万葉集

万葉集

4500首以上の歌を収めた最古の歌集

『万葉集』は7世紀後半から8世紀にかけて編纂された日本に現存する最古の歌集
歌の数は4500首以上もあり、天皇から皇族、貴族から宮廷歌人、下級役人、農民、芸能者、防人、浮かれ女、詠んだ者の名が伝わらない「詠み人知らず」まで、様々な身分の人達の歌が収められている。
詠まれた歌は「倭の五王」の時代から始まって、聖徳太子を経て、平城京聖武天皇の時代頃まで至る。

仁徳天皇の時代から始まる

収録されている年代でいえば、最も古い歌は五世紀前半の仁徳天皇の時代の歌であった。
逆に最後の年代の歌は759年(天平宝字3年)に編者の一人の大伴家持が元旦に詠んだ最末尾の歌。
収録された歌の多くは、629年舒明天皇即位後の約130年間に詠まれたモノである。(759年は淳仁天皇)

年代順に並んでるわけではない

ただし、収録されている歌は1巻から20巻まで年代順に並べられているわけではない。
一つの歌解釈するのに他の巻を参照する必要なども出て来る。

時には権力批判も

何気ない自然を詠んだ歌の中に、公では発言しづらいであろう権力者への批判が混ざっていたりする。
為政者の視点から記された歴史書とは違って、『万葉集』では被支配層からの視点でも歴史が記されている。

仮名文字がなく漢字のみ

漢字を工夫して日本語を表現している

『万葉集』が編纂された時代はまだ仮名文字が存在しなかった為、文字は全て漢字で記されていた。
中国の漢字を使っているが、日本語の音節を表記する為に独特の形で用いていた。
これを「万葉仮名」と呼び、『古事記』や『日本書紀』に出て来る歌謡や訓注にも使われている。

「万葉仮名」で話し言葉が表現可能に

万葉仮名では、漢字本来の意味とは無関係に、その音訓だけを借用して日本語を表記した。
それまでは話し言葉を文字として表記する手段はなかったが、万葉仮名の誕生により一音一字で書き記せるようになったのだ。
5世紀後半に築造された稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にも「獲加多支鹵大王」「斯鬼宮」といった万葉仮名が用いられていた。

「万葉仮名」が仮名文字に進化

この万葉仮名による日本語表記が簡略化され、平安時代に完成したのが仮名文字だ。
万葉仮名は日本人の為だけの最初の文字であった。
なお、現在の日本語の母音は5つだが、古代日本語では母音が8つあったそうだ。

巻によって様式が違う

『万葉集』は全20巻からなるが、巻によって編集様式が異なっている。
その為、最初から全20巻を想定して編纂されたのではなくて、幾つかの巻が出来上がっていく過程の中で、最終的に20巻で完結したと思われる。

万葉集二度撰説

江戸時代の国学者で僧の契沖(けいちゅう)は「巻1〜16で一旦は完成したが、そのあとに巻17〜20が増補された」という「万葉集二度撰説」を唱えている。
この説は学者たちの間で論じられて来たが、巻15までしか目録が存在しない写本もある事から、異論を唱える学者もいる。
しかし、やはり最初から20巻完結を計画して編纂された可能性は低いといえる。

『万葉集』の名前の由来

『万葉集』の名前の由来は諸説あるが、有力視されているのが「万の言の葉(よろずのことのは)」と解釈し、多くの言の葉(歌)を集めたとする説だ。
これは鎌倉時代の学問僧・仙覚や江戸時代の国学者・賀茂真淵が支持してきた。

他の由来

他の名の由来として、『古事記』の序文に「後葉に流へむと欲ふ」という記述があることから、「万葉」を「万代(万世)」と解釈し、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」とする説もある。
また「万葉」の「葉」をそのまま「木の葉」と解釈し、「木の葉をもって歌に例えた」とする説もある。

鎌倉時代の仙覚

仙覚は『万葉集』の研究に力を注ぎ、生涯をかけて完成させた『万葉集』の校本※と注釈書『万葉集註釈』は、近代に至るまで『万葉集』の定本※として利用されている。
※校本とは、古書などの伝本が何通りもある場合にそれらの本文の違いが一覧できるようにまとめた本
※定本とは、古典などの異本を校合して写し誤りなどを正した標準となる本

江戸時代の賀茂真淵

賀茂真淵は『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重を主張した。
「作為のない自然の心情・態度こそ、人間本来のあるべき姿である」という古道説を確立し、後世の国学者たちに影響を与えた。

『万葉集』の編者には諸説ある

橘諸兄、大伴家持、天皇命令などの説

『万葉集』の成立年代については不明な部分が多いが、編者に関しても諸説ある。
編者は天皇の命令で編纂されたとする勅撰説、橘諸兄(たちばなのもろえ)説、大伴家持(おおとものやかもち)説などがある。

