荘園

荘園

古代日本の土地制度

荘園とは古代から中世(奈良時代安土桃山時代)における土地制度の1つだった。
「荘」とは建物のことで「園」は農園を指し、その仕組みは地域によって様々で、時代とともに進化した。
荘園によって日本全国の農地開発が進み、やがて荘園は終焉を迎えた。
荘園制の始まりから終わりまでを簡単にまとめる。

荘園より前の土地制度

荘園が出来る前の土地制度は「公地公民制」で、土地・農民はすべて朝廷のモノと定められていた。
652年(白雉3年)には班田収授の法が発布されると、国家(朝廷)が民に対して土地を貸し与え、直接、税を取り上げる仕組みであった。
しかし、この「公地公民制」では土地の開拓が進まず(民衆が前向きに働いてくれず)、朝廷は別の土地制度を考える必要がでてきた。

荘園の始まり

貴族・大寺院に土地の私有を認めた

荘園の始まりは、奈良時代に公地公民の例外として、貴族や大寺院などによる土地の私有を認めたのが初期荘園である。
荘園を領有した貴族や大寺院を荘園領主といい、彼らは浮浪・逃亡した農民を受け入れ、荘園の大規模化が進んだ。

初期荘園の景観(福井県立博物館)

初期荘園の景観(越前国桑原)
福井県立博物館「桑原庄景観想定復元図」(『山川 詳説日本史図録』山川出版社より引用)

直轄地じゃないと朝廷は儲からない

荘園は貴族や大寺院に収入をもたらしたが、国家(朝廷)財政は逆に厳しくなった
そこで公営田と呼ばれる国家(朝廷)直営の田地が設けられ、諸官司(官人組織)も自分たちの財源を確保するために諸司田を有した。
天皇も勅旨田と呼ばれる田地を有するなど、土地制度の変革が続いた。

公地公民制へ戻そうとし失敗

朝廷が荘園整理令を出す

こうした中で、律令制(公地公民制)への回帰を目指す醍醐天皇は902年(延喜2年)に荘園整理令を出した。
荘園を停止して公領を増やす狙いであった。
しかし、実際に政務を担ったのは荘園領主である貴族だったので、その成果は乏しかった。
律令制支配の復活は難しくなり、朝廷は地方の行政官である国司に税の徴収事務を委ねた。

徐々に力が中央から地方へ

地方政治における国司の権限は徐々に大きくなり、国司の役所である国衙が重要な役割を担うようになった。
任国の経営と支配を行ったのは受領(在国の国司で最上位の者)で、比較的自由に手腕を振るうことができた。

地方に自治能力が根付いていく

受領は、現地の富豪層である田堵に田地の耕作と税の徴収を請け負わせた
しかし、中には乱暴な受領もいて、揉め事が生じることも少なくなかった。
尾張国の藤原元命のように、苛烈な収奪が原因で国司を解任された例もあった。

荘園制度の進化が進む

田堵が受領から請け負った田地は名または名田と呼ばれ、複数の名の耕作と納税を請け負う大名田堵もいた。
10〜11世紀に入ると勢力を強めた大名田堵もいて、彼らは開発領主と呼ばれた。

荘園の特権【不輸不入の権】

荘園が独立国家のように変化

律令制には租税が免除された不輸租田があり、本来は勅許やそれに基づく太政官符や民部省符からなる公験(証明書)が必要となる。
貴族や大寺院は政治力を用いてそれを入手し、税の徴収ができない「不輸の権」を有する荘園が増えた。
また、有力者の権威を背景に、国の役人の立ち入りを拒否する「不入の権」も獲得した。
この「不輸・不入の権」が荘園を国家(朝廷)が干渉できない独立した空間へと変えた。

朝廷は荘園の独立性を嫌った

荘園の増大は国家(朝廷)財政に打撃を与えるので、朝廷は何度も荘園整理令を出した。
不適正な手続きによって立荘された荘園整理・停止するための法令で、特に大きな成果を挙げたのが、後三条天皇が1069年(延久元年)に発した「延久の荘園整理令」である。

天皇が自分の荘園を持ち出す

自分の荘園から得た収益は自分の物

しかし、後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、上皇となって専制権力を振るう院政を始め、建立した寺院の経費を賄うために荘園の設立を命じた
この荘園は開発領主から寄進された土地を核に周囲の土地や山野も囲い込み、不倫・不入の権が与えられた。
こうした荘園を「領域型荘園」という。
寄進した開発領主は荘官に任じられ、荘園の管理権を与えられた。

領域型荘園が増加していく

これまで荘園を持っていた貴族・寺社も、さらに天皇家・藤原摂関家に寄進して領域型荘園としての保護を求めるようになった。
この場合の前者を領家、後者を本家という。

全国の土地の半分以上が荘園に

政治的な仕組みが地方に浸透

領域型荘園は、続く鳥羽上皇や後白河上皇のときに大量に設立され、全国の土地の5〜6割が荘園となった。
国司が管理する公領(国衙領)についても、皇族・貴族・寺社に国司の推薦権と国の収入を与える知行国の制度が広まり、知行国主の私領としての性格を強めた。
このような土地領有体制を荘園公領制といい、中世全体を通して存在した。

戦国時代に荘園制が終焉

荘園が武家に取り込まれていく

鎌倉時代になると、幕府に任じられた地頭が荘園内での徴税事務を担った。
しかし、次第に荘園領主との対立が激しくなり、地頭の荘園への支配が強まる。

荘園制度が時代遅れに

室町時代には荘園に在住する民衆が惣村を形成し、自立志向が高まった。
守護の地域支配が強くなると荘園は減少の一途をたどり、豊臣秀吉太閤検地で全国の私有地がなくなると、荘園制度は完全に姿を消した。

荘園が滅び、武士の時代に

制度としての荘園制は終焉を迎えたが、荘園制によって発展した農地とそこに住む人々は当然残っている。
荘園制が滅んだというのは、貴族や大寺院の私有地が武士に乗っ取られたという事であった 。


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