富士が霊峰になった経緯

富士山が霊峰になった理由

日本の最高峰にして、日本三大霊山に数えられる富士山。標高約3776メートルの山頂は神仏の住む世界とされ、富士山の周囲には、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀るいくつもの浅間神社が創建された。平成25年(2013)には、「富士山信仰の対象と芸術の源泉」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。しかし、記紀では富士山については一切記していない。記紀神話に記述がない富士山で育まれた信仰についてまとめる。

目次

日本で育まれた山岳信仰

山を聖なる場所と考え、神に祈る

富士山の信仰を知るためには、日本で育まれた山岳信仰を知る必要がある。山岳信仰とは、山を聖なる場所と考え、祭祀や儀礼を行う信仰のことをいう。

常に山とともにあった日本人

日本は国土の76%、実に山地が4分の3を占める。
人々の生活圏のすぐそばに位置していた山は、水をもたらし、季節によって変わる日の出・日の入りの位置から山は天然の農業カレンダーとしての一面も持っていた。
そこから「山の神は春には里に下りて田の神となり、秋に収穫を終えると再び山に戻っていく」という、山を農業の守護神とする信仰も生まれていった。

山自体を神聖視する神奈備

山に残る縄文時代以来の信仰としては、巨石を祀る磐座や、山自体を神聖視する神奈備がある。
山中にある巨石は磐座として祭祀が行われるとともに、円錐形の美しい姿を備えた山自体を神の降臨する地、または山そのものを神として仰ぎ、拝まれた。

富士では、縄文中期には信仰が存在か

富士山においても縄文時代中期には信仰があったと考えられており、千居遺跡(静岡県富士宮市)や牛石遺跡(山梨県都留市)の配石遺構は富士山を遙拝(遠くから拝礼すること)するようにつくられている。

富士山の名の由来

長くゆるやかに下がる山、恐ろしい白さ

富士山の山名の「フジ」は「長くゆるやかに下がる」を意味する古語とされる。
また「浅間大神」の「アサ」は「なんと恐ろしい」、「マ」は「白さ」「清らかさ」を意味する海洋民族の言語に由来するともいわれる。
古くからその山容の優美さに人々が目を奪われるとともに、一度噴火すると広範囲に大きな被害が出ることから、美しさと猛々しさを併せ持つ二面性がうかがえる。

山は先祖の魂が集まる場所

人が亡くなると魂は山へ、先祖と山の神が一体化

古代の日本では、人が亡くなるとその魂は高いところに登っていくと考えられていた。
必然的に魂は里近くの山の中に集まることになる。
山に留まった先祖の魂=祖霊は、やがては山の神と一体化して子孫に繁栄と豊作をもたらしてくれると信じられた。

霊を山から迎えるか、自ら山に出向くか

そのため古代の人々は、神となった祖霊を里に迎えての祭りと、自ら山中へ出向いての祭りという2通りの祭祀を行った。
霊山と呼ばれる山の多くでは山腹、山麓どちらにも古い祭祀場跡が残され、鏡や剣、法具や土器などの祭祀遺品が発見されることも少なくない。
富士山頂にも富士山本宮浅間大社の奥宮がある。

山中他界観と山中浄土観

山は、里とは異なる他界と考えられた

山は自分の親や祖先の魂が留まる死後の世界で、里とは異なる他界だと考えられた。
この山中他界観は中世になると、山中を浄土とする山中浄土観が広がった。

山中浄土観〜山には仏も住んでいる

山中他界観が仏教の影響を受けて、山は祖霊・神だけでなく仏も住む世界だと考えらるようになったのだ。
浄土には阿弥陀如来の極楽浄土、薬師如来の瑠璃光浄土などがあり、「浄土山」「薬師岳」「阿弥陀岳」といった山名からも、山中浄土観の面影を見ることができる。

修験道〜山中修行で特別な力を得る

密教がもたらされ、山林修行がより盛んに

こうした中で生まれたのが、山中で修行することで特別な力を得る、修験道である。
仏教では山林修行の考えがあるため、中世には修行の場を見出す僧が増えていた。
この流れを決定づけたのが、平安時代初期に最澄と空海によって日本にもたらされた密教の信仰である。 (奈良仏教に代わる平安仏教)

山岳修行を経て力を得た僧が、朝廷の信頼を得る

真言宗を開いた空海や天台宗を開いた最澄は、高野山や比叡山に登った。
そのため、密教の僧は厳しい山岳修行を行い、そこで得た「験力」をもって加持祈祷を行い、天皇や貴族からの信頼を勝ち取った。
こうして日本の山の中では密教を中心に、道教の神仙思想、古来の山岳信仰などが複雑に融合し、やがて日本に独自の宗教・修験道が生み出されていった。

フランシスコ・ザビエルが視た修験者

15世紀に来日したイエズス会士フランシスコ・ザビエルが記した本国への報告書の中にも「断食し、100日間もの貞潔を守って山に分け入り、75日間もの荒行を行う」と修験者についての記述が残されている。

