奈良仏教に代わる平安仏教

延暦の遣唐使と新たな仏教

奈良時代末期、国家を鎮護するはずの仏教は機能不全に陥っていた。 時代は南都六宗に代わる新しい仏教を希求していた。 桓武天皇により平安京への遷都がなされた日本には、最澄や空海により中国・唐から新たな仏教が持ち込まれる。 やがて最澄は戒壇院(仏教の大学のようなもの)創設を実現し、空海は密教だけでなく灌漑用ため池などインフラ構築にも尽力する。

目次

政治経済、多くの問題を抱えた奈良時代

疫病災害が続くなか、政治も仏教も機能を失っていた

奈良時代末期、朝廷は混乱の中にあった。天智系天武系による皇統争い、聖武天皇崩御による政情不安、聖武が推進した仏教事業による経済的疲弊、朝鮮半島の国家・新羅との関係悪化、災害や飢饉、など非常に多くの問題をかかえていた。
こうした時こそ仏教の出番なのだが、仏教伝来以降、国家鎮護の妙法として尊重されていたこの教えに、昔日の勢いはなかった。
このとき仏教の中核を成していたのは、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の6つの宗派、いわゆる「南都六宗」だ。
経典・論書の読解と理解を通じて、仏法による国家鎮護の法を研究していた。

仏教が腐敗し、魔都と化した平城京

堕落した南都仏教、天皇になろうとした僧・道鏡

このうち、唐僧の鑑真がもたらした律宗は、伝来して間もないため健全さを保っていたが、ほかの5宗は世俗権力と結びついて著しく俗化し、国家鎮護の重責を担うだけの機能は失っていた。
神護景雲3年(769)に、称徳(孝謙天皇の寵愛を受けていた法相宗の僧・道鏡が、帝位を狙うという象徴的な事件が起こったことが示すように、公も僧も汚染が進んでいた。

私欲にまみれた私度僧が跋扈する平城京

首都の平城京の治安も著しく乱れていた。
超巨大寺院となった東大寺は、まるで都の支配者であるかのようだった。
林立する大寺院、民家に混じって点在する小仏堂。その内外を無数の僧や尼僧が行き来していた。彼らの中には、官許を得ずに出家した「私度僧」も多い。勝手に僧になったわけで、当然正しい仏法を知るはずもなく、懺悔と称して素っ頓狂な声を上げてわめき続ける輩や、呪詛の呪文を唱えて相手を恐怖に陥れた輩などがいたことが、当時の官符からうかがえる。
もはや仏教ではなく、ただの邪教であった。

常にお経を唱え続けよ〜打つ手なしの政府

ただ、首都がこのような状況下でも、仏法にすがるよりほかに道はなかったらしく、宝亀4年(773)4月、時の帝・光仁天皇は、「官吏も庶民もことごとく、道行く際はむろん、仕事中も暇なときも『魔訶般若波羅密』を唱えて、魔物や病気の侵入を阻止せよ」との詔を出している。
つまり、常にお経を唱えていろ、ということ。

奈良仏教は切り離すしかなかった奈良朝廷

邪教が蔓延り、退廃的な魔都と化していた平城京に、合理的な解決策を打ち出せない天皇。
奈良仏教はすでに機能不全に陥っており、「病巣」と形容してよい状態になっていた。
これと手を切ることは政治上の急務であった。

長岡京への遷都〜奈良仏教の切り離し

中央での仏教拡大を抑制し、奈良を離れた天皇

天応元年(781)に即位した桓武天皇は、延暦2年(783)6月、京畿(都内とその周辺)の寺院が所有地を拡げることを禁ずるとともに、私寺の濫立を抑える旨の詔を出している。
仏教寺院勢力を抑制するためだ。
さらに翌年には、長岡京遷都を断行。
その際、天皇は奈良仏教と物理的距離を取るため、寺院が新都に移転することを禁じている。

