源頼朝・北条政子の子であり、鎌倉幕府の二代将軍となった源頼家。
13人の合議制の下、若くして鎌倉殿・将軍となり父の後を継ぐが、比企能員の変により味方がいなくなり、頼家の命運は尽きてしまった。
『吾妻鏡』では未熟者の暗君とされた源頼家についてまとめる。
13人の合議制はそもそも、二代将軍・源頼家が「暗君」だったため導入されたとされる。
『吾妻鏡』には、頼家が如何に政治的に未熟であったかしつこく強調されている。
よく知られる説話に御家人同士の土地争いの訴訟がある。
土地の境界について争っている御家人は、頼家に裁定してもらうことにした。
彼らの言い分を聞いていた頼家は、2人の前に絵図を持ち出して、墨で適当に線を引き、次のように言ったという。
「土地の広狭は、その身の運不運によるべし。使節の時間を費やして現地を実検することは無駄である。今後の境相論についてはこの様に裁断するであろう。もし少しでも理を尽くしていないと思う者は相論をしてはならない」(『吾妻鏡』正治2年5月28日)
自分たちの所領の安堵を最も重要視した御家人たちにとって、土地を巡る争いは最も重要で、当時の訴訟のほとんどが土地問題だった。
頼家の父・頼朝は双方の言い分をよく聞き、お互いが納得するような落としどころを見付けるのが上手かった。
実際の決め方は頼家と同じ鎌倉殿=将軍の独断であっても、御家人たちは頼朝が言うことならば、納得して従ったことだろう。
そのため、頼家の裁定はあまりにも乱暴で、未熟だったと『吾妻鏡』は記している。
13人の合議制の一人である安達盛長の嫡男・景盛との確執も『吾妻鏡』に記されている。
景盛には京から招いた妾女がいた。
頼家は景盛が留守の間に、その女性を強引に御所の近くにある家に住まわせ、自分もそこに住むようになった。
やがて、景盛が頼家に対して恨みを抱いていると讒言する者が現れ、頼家は景盛の誅殺を家臣に命じた。
これを聞いた北条政子はあまりに軽率だと一喝し、頼家をたしなめたという。
実際にはどうだったか定かではないが、安達氏はその後、頼家ではなく北条氏に近づき親密な関係を築いているところを見ると、何らかの確執が生じたと思われる。
『吾妻鏡』には頼家を「暗君」とする記述に溢れている。
全てが嘘だったとは言えぬまでも、そこには一定の意図があったと考えられる。
『吾妻鏡』が成立したのは鎌倉時代後期とされているが、このとき、幕府を主導したのは、もはや源氏将軍家ではなく執権家として権力を確かなものとしていた北条氏だった。
つまり、『吾妻鏡』とは基本的には北条氏支配を正当化するための歴史書と言っても過言ではない。
13人の合議制が、北条時政による将軍権力の弱体化のために作られたこと、またその後に次々と有力御家人たちを排し、源氏将軍家を排して実権を握った北条氏の歴史を正当化するためには、まずは頼家のことを暗君として描く必要があったのだろう。
まだ若く経験の少ない頼家の失敗ばかりを否定的に取り上げて、暗君と書き記す。
北条時政が頼家の失敗をカバーしてやる事は出来なかったのだろうか。
やがて、北条時政は本格的に頼家勢力の追い落としを始める。
梶原景時の暗殺もその一環であった。
次なる標的は、頼家の乳母たちの一族である比企能員だった。
重病に見舞われた頼家の後継者問題が浮上。
これを巡って北条氏と比企氏が争う最中、比企能員は時政の暗殺を企てた。
能員は源頼朝の乳母である比企尼の甥で後に養子となり、能員の妻や義妹2人も頼家の乳母を務めた。
また、娘の若狭局は頼家の妻となり、嫡男の一幡を生んでいる。
こうして頼家の外戚として、大きな力を有していた。
『吾妻鏡』では、北条氏と並んで頻出するのがこの比企氏である。
