕組みが創り出された。
惣村の形成がみられるようになるのは、鎌倉時代中期の13世紀後半からのこと。その頃から、「惣」と称された村落が史料に登場する。13〜14世紀は村落に関する史料が少ないため、その存在は、比較的史料が多い近畿地方で確認されるにすぎない。
しかし15世紀になって地方でもわずかながらも村落に関する史料がみられるようになってくると、同様に惣村の存在が確認されるようになってくる。
惣村が形成されるの契機は、深刻な飢饉状態のなか、生産のための資源を確保することにあった。
13世紀後半から、気候変動の影響により生産環境が悪化、それに伴って飢饉状態が恒常化する。生存のためには資源の確保が必要であった。
稲作のための灌漑用水、燃料や肥料・飼料のための山林資源、漁業における漁場の縄張り、などだ。
それらは実力行使によって確保する他なく、そのため、自然発生的に惣村が形成されていった。
惣村は、そうした資源を確保できる地域を占有した(これを知行という)。
これにより惣村も領土に近い概念をもつことになり、惣村で従事する人達は百姓身分となった。
さらにそれら構成員に対して、惣村という組織維持のため、運営費用を徴する微税、構成員の行動を規制する「惣掟(そうおきて)」と称される法規の立法、法規違反などを取り締まる警察権などを行使した。
これらにより惣村は、個々の構成員の私権を制約する公権力として存在した。
さらには構成員を兵士とした独自の武力をもち、その武力は村の存続のために外部の集団 に対して発動された。
また惣村の組織は、主として、年齢階梯制※によって維持された。※年齢によって成員を区分して年長順に序列をつける社会制度
村の正規の構成員になった時期の順に、村での地位が上昇し、その上位者が村の執行部を構成した。そこではおよそ、40歳以上が「おとな」として指導部をなし、それ以下の年齢層が「若者」とされ実行部隊として存在した。そして村の意志は、構成員全員参加の「寄合」によって決された。
このような性格をもつ“村”は、国家にあたる力と役割を果たした。
例えるなら弥生時代の環濠集落に似ていて、集落は環濠や柵に囲まれ守りを堅め、内部の人々はクニのルールに従って生きていた。
惣村も同じで、村人(百姓)にとって村こそ最大の権力であり、村人は村に所属することで、初めて生産することができた。
村から追放されると、生産すら行えなくなり、それは死を意味した。
さらに生産資源をめぐる隣接村落との戦争において、周辺の村々とのあいだに攻守軍事同盟を結び、互いに援軍を送りあっていた。そのため村同士の戦争は、それぞれを支援する同盟村も参加した、数カ村連合同士の戦争として展開された。それは領主層同士の合戦と全く遜色のないものであった。
しかも時には領主とも戦争を行い、あるいは領主から援軍を獲得し、それが領主同士の合戦に展開することもしばしばであった。
中世社会では領主同士の合戦は数知れず行われていたが、その根底には支配下にあった村同士の戦争があったともいえる。
中世において、百姓(農民・民衆)の主食は麦だった。米を口にできたのは支配者層である。当時、米の値段は麦の3倍で、民衆にとって高嶺の花だった。
農民の食事の例を挙げると、朝夕は黍粉の雑炊で、副食は季節ごとに収穫された野菜が主だった。ほかに、捕獲した魚や鳥獣類などを調理した。
食事の回数は1日2回で、農作業の合間に間食をしていた。素麺や柿などの果物も好まれたという。
米は貴重な収入源だったので、正月などのハレの日以外は口にしなかった。
代わりに低価格の大唐米(だいとうまい:中国から伝わったベトナム産の米)を食べていた。
大唐米は虫害などどに強く、増産することができたが、味は極めて悪かったという。
中世においては、衣服は女性が作っていた。当時、民衆の着る衣服は、苧麻(からむし)というイラクサ科の多年草を原料とした繊維で作られたものだった。
この苧麻から取った繊維を糸にする苧績みという作業を女性が行った。農民の女性たちは高度な技術も有していた。
苧績みは、かなり時間がかかる重労働だったため、女性は農作業に従事できなかったようである。
また、女性は蔓草を巻いて、紐や網も作っていた。