山林修行者〜新たな仏教の形

こうした動向の最中、仏教界では山林修行者の存在が注目されていた。
これは超人的な能力を身に帯びるため、峻険な霊山に入った仏教僧をいう。
彼らは理論が未整備ながら、現生利益をもたらす初期密教「雑密」を唐伝来の最新呪法として奉じ、厳しい修行に明け暮れた。
雑密法の一つ『孔雀明王経法』を修めたとされる役小角(役行者)は、そうした修行者の代表だ。

最澄〜奈良仏教に代わる新たな仏教

日本天台宗の祖・最澄も山林修行者

民衆は命がけで修行する彼らを称賛し、朝廷もまた、彼らが得度を受けていない非公認の仏教僧であるもかかわらず、「清行」「浄行」と称賛して僧の理想像として高く評価し、惜しみない援助をした。
こうした山林修行者の中に、日本天台宗の祖となる最澄(さいちょう)もいた。

最澄〜父は儒教・仏教につうじていた

最澄は俗名を三津首広野といい、現在の滋賀県大津市に生まれた。
生家は郡の政務を司る「郡司」級の実力を有しており、父の百枝は儒教・仏教に通じ、自宅を寺院として修行に励んでいた。

最澄が修行のため比叡山へ

父親の影響もあって、最澄は7歳で仏僧を志し、僧・行表に師事。15歳で出家して近江国分寺の僧となった。東大寺で受戒したのが延暦4年(785)4月のこと。
受戒後、20歳になっていた最澄は、山林修行のため比叡山に分け入った。

比叡山〜古くから神が坐す霊峰

比叡山は京都府と滋賀県の県境に位置する連山だ。海抜848.3メードルの大比叡を最高峰とし、水井山・四明ヶ岳・釈迦ヶ岳などの峰々が約20キロにわたって連なっており、古くから神の坐す霊峰として信仰対象となっていた。

人々の心が堕落しているのを憂いて山に入った

門弟の一乗忠が著した『叡山大師伝』は、最澄が比叡山に入った動機を「常でない無常観や、仏の正しい教えが衰微し、人々の心が堕落しているのを憂いて山に入った」と記す。
こうした思いを抱いていたのは最澄だけではなかったらしく、同伝に最澄入山時の状況として、「諸門徒、行を見て心を喜び、志を見て喜びを増し、寒熱を憚らず、飢饉を憂えず、ともに山林に深志を結び…」とある。
比叡山は山林修行者たちの行場だったのだ。

天台教学〜法華経にこそ万人救済の真理あり

最澄は比叡山中で厳しい荒行に明け暮れるかたわら、数々の仏典を集めて教理を研究した。
ここで最澄は天台教学と出会う。これは中国の陳の時代(557〜589)に智が立てた仏教宗派をいう。
中国浙江省にある天台山で仏道修行の研鑽を積んだ智は、「法華経」(仏教経典の一つ)にこそ、万人救済の真理が込められていると確信し、同経典をベースに据えた天台教学を確立した。

比叡山に一乗止観院が創建

万人救済は最澄の理想と一致する。比叡山にあって天台教学の習得に邁進する最澄。
やがてこれに共鳴する修行者たちが最澄の周囲に集い、比叡山に一大教団が形成され、延暦7年(788)には、薬師如来を本尊とする一乗止観院が創建された。
これは天台の教えを実践するための道場で、根本中堂の前身となる堂宇である。

平安時代〜桓武の命で最澄が唐へ

桓武天皇による遷都で平安時代が始まる

最澄が比叡山で仏道修行に打ち込んでいた最中の延暦13年(794)、桓武天皇が平安京に遷都し、平安時代が幕を開けた。

最澄が朝廷より「内供奉十禅師」に任命

比叡山入山から12年目となる延暦16年(797)、最澄は朝廷から「内供奉十禅師」に任命される。
これは天皇の身辺にあって、怨霊退散や病気平癒祈祷をする役職で、清浄な僧10人が選ばれた。
この人選は、最澄に深い興味を抱いた桓武天皇の配慮によるものであった。

