生没640年(舒明天皇12年)〜658年12月11日(斉明天皇4年11月11日)享年19
36代・孝徳天皇の皇子として生まれながら、政争に巻き込まれて世を去った有間皇子。心の病を装うがついには罠にかかって処刑されてしまった。その生涯は、悲劇の物語として語り継がれている。
中大兄皇子が乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した後、35代・皇極天皇(中大兄皇子の母)が退位して36代・孝徳天皇(皇極天皇の弟)が即位した。 孝徳は都を飛鳥から難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に遷す。
発掘調査にて、難波長柄豊碕宮は藤原宮や平城宮と遜色ない規模だったことが明らかになっている。出土した木簡の文字解析から、律令制度の第一歩が踏み出されていたと考えられる。
しかし、孝徳政権における中大兄皇子の行動は、そうした方針に逆らうものだった。白雉4年(653)、中大兄皇子は36代・孝徳天皇に「都を飛鳥に戻すべき」と提案するが、孝徳はこれを拒否した。すると、中大兄は皇族や役人を率いて難波を去り、孝徳天皇は難波で寂しく世を去った。
孝徳天皇の陵は、蘇我氏の血脈を継ぐ王家の墓が密集する磯長谷(しながだに:大阪府太子町)にある。そのため、蘇我氏とつながりが深い天皇だったともいわれる。
難波遷都は蘇我入鹿ら改革推進派の悲願で、孝徳は即位後に実行したのだが、蘇我氏を嫌う中大兄皇子はそれが気に入らなかったのかもしれない。
飛鳥遷都後、中大兄皇子は母の皇極(37代・斉明天皇)を再び即位させた。 そして、母を傀儡にして土木工事、百済救援と突き進んでいくが、豪族層や民衆から相当な反発を招いた。それでも、邪魔になりそうな者は容赦なく粛清し、地盤を固めていった。
中大兄皇子がもっとも危険視したのが、蘇我系の勢力であった。 孝徳天皇は白雉5年(654)に亡くなったが、子の有間皇子は健在だった。
中大兄の標的になるのを避けるため、有間皇子は心の病を装って紀国の牟婁の湯(白浜の湯)に赴いた。
頃合いを見て飛鳥に戻った有間皇子は、斉明天皇に病気が治ったことを報告。土地の素晴らしさを伝えると、女帝は紀の湯に行幸した。
蘇我赤兄(生没:推古天皇31年(623年)〜不明)は蘇我馬子の孫で、蘇我倉麻呂(雄当)の子。蘇我倉山田石川麻呂が葬られた後に重用された蘇我系官人。
斉明4年(658)11月3日、中大兄皇子の側近である蘇我赤兄が有間皇子に近づき、斉明・中大兄の失政を指摘。有間は「我が生涯で初めて兵を用いるときが来た」と喜び、政権打倒の意思を口にした。
しかし、蘇我赤兄が中大兄皇子に密告したため謀反計画が露見し、有間皇子は捕らえられた。 赤兄は最初から中大兄の意を受けて、有間に近づいたとみられる。
有間皇子たちは紀の湯に連行され、中大兄の尋問を受けた。このとき、有間皇子は「すべては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたという。 11月11日、有間皇子は藤白坂で絞首刑に処された(享年19)。
『万葉集』には、処刑に先んじて有間皇子が詠んだ辞世歌が2首収録されている。(ただし、この歌は後世の作ともいわれる)。また、和歌山県海南市の藤白神社には、有間皇子の死を悼んで創建された有間皇子神社があり、皇子を偲んだとされる作者不詳の歌碑が残っている。