富士山への信仰に修験道も貢献

富士山への信仰は縄文時代からあったが、大きく発展したのはこの修験道によるものである。

修験道の開祖、役小角

修験道の開祖は、役小角(役行者)という飛鳥時代7世紀の伝説上の人物である。(続日本紀に記述あり)
奈良県の葛城山の山中で修行し、鬼神を自在に操る法力など、超自然的な力を操ったという。

江戸時代、富士に「神変大菩薩」の諡が贈られる

富士山においても江戸時代には「神変大菩薩」の諡が贈られ、主に修験道ゆかりの地で祀られている。

富士山をめぐる登拝の伝説

修験道が発達した富士山においても、役小角が開山したという伝承が残っている。)
またさまざまな超人的な逸話が伝えられる厩戸皇子(聖徳太子)が、黒駒に乗って登拝した記述がある。)
ただし、いずれも伝説の域は出ない。

正確な登拝の記録

登拝の確かな記録としては、12世紀の末代上人(富士上人)によるものがある。
『本朝世紀』には、末代上人が富士山に数百回登頂し、久安5年(1149)に山頂に大日寺を建立したとある。

富士山がアマテラスと同一視もされている

密教では大日如来を本尊として、天照大御神と一体であるとされた。
大日如来の化身が不動明王であることから、富士山=大日如来=不動明王という信仰が生まれた。

富士信仰を広めた村山修験

末代上人〜富士で【入定】した村山修験の起源

富士山の修験道は「村山修験」と呼ばれ、この末代上人(1103年〜?年)を起源とする。
村山修験では、山中浄土観に基づいており、富士山頂は人が亡くなった後に向かう浄土とされた。
末代上人は富士山で入定(悟りを開いて解脱すること、肉体的には死を迎える)して即身仏となった。

頼尊上人〜富士の登拝修行を広めた

この末代上人の流れを汲んだ頼尊上人が富士山の登拝自体を修行とする信仰を広めた。
修験者は全国を回り、富士登拝を勧め、修験者に導かれた富士登拝が行われた。

長谷川角行〜修業の果て106歳で即身仏に

16世紀になると長谷川角行によって独自の修行が展開され、後に富士講(富士山へ登拝する各地の組織)として組織化された。
長谷川角行は人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市)の洞窟で、伝承では1000日間に及ぶ苦行を行ったとされる。
角行は最後、300日の断食を行って入定し、106歳で即身仏になったと伝わる。

富士講〜山頂でご来光を拝む風習

江戸時代にはこの富士講が流行し、江戸八百八町すべてに講がつくられた。
現在も続く山頂でご来光を拝む風習は、この富士講の信仰に由来している。

食行身禄〜(間違いなく)即身仏となった修行者

こうした中、伝承ではなく明確に即身仏となったことがわかっているのが、江戸時中期の食行身禄である。
食行身禄は俗名を伊藤伊兵衛といい、富士講の修行者だった。
享保18年(1733)、食行身禄は、富士山の7合目の烏帽子岩で断食を行い入定し、即身仏となった。
この即身仏になる過程は、弟子が細かく記録している。

富士そのものが仏の世界と化す

「○合目」とは人が仏に至る道程をあらわす

山中の位置を示す言葉として、「○合目」の用語が使われている。
山の麓の1合目から山頂の10合目まで区分されるが、これは山岳登拝を人間が仏へと至る10の段階(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)に当てはめたもので、山を登ることで、仏が住む浄土の地へと至るとされる。

富士山頂を蓮華の花弁にみたてた

仏は八葉の花弁を持つ蓮華に座ると考えられているが、富士山頂は蓮華の花弁と同じように8つの峰がある。
ここから、火口を周回することをお鉢(八)巡りと言うようになった。
この8つの峰と中央の火口が仏の世界を表す「八葉九尊」に見立てられた。
さながら富士山頂は胎蔵界曼荼羅を具現化したような形となっている。

山頂の浄土へ〜富士山は山岳信仰の基本

地獄から仏への十の段階を経る「擬死再生」の過程を歩み、山頂の浄土へ至る。そして太陽のご来光を拝み、死後の成仏、現世での祈願とともに再生と復活を願う。
こうした修験道の行法や思想は富士講の中に拡散していき、民衆化していった。富士山は山岳信仰の基本的なモデルともいえる。

富士も受けた神仏分離令の痛手

かつては8合目以上には多くの仏像があったが神仏分離令後に数多くが人里に下ろされた。
火口からは廃棄された仏像類の残片が出土している。
現在、富士山において仏教的要素は一部を除いてほとんど見られないが、富士講の人々が「六根清浄」と唱えながら登山するなど、神仏習合の名残が残っている。

富士山が信仰される理由

広範囲から望むことができた

富士山がこれほどまでに信仰されるようになったのは、村山修験の修験者たちの活動もさることながら、広い範囲から見ることができるからだろう。
富士山の可視領域は、関東平野ではほぼ全域、静岡県や中部の沿岸部、内陸では長野県の諏訪盆地あたりにまで広がる。