まとめたのは大伴家持

17〜19巻は大伴家持づくし

編者については諸説あるが、現在は「段階的にまとめたものを、大伴家持の手によって全20巻に編纂した」という説が有力視されている。
『万葉集』の17〜19巻は大伴家持の歌日記のような形式になっている。(そもそも『万葉集』に収録された歌の1割を大伴家持の歌が占めている)
その為、大伴家持が自分の歌を追加して『万葉集』を完成させた可能性が高い。

勅撰説はあまり支持されていない

勅撰説については聖武天皇・孝謙天皇・平城天皇などの説がある。
しかし勅撰説を支持している学者は少なく、醍醐天皇の命令で913年(延喜13年)に成立した『古今和歌集』が、日本初の勅撰和歌集だと一般的には考えられている。

橘諸兄・説

橘諸兄は左大臣まで昇進した朝廷の実力者で、大伴家持と親交があった事から編者候補の一人とされている。
学問僧の仙覚は「橘諸兄と大伴家持が共同で編纂した」という共撰説を唱えている。
平安時代の歴史物語『栄花物語』の月の宴の巻には「昔高野の女帝の御代、天平勝宝5年には、左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばび給」という記述があり、橘諸兄説を裏付ける史料の一つとなっている。
(天平勝宝とは孝謙天皇の時代の元号である為、孝謙天皇説の根拠でもある)

研究は現在まで続く

『万葉集』の研究は平安時代から行われており、諸本は「古点本」「次点本」「新点本」に大別する事が出来る。
ここでいう「点」とは『万葉集』の漢字本文に付けられた訓のことで、附訓によって古・次・新と区分している。
訓を付けるのが盛んだったのは『万葉集』が読みにくい「万葉仮名」で書かれていたからだ。

古点本

古点は「梨壺の五人」と呼ばれた平安中期の歌人5名(大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文)が附した訓だが、現存はしていない。

次点本

次点は、その後の歌人が附した訓で、藤原道長や大江匡房、藤原長忠、源師頼、藤原基俊、藤原清輔、顕昭などが加点者とされている。
次点が記された諸本は『嘉暦伝承本』『元暦校本』『金沢本』などが現存しているが、いずれも零本(書物の大部分が失われ、僅かのみ残っている本)で、完本は現存していない。
現存する最古の写本『桂本』は11世紀半ばに書写されたもの。

新点本

新点本は鎌倉時代の仙覚が校訂したモノで、寛元本系統と文永本系統に大別される。
諸本は文永本の方が多く、現在の『万葉集』のテキストでも底本として利用されている。

『万葉集』の時代区分

古代欽明天皇即位以前(〜509頃)磐姫皇后、雄略天皇、聖徳太子など
第1期初期万葉時代(629〜672)天智天皇、天武天皇、額田王、有間皇子 中臣(藤原)鎌足など
第2期白鳳万葉時代(672〜710)柿本人麻呂、大津皇子、 持統天皇、 大伯皇女、高市黒人など
第3期平城万葉時代(710〜730前後)山上憶良、大伴旅人、山部赤人、高橋虫麻呂など
第4期天平万葉時代(730前後〜759)大伴家持、中臣宅守、 狭野茅上娘子、 大伴坂上郎女など

『万葉集』の構成

卷一
天皇ごとに宮廷を中心とした雑歌を並べている
卷二
天皇ごとに宮廷を中心とした相聞歌・挽歌を並べている
卷三
巻一と巻二を補足する雑歌・譬喩歌・挽歌
卷四
巻一と巻二を補足する相聞・大伴氏に関係する歌
卷五
大宰府の大伴旅人、山上憶良の歌を中心に年代順に配列
卷六
聖武天皇以降の宮廷を中心とした雑歌を年代順に並べる
卷七
詠み人知らずの雑歌・譬喩歌・挽歌
卷八
四季ごとに分類した雑歌・相聞歌
卷九
「柿本人麻呂歌集」などの個人歌集から旅や伝説の歌を選出
卷十
詠み人知らずの四季に関する雑歌・相聞歌
巻十一
詠み人知らずの「古今相聞往来歌類」
卷十二
詠み人知らずの「古今相聞往来歌類」
卷十三
詠み人知らずの長歌が中心で新旧の時代の歌が混在
卷十四
「東歌」を総題とする詠み人知らずの東国の歌
卷十五
遣新羅使人の歌、中臣宅守と狭野茅上娘子の相聞贈答歌
卷十六
伝説の歌、おどけた歌、民謡などを集めた巻
卷十七
大伴家持の歌日誌で越中赴任前後の歌が中心
卷十八
大伴家持の歌日誌で越中赴任時代の歌が中心
卷十九
大伴家持の歌日誌で越中時代と帰京後の歌が中心
卷二十
大伴家持の歌日誌で最後の6年分と防人の歌

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