桓武の命で、最澄が中国・唐へと渡る

桓武天皇の知遇を得た最澄は、定期的な勉強会を開催するなど、天台宗の教理拡大に邁進する。
そして、新しい仏教を求めていた桓武天皇は、最澄の積極的な動きを高く評価し、最澄が宿願としていた唐帝国での仏道修行「入唐求法」を許した。

遣唐使船が唐の都・長安へ

こうして延暦23年(804)、最澄は遣唐使船に乗り込み、唐の都・長安へと向かった。

唐への外交使節・遣唐使

飛鳥時代から続く中国への外交使節団

遣唐使とは、古代から中世初期にかけて、日本の朝廷・政府が唐帝国に派遣した公的外交使節団のこと。
舒明天皇2年(630)に犬上御田鍬(三田)を派遣したのが最初で、途中、日本と唐・新羅の関係の悪化から一時中断されたこともあるが、寛平6年(894)に菅原道真の建言で廃止されるまで続いた。

8世紀に20回の遣唐使が渡航(16回成功)

遭難・停止・漂着などを含めると、派遣は計20回計画され、このうち16回は渡航に成功している。
8世紀前半が遣唐使の最盛期で、総員500〜600人が、4隻の船に分乗して唐に向かった。

遣唐使を通じ仏教など先進文化を取り入れる

使節団は朝廷から任命された大使・副使のほか、水夫・大工・医師・通訳・楽団指揮者・陰陽師に加え、大量の留学生や留学僧が同乗していた。
古代から中世初期にかけての日本は、この遣唐使を通じて大陸の先進的技術・物・文化を受け入れていた。

第18回遣唐使、最澄と空海が渡航

最澄が乗り込んだ遣唐使船は、18回目となる遣唐使派遣だ。
そして使節団の中には、日本真言宗の祖となる空海も乗り込んでいた。

空海〜官吏の道を捨て仏道へ

四国(香川)出身の空海、父は郡司、母は学問

空海は宝亀5年(774)に、現在の香川県善通寺市善通寺御影堂の地に生まれた。
俗名は佐伯真魚。父方の佐伯氏は代々郡司を務め、母方の実家は学問を司る家柄だった。

高貴な生まれながら、自ら苦難の道を選ぶ

両親に「貴物」と可愛がられ、経済的不自由もなく育った空海は、15歳で都に出て、母方の叔父で伊予親王の侍講(家庭教師的役職)を務める阿刀大足の下で学んで、18歳で官吏養成機関の「大学寮」に入った。
しかし、名もなき沙門(出家修行者)と出会ったことを機に自主退学。
峻険な山岳で仏道修行を開始した。

100日かけてお経を“100万”遍唱る修業

修行の中核となったのは「虚空蔵求聞持法」の習得だ。
これは雑密の修法で、虚空蔵菩薩の真言(仏に直接働きかけるための呪文)を50日ないし100日かけて、100万遍唱えるという荒行中の荒行で、成し遂げれば超人的な霊的な力が得られるという修法であった。

空海は20年も唐に滞在、最澄は往復のみ

延暦23年(804)、空海は20年間の滞在を義務づけられた「留学僧」として遣唐使船に乗り込んだ。
桓武天皇の肝入りで乗り込んだ最澄は遣唐使と往復をともにする「還学生」であったから、両者は同じ仏僧でも身分の上で雲泥の差があった。

最澄と空海がもたらしたモノ

両者が中国からもたらした内容も大きく異なった。

複数の教えを伝えた最澄〜天台宗の確立

最澄が目指すのは「万人救済のためさまざまな教えを網羅した、日本独自の総合仏教としての天台宗」確立だ。
このため天台教学を学びつつも、これをそのまま日本に移植するのではなく、「禅」「戒律」「密教」などももたらした。

