公暁

公暁〜3代将軍・実朝を暗殺

目次

父を殺された恨みから復讐に生きる

2代・頼家の三男だが政界から引き離される

生没:正治2年(1200)〜承久元年(1219)。

公暁(くぎょう/こうぎょう)は、2代将軍・源頼家の三男。幼名は善哉(ぜんさい)。乳母夫は北条氏に次ぐ勢力を誇る三浦義村。鶴岡八幡宮の別当になると、義村子息の駒若丸をはじめ、多くの門弟を抱え、決して恵まれない環境ではなかった。

祖母・政子の助けも空しく復讐に生きる

しかし、祖父・源頼朝なき後の鎌倉殿でうず巻く権力争いにより、 3代源氏将軍になれたかもしれない運命はもてあそばれた。祖母・政子に助けられながらも、叔父・実朝と北条氏への恨みは消えることはなく、公暁は復讐に生涯を捧げることとなる。

父・頼家が北条氏の謀略で失脚

兄・一幡も北条氏によって亡き者とされる

鎌倉幕府の2代将軍・源頼家には4男1女があった。何事もなければ、正室である比企能員(ひきよしかず)の娘が生んだ嫡男の一幡(公暁の兄)が世継ぎ、3代将軍となるはずだった。しかし、頼家が病で生死の境をさまよっている間に「比企の乱」が勃発、比企一族が滅ぼされ、一幡も運命をともにしてしまう。

北条の謀略によって父・頼家が幽閉される

頼家が意識を回復した時には、すべてが終わっていた。愛する正室も嫡男も舅一族もいない。完全に後ろ盾を失った頼家は、母の北条政子に言われるまま剃髪の上、修善寺に幽閉されることとなった。

頼家の最期は暗殺された可能性が高い

鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』では、元久元年(1204)7月18日に自然死したように記されているが、前関白九条兼実の弟で天台座主の慈円が著わした史論書『愚管抄』によれば、頼家の死は暗殺で凄惨な最期だったとされる。

仏門に入ることで生き延びた公暁

出家しなければ公暁も粛清されていた可能性

当時の倣いとして女子には累が及ばず、男子は出家を条件に連座※を免れたが、この男子の中に、のちの公暁も含まれていた。※連座とは、罪を犯した本人だけでなくその家族などに刑罰を及ぼすこと
頼家を失った北条政子は深い悲しみに暮れたが、公暁が鶴岡八幡宮別当・尊暁(そんぎょう)の門弟となれるように尽力した。

3代・実朝の猶子として上洛も許される立場に

建永元年(1206)10月22日には3代将軍・源実朝の猶子(相続権のない養子)として、初めて御所への参内を許されるが、政子の指図に拠っていた。
こうして公暁は、祖母である北条政子の庇護下で成長、公暁が出家をしたのは翌年9月だった。翌月22日には正式な灌頂と受戒のため上洛するが、実朝の猶子であるため、護衛には5人の武士があてがわれた。

1000日も“何か”を祈り続けた公暁

鎌倉に帰還、鶴岡八幡宮の別当に就任

本場の空気が気に入ったのか、公暁は改めて上洛して、園城寺(三井寺)で修行に明け暮れた。
北条政子から呼び出しを受け、鎌倉に帰還したのは建保5年(1217)6月20日のこと。鶴岡八幡宮の別当が欠員となり、政子は公暁をその任に充てるつもりでいた。

約3年者長い参籠に入るも、不審な動きを見せる

公暁は政子の配慮をありがたく受け取り、同年10月11日には別当として初の神拝を行うが、それとは別に宿願があるとして、その日から1000日の参籠(社寺堂に籠り、神仏に祈願すること)に入った。

公暁は1000日間もいったい何を祈願していたのか

参籠は通常、一昼夜や3日〜7日程度のものはあるが、延べ日数が約3年とは尋常ではない。
長期の参籠の場合、一時的な退出や身づくろいは大目に見られるのに、翌年12月5日に御所内で披露された報告によれば、公暁はそれもせず、髪の毛もひげも伸ばし放題だったようだ。
しかも伊勢神宮をはじめ、全国の主だった社寺に使節を派遣しているという。
いったい何を祈願しているのか、人びとが怪しむのも無理はなかった。

将軍・実朝暗殺、単独で決行

それでも公暁の1000日参りを妨げる者は現われなかった。しかし、公暁の心中を察し、その真意を知る者もいたようである。

実朝だけでなく、北条義時もターゲットだった?

公暁の目的は、自らの手で将軍・実朝と執権・北条義時を殺め、自らが幕府のトップ立つことだった。という見方がある。

正月、冬の鶴岡八幡宮にて決行される

決行は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮の本殿を訪れる承久元年(1219)正月27日の夜。警護の兵は外で待機のはずだから、障害にはならなかった。

成功には至らなかった義時暗殺

義時が体調不良を訴え参列せず、源仲章が殺害される

公暁は実朝の暗殺には成功するが、義時は直前に腹痛を訴え列に加わっていなかったため、公暁は代役を務めた源仲章(なかあきら)を誤殺。これは大きな失敗だった。
『愚管抄』によれば、実朝が御剣役の義時に八幡宮の中門にとどまるよう告げ、殺害現場に義時は同行していなかったが、先導役として松明を振っていた仲章は義時と勘違いされて殺されたとしている。

乳母夫・三浦義村らによって公暁も殺害される

公暁は乳母夫の三浦義村を頼るつもりで、事前に話が通っていた可能性もあるが、義時が難を逃れたことで状況が変わったのか、義村は公暁に呼応するどころか逆に屈強な討手を差し向けた。
公暁は必死の抵抗を試みるが多勢に無勢、1人と組み合っていたところ、別の1人に首を斬られて息絶え、わずか20年の生涯を終えた。

出典・参考資料(文献)

  • 『弱者の日本史』宝島社 監修:小和田哲男

↑ページTOPへ