大和・奈良盆地からは富士山は見えない

一方で近畿地方では、三重県からは見えるが、ヤマト王権があった奈良盆地からは見えない。
記紀神話の舞台は、主に大和から以西が中心で、関東圏の記述は10代崇神天皇の時代の四道将軍の派遣や12代景行天皇の時代の日本武尊の東征などの、地方勢力の征討が中心である。

近畿中心の時代は富士の影響力も低かった

ヤマト王権の影響力が低かった東国の富士山はこうしたことから、記紀での記述がないのだろう。
しかし、街道が整備された江戸時代になると、富士山の信仰は全国的に広がり、富士山は日本一の霊峰となったのである。

江戸時代に富士山登拝が大流行

60年に1度の庚申の年は通常の33倍の霊験

江戸の八百八町に八百八講があるといわれるほど、富士講は江戸時代に大流行した。特に60年に1度巡ってくる庚申の年は、富士山が出現したとされる年とされ、この年に富士山に登拝すると33回富士山に登ったのと同様の霊験があるとされた。そのためこの年には、多くの登拝者が富士山頂を目指した。

ハンスト(政府への抗議)でもあった断食入定

富士信仰が江戸で流行する契機をつくった食行身禄は身分が固定していた江戸時代の人々の平等を説き、飢饉対策の失政を批判して、断食入定した。そのため、幕府は6回も富士講禁止令を出したが、流行が廃れることはなかった。

江戸の街につくられた富士塚

富士山を模したミニ富士山

富士登拝は気軽に行えるわけではなく、体力的に登山が難しい老人や子ども、登拝が禁止されている女性などのために、溶岩や土でつくったミニチュアの富士山がつくられた。これを富士塚という。

富士山の溶岩を使ってミニ富士山が築山された

安永8年(1779)、植木職人の藤四郎という者が東京都新宿区高田の水稲荷神社の境内に富士山の溶岩を使って築山したのがはじまりとされる。このミ二富士山に登拝すれば、本物の富士山に登拝したのと同じ霊験があるとされ、江戸中につくられた。

1789年が最古、都内に50近くも富士塚が残る

現在も東京都内には50近くの富士塚が残っているが、現存する最古のものは、東京都渋谷区の鳩森八幡神社にある富士塚である。寛政元年(1789)に築造された高さ約5メートルのものである。富士山の溶岩でつくられ、合目の道標、熊笹、山裾には御影石の里宮(浅間神社)をはじめ、7合目に身禄が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂の奥宮など、本物の富士山にある霊地を備えている。

富士山山開きに合わせて開山祭事も

このような富士塚の多くは、富士山周辺の浅間神社と同様に、富士山の山開きと合わせて開山の祭事が行われる。

記紀以外の史書における富士山

『万葉集』では11首、富士について詠まれる

記紀には記されなかった富士山だが、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された最古の歌集『万葉集』には、約4500首のうち11首で富士山について詠まれている。
奈良時代の歌人・山部赤人は「田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪はふりける」という和歌を残している。

『富士山記』浅間大神という白衣の美女2人

平安時代初期に記された『富士山記』には、富士山に関する詳細な記録が残されている。
これによると、貞観17年(875)、富士山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり、浅間大神(あさまのおおかみ)と名付けられたという。
浅間大神は、後世になって記紀に登場する大山祇神の娘・木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになった。

かぐや姫と浅間大神

浅間大神は多くの存在と同一視された

木花之佐久夜毘売命が浅間大神と同一視されたのは、大山祇神の娘であるからだろう。
中世になると神仏習合が進み、浅間大神は浅間大菩薩として大日如来と同一視された(仏は、性別を超越した存在とされる)。
浅間大神はさらに、昔話として有名なかぐや姫とも同一視されるようになった。

竹取物語〜富士山は不死山か

『竹取物語』では、月に帰ろうとするかぐや姫に、帝が軍勢を差し向けて止めようとした。しかし、月の迎えの不思議な力によって軍勢はかぐや姫を引き止めることはできなかった。かぐや姫は帝の使者に不死の薬を授けて帰っていってしまった。不死の薬を手に入れた帝だったが、かぐや姫が去ってしまった帝は嘆き悲しみ、駿河国(静岡県中央部)の山の頂で、かぐや姫からの手紙と不死の薬を燃やすように命じた。
こうしたことから、この山は不死山(富士山)と呼ばれるようになったという。

かぐや姫は【浅間大菩薩】ともされる

『神道集』には、竹林で生まれたかぐや姫が富士山の仙女と名乗り、神となることが記されている。山に入り不老不死の仙人となる「神仙思想」がこの説話から見られる。
また『浅間大菩薩縁起』『浅間御本地御由来記』『富士山縁起』でかぐや姫は浅間大菩薩とされる。


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