源実朝の暗殺

3代将軍源実朝の暗殺

源氏将軍の血筋が絶たれる

鎌倉幕府の三代将軍・源実朝は、兄の二代将軍・頼家の子の公暁に暗殺された。
この事件を受けて頼朝の血筋は途絶え、源氏将軍は滅んでしまう。
この後、幕府は実権は執権・北条氏が握り、将軍職は朝廷より預かった親王将軍に引き継がれる。
背後関係、黒幕説など、謎多きこの事件をまとめる。

後鳥羽上皇・朝廷と繋がった実朝

北条氏の実権が高まる一方で、将軍・源実朝は後鳥羽上皇や朝廷との結びつきを強めていった。
こうした動きに、御家人たちは「源氏将軍家」の存在に疑問を抱き始めた。

朝廷との関係を重視した父・頼朝

源頼朝は御家人たちとの関係上、常に京との関係、朝廷との関係を重視していた。
鎌倉幕府という武士による新しい政権を確立するとき、それに先行する権力である朝廷のお墨付きを得ようとしていた節がある。
大姫入内の画策はその典型だろう。

朝廷重視は武家軽視につながる

しかし、それは一方で関東の御家人たちの反感と不信を買う結果となった。

京文化に憧れを持っていた実朝

実朝も朝廷を重視した

これは二代将軍・源頼家の後、源氏将軍家を継いだ三代将軍・源実朝にとっても同様のことが言える。
とりわけ実朝は、京の文化に強い憧れをっていた。
早くに京から鎌倉に下った源仲章が実朝の教育係を務めている。

和歌を巡り後鳥羽と交流

また、和歌への強い関心から、後鳥羽上皇の計らいで、藤原定家に和歌の添削をしてもらってもいる。

後鳥羽に懐柔される実朝

妻も後鳥羽の近縁者

極め付けは、実朝は妻に後鳥羽上皇の近臣で、権大納言・坊門信清の娘・信子を迎えている点だ。
信清は後鳥羽上皇の生母の弟にあたり、上の娘は後鳥羽上皇の女房として仕えた西の御方であった。

実朝によって鎌倉が都化

このように実朝は急速に後鳥羽上皇との関係を強めている。
また、坊門家の娘の下向によって、鎌倉には一気に京文化が流れ込んだとされる。
それは頼家の時代とは比ではなかっただろう。

後鳥羽のマネをして和歌集を編む

実朝は和歌や蹴鞠に熱中し、後鳥羽上皇の勅令で藤原定家が『新古今和歌集』を編んだことに憧れ、私家集である『金槐和歌集』を編んでいる。

幕府の実権を狙う後鳥羽

実朝を懐柔、飼い慣らそうと画策

後鳥羽上皇は実朝を自らの近臣として、鎌倉幕府の実権を掌握しようと画策していた。
そのために、叙位任官という方法を使って、実朝を異例のスピードで出世させている。
ついには、父・頼朝をしのぐ右大臣にまで昇っていった。

東国武士は独立志向が強かった

しかし、後鳥羽上皇の誤算は、東国の武士たちはあくまでも朝廷から自立した「武士の、武士による、武士のための政権」の確立を望んでいたのである。

東国武士らは朝廷の懐柔策を警戒

東国の武士たちのトップである将軍が朝廷との結びつきを強めるなかで、次第に自分たちを代表することができない源氏将軍を排除しようとする動きが強まっていったのである。
そこにきて、勃発したのが、源実朝の暗殺であった。

実朝が暗殺される

当日、北条義時が急に体調を崩す

建保7(1219)年1月27日、実朝は自身の右大臣昇進に際し、神事を執り行うため、鶴岡八幡宮に参拝した。
このとき、神事における御剣役を務める予定だった北条義時は、『吾妻鏡』によれば「急に心身が乱れ」たため、源仲章と交代し、早々に帰宅したという。

実行犯は頼家の息子(実朝の甥)

二尺あまりの雪が積もるなか、儀式を終えた実朝が拝殿から出、石段を降りようとしたところ、1人の僧が実朝を襲い、源仲章ともども殺害してしまったのだった。
この僧の正体は、二代将軍・頼家の息子・公暁(こうぎょう)で、実朝の甥にあたる。
このとき、鶴岡八幡宮の別当を務めていた。

自分が将軍になりたかった公暁

実朝と仲章を殺した公暁は「父の仇を討ったぞ!」と叫んだという。
公暁は実朝の首を持って逃亡。
三浦義村に使者を送り「将軍なき今、自分が関東の長に相応しい。よろしく計らうように」と伝えると、義村は公暁を自邸に招くとともに、その裏で義時と通じて、公暁追討の命を受け取った。
こうして、公暁は三浦氏に討たれてしまうのだった。

実朝暗殺、黒幕はいたのか?

様々な黒幕説がある

実朝の暗殺については、その実行犯は公暁であるにせよ、その裏で手を引いた者がいるのではないかと、さまざまな黒幕説が唱えられている。

三浦義村・黒幕説

最終的に公暁を討ち取った三浦義村は、そもそも自分の妻が公暁の乳母であった。
さらに息子は、公暁の門弟である。
また、義村自身は梶原景時の失脚や畠山重忠討伐後に行われた稲毛重成らへの誅殺に関わっており、和田合戦では同じ三浦一族で従兄弟にあたる和田義盛を裏切り、北条側についている。
いわば、陰謀が渦巻く御家人たちの抗争をうまく渡ってきた、したたかな人間だった。
そのため、公暁の黒幕は三浦氏ではないかとする説もある。

後鳥羽上皇・黒幕説

あるいは実朝に不相応な官位を与えることで、御家人たちの反感を煽り、暗殺に至るように後鳥羽上皇が仕向けたとする後鳥羽上皇黒幕説などもある。

北条義時・黒幕説

事件直前に現場から遠ざかっていた義時

しかし、最も怪しまれるべき人物は北条義時だろう。
公暁の襲撃直前に、突然、心身の不調を訴え早退してしまったのは、事前に事が起こるのを知っていたからではないだろうか。

北条幕府は公暁の背後関係を調査せず

実朝暗殺の実行犯である公暁は、三浦勢によって討たれたが、その後、幕府側は公暁の背後関係について一切の調査を行っていない。
そこには、幕府の実権を握った義時自身の意図が窺える。

多くの人物に動機があった実朝暗殺

さらに言えば、後鳥羽上皇や朝廷との結びつきを強めた実朝に対する、御家人たちの暗黙の総意があったように思えてならない。

御家人らは鎌倉の独立が最優先だった

北条氏が幕府の実権を握ったその時点で、すでに鎌倉幕府と御家人たちは源氏将軍家を必要としていなかったとも言える。
事実、実朝暗殺以降、頼朝の弟の阿野全成の嫡男・阿野時元、頼家の次男で公暁の弟・禅暁が次々と亡き者にされている。
東国武士の思惑としては、幕府に望むのは、朝廷に組み込まれずに鎌倉の独立を最優先してくれるか?が重要だった。
こうして源氏将軍家はわずか三代で滅びることとなったのである。


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