こうした女性が手掛けた衣料は、日用品として利用されただけでなく、やがて市場でも売られるようになった。
副業での貴重な収入源として、農家の家計の助けとなった。
中世以降、農業技術が進歩し、収穫量が飛躍的に増大した。たとえば、稲の品種は計96種類に上るといわれ、大麦や小麦、野菜も栽培された。以下、季節ごとに列挙する。
これ以外にも多数の野菜や穀物の種類があり、採集したものもあった。中世の人々は四季の彩り豊かな食生活を送っていた。なお、現代では、昔ながらの日本の野菜という思われがちなの大根やナス、ネギなども、もとは海外から渡来したものだった。
山城国上野荘(京都市西京区)では、名主が用水路の維持管理費を負担していたものの、洪水の被害によってたびたび修繕が必要だった。やがて、名主の修繕費の負担が大きくなったので、本所が工事費を出すことになった。その際、工事に動員されたのが農民である。
工事費は非常に莫大だったが、そこには用水路や堤防の材料費(材木など)だけでなく、人件費も含まれていた。つまり農民はタダで工事に従事したのではなく、有償で仕事を請け負ったのである。
彼らの賃金は、日当と食事代を合計して1人85文。当時、単純労働の日当の目安は10文だったので、破格の賃金だった。
合戦後、落ち武者狩りが行われるのが常だった。落ち武者狩りとは、敗残兵が逃亡したとき、農民などが待ち構えて討ち取る(あるいは捕らえる)ことである。
中世において、落ち武者狩りは、慣行(かんこう:古くからのならわし)として広く認められていた。
討ち取った武将の首を差し出して、恩賞をもらうこともできた。
それだけでなく、農民は敗残兵から金品、衣服、武具などの金目のものを強奪し、自分のものとした。それが、得分(利益、分け前)になったのである。
天正十年(1582)の山崎の戦い後、羽柴秀吉に敗北を喫した明智光秀は、本国の近江(現在の滋賀県)を目指して逃亡した。その途中で、光秀は農民らによって、小栗栖(京都市伏見区)で討たれた。
同じ頃、逃亡中だった穴山梅雪は、宇治田原(京都府宇治田原町)で農民に襲撃され討ち死にした。ともに、落ち武者狩りに遭ったのである。
合戦が勃発すると、農民も動員されることがあった。
とはいえ、原則として農民が戦闘員として加えられることはなく、兵站(兵糧や武具の運搬)や砦の構築を行った。
大名が農民を招集する際に鋤や鍬を持参するよう命じたのはその為であった。
しかし、当時の農民は村同士の戦いに備えて、武装していた。したがって、刀などは所持していたのである。
そこに目を付けたのが武田氏や上杉氏だった。特に上杉氏は、民兵として農民を動員し得る体制を整えていたという。
また、後北条氏も永禄11年(1568)に村々に対して、15歳から60歳までの男子を戦争に動員しようとした例もあった。
ただし、これはあくまで最終的な策であり、恒常的な策ではなかった。
天正9年(1581)9月、羽柴秀吉は毛利方の吉川経家が籠る鳥取城(鳥取市)を兵糧攻めにした。「鳥取の飢え殺し」である。
秀吉は兵糧攻めを行う際、陸路や海上を封鎖し、鳥取城への兵糧搬入を阻止した。加えて、城内の兵糧を消費させるため、農民を城内に追い込んだという。
秀吉の作戦は見事に成功し、鳥取城の兵糧は徐々に尽きていった。
当時、農民は戦争が起きると、耕作地を放棄して逃亡した。なかには戦火を逃れるため、城内に逃げ込む者もいた。
鳥取城の戦いの場合も、秀吉に追い立てられた者のほか、自発的に城に逃げ込んだ農民もいたに違いない。
中世期は慢性的な飢饉状態であった。日本史では建国以前から永らく飢餓が続いていたが、戦国時代に戦・合戦が常態化することで、飢餓はさらに酷さは増した。当然、百姓農民らはさらに苦しむ事となるが、彼らは敢えて戦に参加する道を選ぶ。領主の戦争に参加する事で報酬や恩賞を得る事もできるようになり、落ち武者狩りによる略奪で稼ぐ者もあらわれた。
中世後期は、飢饉が恒常化していた時代とみなされる。その常態を一般的には「慢性的な飢饉」などと呼ぶ。 この慢性的な飢饉が史料に基づいて確認できるのは、15世紀以降のことだが、その状況が200年以上にわたって常態化していたという。
