三浦義村

三浦義村

三浦義村は、北条義時の従兄弟にあたる。義時と義村は、共に源頼朝に仕え、源平争乱を戦い抜き、鎌倉幕府を支え合った仲であった。しかし、常にその本心は見えず、義村は源実朝暗殺の黒幕とも、同時に義時をも討つ気だったともされる。

目次

源頼朝に仕え、鎌倉幕府を支えた重臣

源実朝暗殺の黒幕ともされる腹黒い人物

三浦義村(みうらよしむら:生誕1168年頃〜没年1239年)は、平安時代末期〜鎌倉時代初期の相模国の武士・御家人。
三浦義澄の嫡男(次男)で、北条義時はそれぞれの母親が姉妹であるため母方の従兄弟にあたる。
義村が史料上、初めて歴史の舞台に登場するのは『吾妻鏡』の寿永元年(1182年)8月11日条のこと。北条政子の安産祈願の祈祷に遣わされた、とされる。
義村がいつから源頼朝に仕えていたのかは正確には分からないが、父・義澄とともに源平争乱の最中で源氏側について戦ったのは間違いない。
義村は北条義時に幾度も力を貸した謀略家として知られるが、その本心は不明で、実際には義時をも討ち滅ぼそうと画策していた気配がある。
義村は1239年12月31日(延応元年12月5日)に死去するが、その際、京都では義村の死を「後鳥羽上皇の怨霊の仕業」という噂が広まったという。(『吾妻鏡』)。

義村の父・三浦義澄も頼朝に仕えた

三浦義澄は桓武平氏の一族と言われる相模国の三崎荘を領した三浦氏の人物で、父の義明は保元・平治の乱で源義朝に従って戦った。その縁もあって義澄は伊豆に流されていた頼朝の挙兵に父と共に参加することを決定するが悪天候のため合流できず、平家方に属していた畠山重忠に本拠地の衣笠城を攻められ、義明は討ち死にしてしまう。
ようやく安房で頼朝と合流することができた義澄は、常胤や土肥実平、上総広常らと並ぶ頼朝の宿老格の武将として、兄弟や息子の義村たち三浦一族と共に源平合戦の主な戦いで活躍している。一の谷の戦いで義経が鵯越の逆落としを敢行した際、急峻な崖を馬で駆け下りることを諸将が尻込みする中、「三浦の一族はいつも鳥一羽獲るにもこれぐらいの場所を通っている。こんなところは馬場と同じだ」と真っ先に駆け下りて武者たちを鼓舞したと、『平家物語』に描かれている佐原義連は、義澄の弟である。

北条義時と義村の黒い関係

義時の暗躍には常に“義村の影”が

幕府の御家人たちを次々と滅ぼした

義時が繰り広げてきた他の御家人との権力闘争に、義村はことごとく関与している。
結城朝光が梶原景時に讒言された際には景時を弾劾する連判状を作成して景時を失脚させ、畠山重忠の乱では重忠の嫡男・重保を討ち取っている。義村が畠山父子を討ったのは、源平合戦で平家方だった重忠に祖父の義明を殺されたことで遺恨があったためと考えられている。

盟友・和田義盛を討ち滅ぼす

和田合戦では「共に挙兵する」と和田義盛に誓約しておきながら義時に謀反を報告し、和田一族を滅亡に追い込んだ。

本当は和田と一緒に謀反に参加する気だった?

一般的に義村の裏切りと言われているが、義盛の挙兵は将軍の御所も攻撃対象にするなど、義時を倒して幕府の主導権を奪うのではなく、幕府の体制そのものを潰すための挙兵だった。そのため、実際は義盛の謀反に応じたことを後悔し、幕府の体制を守るために義盛の挙兵計画を義時に知らせたものと見られる。

義村最大の闇、実朝暗殺事件

暗殺犯・公暁の討伐に義村も協力したのだが…

将軍実朝暗殺事件でも、公暁の居場所を義時に密告して誅殺させたのは義村である。
義村は公暁討伐の功績で駿河守に任じられている。このように義村は、義時とは強い信頼関係で結ばれ、盟友と言っていいほどの蜜月関係にあったように見える。

その公暁とも密接な関係にあった義村

ところが、実朝暗殺に関しては、この義村こそ黒幕であるという説があるのだ。
義村の妻は公暁の乳母で、義村の子・駒若丸(のちの光村)は公暁の弟子になっている。義村は深い関係にある公暁を抱き込み、そそのかして実行犯に仕立て上げたのだという。

実朝暗殺の場、本来は義時も居る予定だった

義村は実朝だけでなく、何と実朝の太刀持ちを務めるはずだった義時を同時に殺すつもりだった、という見方もある。義時が体調不良になり源仲章と交代したため義時の暗殺には失敗したと知るや、義村は公暁を始末して証拠を隠滅したというのである。

その後も平然と幕府に居座った義村

義村が本当に義時を殺すつもりだったのかは知る由もないが、その後も義村は承久の乱で活躍するなど幕府の重鎮として義時を支え続けた。義村黒幕説が事実なら、義時を暗殺しようとしたことを平然と隠し、何食わぬ顔で幕政の中心にい続けていたことになる。

後鳥羽上皇らには容赦なかった義村

朝廷vs幕府なら、幕府に味方する

承久の乱で義時を支え、幕府の勝利に貢献した義村は、乱終息後の戦後処理でも義村は活躍した。
3上皇(後鳥羽・土御門・順徳)を配流とし、後堀河天皇を擁立することに義村も関わっていた。
義村の真意は「反朝廷(反後鳥羽)的で親幕府的、坂東武士の平穏が最優先だった」というところか。
実朝は親朝廷(親後鳥羽)的であったゆえ、義村からすれば危険人物に見えていたのかも知れない。

義時の死後、後継をめぐり暗躍か?

伊賀氏の変で義村が暗躍していたとも

元仁元年(1224年)に義時が病死すると、義時の後妻の【伊賀の方】が自分の実子である北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとしたとされる伊賀氏事件が起こる。
義村だが、自身が北条政村の烏帽子親であったため、義村もこの陰謀に関わったとされる。しかし、北条政子に問いただされた際に釈明、あっさり政子側に付いたようだ。
ただし、この伊賀氏の変は謎が多いため、真相は不明である。

義村が幕府宿老に

執権に次ぐ立場、幕府のナンバー2に

嘉禄元年(1225年)には大江広元・北条政子が相次いで死去すると、同年12月に執権・北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村も宿老に就任した。これは、義村が執権に次ぐ地位に就いたことを意味する。

4代将軍とともに上洛を果たす

義村は暦仁元年(1238年)、4代将軍・藤原頼経の上洛の先陣を勤めている。随兵36人を従えての先陣だった。
将軍を守る立場として、朝廷より優位な立ち位置で上洛を果たしたということ。義村にも武士らしい野心が在ったのだろう。

義村の死、都では怨霊の仕業と云われてしまう

京都での義村の評判はよくなかった

義村の死は、延応元年12月5日(1239年12月31日)のことであった。『吾妻鏡』によれば「頓死、大中風」とされる。(脳卒中などの病気による急死) 翌月、ともに北条泰時を支えた時房も義村の後を追うように亡くなると、京都の人々は2人の死を「後鳥羽上皇の怨霊の仕業である」と噂したという。 こんな風にいわれるのだから、京都に人々からすれば、三浦義村は朝敵のような存在だったのだろう。


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