蘇我倉山田石川麻呂

蘇我倉山田石川麻呂

目次

蘇我でありながら入鹿暗殺に協力

中大兄や中臣鎌足に利用されたか

乙巳の変蘇我入鹿殺害に協力し、功を挙げた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)。だが実際は、中大兄皇子や中臣鎌足に翻弄された生涯だったとみられる。一族を裏切った挙げ句、その最期は無残なモノとなった。

娘が天智の后で、持統の祖父となる

石川麻呂の次女・遠智娘(おちのいらつめ)は中大兄皇子(天智天皇)に嫁ぎ、のちにウノノサララ(持統天皇)を生んでおり、つまり、石川麻呂は持統天皇の祖父でもある。

入鹿の従兄弟、蝦夷の甥、剛毅果敢とされる

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我倉麻呂の子で、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。藤原氏初期の歴史をまとめた『藤氏家伝』では、「剛毅果敢にして、威望亦た高し」と評されている。

『日本書紀』に乙巳の変に関する記述あり

日本書紀』では、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿を殺した乙巳の変に参加したことになっている。

次女・遠智娘が中大兄に嫁ぐ

長女がさらわれ、代わりに次女が中大兄に嫁ぐ(?)

乙巳の変のさい、鎌足の仲介で石川麻呂の長女と中大兄皇子の縁談がきまったが、婚儀の夜、一族の日向(ひむか:身刺(むさし))が長女を盗んでしまう。石川麻呂が途方に暮れていると、次女の蘇我遠智娘が姉の代わりに嫁ぐことを申し出た。
遠智娘は中大兄皇子との間に一男二女をもうけ、2番目の娘は持統天皇として即位している。

実際は、次女を中大兄皇子に奪われたか?

しかし、この話は『日本書紀』の創作だと疑われている。孝徳朝の重臣である石川麻呂が蘇我入鹿と敵対していたことにしなければ、孝徳政権が親・蘇我派だったことが露見するからだ。中大兄皇子と石川麻呂の縁談も最初からなく、中大兄による略奪婚だったという見方もある。

乙巳の変後、まもなく失脚し自害

入鹿暗殺後、朝廷ナンバー2の地位に

『日本書紀』では皇極4年(645)、入鹿が暗殺された際の儀式で上表文を読み上げている。このとき、石川麻呂が震えて冷や汗をかき、不審に思った入鹿から「なぜ震えている」と問われている。乙巳の変後は右大臣に任じられ、朝廷のナンバー2の地位に上った。

蘇我日向の讒言により中大兄の不信を買う

だが大化5年(649)3月、石川麻呂の長女を盗んだとされる蘇我日向が、「蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いあり」と中大兄皇子に密告する。

石川麻呂が飛鳥にて妻子とともに自害

石川麻呂は「直接天皇にお会いしてご報告申し上げたい」と言っていたが、難波を去って飛鳥に向かった。(なぜ飛鳥に向かったのかは謎だが、石川麻呂の身内が人質になり、救出に向かったという見方もある)
飛鳥に入った石川麻呂は、長男の興志(こごし)から「ためしに宮(小墾田宮)を焼きましょう」と進言されたが石川麻呂はこれを拒み、飛鳥の山田寺で妻子とともに自害した。

次女・遠智娘も壮絶な最期を迎えた

遠智娘は父・石川麻呂の遺骸を物部二田造塩(もののべのふつたのみやつこしお)が切り刻んだ話を聞き、「塩」を敬遠して死んだという。あまりに唐突なエピソードだが、塩漬けにされた石川麻呂の首を見て錯乱し、亡くなったという見解もある。


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