では逆に、15世紀より前は慢性的な飢饉状態ではなかったということなのだろうか? 恐らくそんなことなく、15世紀より以前の時期も同様であったかも知れない。 つまり、一部の権力階層を除けば、(縄文時代から)ずーーっと飢饉が続いていたということだ。 17世紀の前半ごろにやっとその慢性的な飢饉は終わりを迎えたと考えられる。
少なくとも(遅くとも)、15世紀からは、史料に基づいて、「慢性的飢饉の時代」であったことが確認されている。 それは千葉県松戸市に所在する本土寺という寺院に所蔵されている、15世紀からの記載がある過去帳を分析した結果である。
15〜16世紀の200年間について、同寺に供養を依頼された人が何月に死亡したのかという統計をとってみると、旧暦の春から夏にかけて多く、秋〜冬に少なくなるという傾向にあり、しかも200年間を通じてこの傾向は変わっていない。 そのことから、その200年間については、春〜夏に死者が多く、秋〜冬に死者が少ないという、「死亡の季節性」が存在したことがわかる。 その状況は、穀物類が秋に収穫されるという、農業生産のサイクルに対応したものであった。 食料が生産されると死者が減少し、不足すると増加したのであった。
しかもその状況は、19世紀には大きく変化していることが判明している。 その時期には、秋の初め(現在の真夏)と春の初め(同じく真冬)に死者が多いという具合に大きく変化している。
注目すべきは天保の大飢饉(1830年代)の際には、本土寺にみられた状況になっていることである。
このことから、中世後期における死亡の季節性は、江戸時代における大飢饉の状況と同じであったことがわかる。 毎年のように、食糧が不足する端境期に、食糧不足に起因して多くの人々が死亡する。中世後期とはそんな時代であった。
慢性的飢饉の影響は、庶民だけでなく、京都の公家や領主にも及んでいた。 室町時代、大飢饉の際、京都では近隣からの物資の流入が途絶え、それによって公家のなかでも餓死したり、それを恐れて自殺する者もいた。 領主の階層にあったからといって、安穏な生涯を送れる保証はなかったのである。
そうした状況に加えて、15世紀後半から支配者層における戦争が恒常化するようになる。 関東での享徳の乱(1455〜83年)、京都での応仁の乱(1467〜77)を契機とした、政治権力の分裂による争乱であった。 以後、日本列島は、16世紀末に豊臣秀吉による「天下一統」まで、各地では戦争が日常的に行われる、戦国時代へ突入する。
人々は、慢性的飢饉により、そもそも生存が厳しかったなか、戦争が日常化したことで、ますます生存環境は厳しいものになった。 そのなかにあっても災害は、関係なく起こった。飢饉と戦争で社会の力量が低下しているなかでの災害は、とりわけ被害を甚大なものにした。 人々は、飢饉と戦争が日常化し、さらに災害にも見舞われた時代を、いかに生き延びるかが課題になった。
そうした状況において、惣村の村人や百姓・農民(農人)らが生存のためにとった方策が、領主の戦争に参加し、戦場での略奪によって収入を得ることであった。
惣村において、慢性的な飢饉のなか、村人すべての生存は厳しい状況にあった。 村人の家を継げない次男以下は出稼ぎに出なければならなかった。その主要な稼ぎ場となったのが、戦場であった。
戦国時代は150年間続いていくが、その背景には、それら食えない村人の稼ぎ場として、戦国大名の戦争があったことにもよる。 彼らは戦国大名や領主の被官(雑兵)として、あるいは専門の戦争屋になって戦場に行き、そこで略奪の限りをつくして生存を図っていた。 いわば戦争なしには生きていくことができない人々が大勢いたという、深刻な事態が生みだされていった。
災害・飢饉・戦争による被害は、人々の生存を困難にしていた。 その結果、惣村における人手不足は恒常化し、村には村人の数も少なくなっていた。 そのため耕作面積も少なくなっており、どの村でも、耕作可能な耕地面積に対して、実際に耕作できたのは、半分ほどにすぎなかった。 残りの耕地は、不作地であったり、数年耕作が行われていない荒れ地になっていた。 その状況が改善されるのは、戦争がなくなった17世紀になってからになる。