「純密」をもたらした空海〜真言密教

対する空海は「真言密教」をもたらす。
これは、『大日経』(胎蔵界曼荼羅)系と『金剛頂経』(金剛界曼荼羅)系という二系統に分かれていた教理を、「一つの真理の二つの現れ方」という教義で統一したものだ。

経典が完備された「純密」〜雑密の対義語

日本国内で修法されている雑密が修行法・理論ともに不完全なのに対し、大日如来を本尊とする真言密教は、理論的根拠となる経典を完備し、修行体系も整備され、深遠な哲理を整えた完全無欠の密教であった。
このため雑密と区別する意味で、「純密」と呼ばれることもある。

真言宗第8祖となって無事帰国した空海

空海は純密を完成させた長安・青龍寺の恵果に師事し、真言密教のすべてを伝授され、「真言宗第8祖」となって帰国した。

平安仏教が花開く

最澄が仏教の制度改革を進言

国が認めた僧侶の数が少なかった

帰国した最澄が最初に行ったのは仏教の制度改革で、延暦25年(806)1月には、朝廷に対して「年分度者」の意見を具申している。
年分度者とは僧侶になることを国が認めた者のこと。
定員と各宗派への割り振りは朝廷が取り仕切っており、定員は10名と定められていた。

最澄の意見が採用されるも、わずかしか変わらず

仏法での万人救済を目指す最澄は、これを「少なすぎる」とし、多くの宗派から多くの仏僧を出し、幅広く網羅する必要性を訴えた。
他の仏教宗派も賛成多数であったため、最澄の意見が採用され、従来の10名から12名に増員された。
天台宗も2名が割り振られている。

天台宗が南都六宗(奈良仏教)と並ぶ存在に

天台宗は国が認めた宗派となり、南都六宗と肩を並べる存在になった。
しかし、この後、最澄を取り巻く環境に変化が生じる。
最澄と強い信頼関係で結ばれていた桓武天皇が、同年3月に崩御するのである。

最澄と空海が袂をわかつ

空海帰国、朝廷では「奈良仏教の後は密教」という空気に

平城天皇を経て嵯峨天皇の御代になると、真言密教を引っ提げて帰国した空海が、にわかに存在感を増すようになった。
朝廷では雑密流布以降、「奈良仏教の後は密教」という空気が醸成されていた。
最澄が桓武天皇から、宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とする内供奉十禅師に任命されたのも、山林修行で培った超人的な能力を期待してのことだった。
このような状況下で真言宗第8祖の空海が、最新鋭の密教を携えて帰国したのだから、朝廷が空海を放っておくはずがなかった。

最澄が一時、空海に教えも請うも袂をわかつ

密教を副次的に考えていた最澄は、8歳年下の空海に師礼を取って真言密教を学ぶも、ほどなくして両者は袂を分かっている。

最澄と空海が遺したもの

最澄、比叡山で戒壇院創設を実現

最澄はその後、仏教の裾野を拡げるため、比叡山での戒壇院(僧となる戒律を授ける場所)創設に奔走。
南都六宗の激しい反対を押し切って実現させた。
比叡山延暦寺はさながら総合仏教大学の様相を呈し、後世多くの名僧を輩出している。

空海、灌漑用ため池などインフラ構築に貢献

一方の空海は、京都や高野山を拠点に真言密教の普及に奔走。
また、綜藝種智院での民衆教化や、讃岐(香川県)にある日本最大級の灌漑用のため池・満濃池の修築など、社会事業でも足跡を残した。

総合仏教の天台宗、密教が専門の真言宗

総合仏教の確立を目指した最澄と、真言密教の空海。
この二人の僧によって平安仏教の幕が開けられ、天台宗と真言宗が日本の仏教を牽引していく。

『続日本後紀』も空海を特別視した

なお、六国史の第四『続日本後紀』は、官人でないにもかかわらず、死去した空海に対する哀悼と生涯を記す。
ここに同時代における空海の存在感のほどが察せられる。


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