伊賀氏の変

伊賀氏の変、鎌倉幕府の政変

目次

義時没後、その後継をめぐる争い勃発

後妻の暗躍が本当にあったのかは不明

北条義時の死後、義時の後継をめぐる政略争いが鎌倉幕府で発生する。 義時の姉・北条政子は、義時の子・泰時と弟・時房に次期将軍(三寅)の後見を任せたが、その決定に義時の後妻・伊賀の方が不服を示し暗躍。そして政子が伊賀の方を追放した。と、されるのが「伊賀氏の変」であるが、その真偽は不明である。 「伊賀氏の変」は本当に起きたのだろうか?

北条義時の急死

義時の子と弟が次期将軍の後見となるが…

承久の乱から3年後の貞応3年(1224)6月12日朝方、北条義時は病に倒れた。
深夜には重篤な状態となり、翌13日に出家。同日、62歳で亡くなった。
『吾妻鏡』によると衝心脚気(しょうしんかっけ)が死因とされているが、鎌倉幕府指導者の突然の死はさまざまな波紋を呼んだ。
ただちに京にいた北条泰時(義時の子)と時房(義時の弟)が鎌倉へ呼び戻され、政子から「軍営(三寅:藤原頼経のことで、幕府の四代将軍)の後見として、武家の事を執り行うように」と後継を託された。

伊賀の方〜義時・後妻の暗躍

後妻は【我が子】を後継にしようと画策

しかし、鎌倉では義時の後妻・伊賀の方と兄の伊賀光宗はこれを不服とし、伊賀の方の子で義時の四男である北条政村を執権に、伊賀の方の娘婿である一条実雅を将軍に据えようと画策したと、『吾妻鏡』は記している。

義時暗殺説、真相は不明

伊賀の方には動機もあったとみられる

また、『明月記』には、承久の乱の首謀者の一人で逃亡していた尊長という僧が、捕縛されて厳しい尋問を受けたときに「義時の妻(伊賀の方)が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んだことが記されている。
尊長は将軍候補とされた一条実雅の実兄である。
これが事実かどうかは定かでないが、人々はその言葉に大変驚き、「北条義時の死=妻による毒殺」という風聞も流れた。

姉・政子が後妻を成敗した、とされるが…

見事に【政子の敵】だけが追放されており

結局、不穏な動きを察知した政子によって、伊賀の方は伊豆北条に幽閉された。光宗は信濃へ、実雅は越前へそれぞれ流された。
しかし、彼らに担がれそうになった北条政村には処分がなく、のちに七代執権に就任している。

北条政村(1205〜73)とは

北条義時の四男で、泰時は異母兄にあたる。35歳で評定衆となり、52歳で連署に就任。文永元年(1264)、若年だった北条時宗の中継ぎとして七代執権に就任し、4年後に時宗へ執権職を譲って再び連署となった。

怪しすぎる姉・政子

子・泰時は後妻の謀反を否定している

この事件は「伊賀氏の変」とも呼ばれるが、『吾妻鏡』には、伊賀の方が謀反を企てたとは明言されていない。
また、泰時は伊賀の方の謀反の風聞を否定しており、配流された光宗は政子の死後、罪を許されて所領を回復している。
こうした点から、「伊賀氏の変」は伊賀氏を潰すために政子がでっち上げた事件だった可能性が指摘される。(ただし、泰時は北条の権威を守るために毒殺説を否定したかったとも考えらえる)

政子の死後、幕府は合議体制へ移行

泰時が執権に、時房が連署に

かくして子・泰時が三代執権に、弟・時房が連署(第二の執権)に就任した。翌嘉禄元年(1225)6月には大江広元、7月には姉・政子が相次いで世を去り、鎌倉幕府は泰時と時房を中心とする合議体制へと移行していく。
11人の評定衆に執権と連署を加えた13人が、再び幕府を動かしていったのである。


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