同氏は木曾義仲の勢力圏である信濃や北陸などを引き継いだ、鎌倉幕府のなかでも1、2の勢力を誇る有力御家人のひとつでもある。
勢力的には北条氏を上回る家格だった。
梶原景時の死によって、次第に源頼家と北条時政の対立が深まるなか、建仁3(1203)年7月、頼家は病に倒れてしまう。
高熱に苦しみ、あまりに重病だったため回復の見込みも薄く、やがて幕府内では頼家の後継者について議論されるようになった。
こうして、頼家の弟でこのときわずか10歳だった千幡(のちの三代将軍・源実朝)に関西38カ国、頼家の嫡男で齢6歳の一幡に関東28カ国と惣守護職を与えることに決まった。
つまり、将軍権力を東西の2つに分割して統治することとなったのである。
一幡は父・頼家と同様、比企氏の館で育てられていた。
また、関東の統治権を与えられたことから、比企氏を中心とする頼家派は、一幡を正統後継者に据えていたのである。
他方、千幡こと実朝の乳母は、時政の娘で、政子の妹にあたる阿波局だった。
頼家と対立する時政としては、実朝を将軍にしたいと当然考えたことだろう。
つまり、頼家の後継者問題は、北条氏vs頼家・比企氏の争いでもあった。
同年9月2日、比企能員は、頼家の妻で実の娘である若狭局を通じて、北条時政の追討を進言した。
病床にあった頼家は、能員を呼び寄せ、時政の追討に承諾する。
ところが、たまたま障子を隔ててこの謀議を耳にしていた北条政子が、この陰謀を父の時政にすぐに知らせに走ったと『吾妻鏡』には記されている。(物語としての要素が強く、信憑性は疑問)
能員と頼家の計画を知った時政は、反対に能員の追討を画策。
政所別当の大江広元に二度、会談をして相談したと『吾妻鏡』には記されている。
その後、時政は仏像供養の儀式を催すので北条の館に来るよう、能員を招待する使者を送った。
能員があまりに甘かったのは、この誘いになんの警戒もなく乗ってしまったことである。
能員は、鎧兜で武装もせずに、折烏帽子をかぶった平服の姿で現れたと、一部始終を目撃した小代氏という御家人が残した文書には記されている。
時政の館にいた天野遠景と仁田忠常によって、能員は斬り殺されてしまった。
能員を討った勢いで、時政はそのまま鎌倉の比企館に攻め込んだ。
比企一族は皆殺しにされ、館にいた頼家の嫡男・一幡も殺してしまった。
一幡は頼家の子であったが、その頼家は北条政子の子、つまり、一幡は時政の孫であった。
時政の行動は、比企氏側に反撃の時間も与えない、あまりにも早い動きだった。
この攻撃には、北条義時・泰時の父子、平賀朝雅、小山朝政、結城朝光、畠山重忠、三浦義村、和田義盛といった有力御家人たちが動員されている。
この能員と頼家による時政追討の謀議は本当にあったことなのだろうか。
今にも死ぬかもしれない重い病気に臥せっている枕元で、果たしてそのようなことを相談し合うだろうか。
さらには、たまたまそれを障子越しに政子が聞いていた、というのも話ができ過ぎている。
また、能員を葬った後、すかさず比企氏の館をこれだけの御家人たちで襲ったのはあまりにも手際が良過ぎるだろう。
時政追討の謀議自体、時政による捏造だった可能性も考えられなくはない。
この事件では、比企能員の無警戒ぶりも目立った。
頼家派の最も有力な人物、梶原景時が殺された時点で、本来ならば次は自分かと警戒するべきだった。
ところが、能員にはその様子が見られない。
敵対する北条氏の館を訪れるのに、全く武装せずに、平服のまま向かってしまった。
比企能員の変の後、頼家が病から回復する。
頼家は嫡男の一幡と比企氏が討伐されたことを聞くと、怒りを顕にし、和田義盛と仁田忠常に時政の追討を命じる。
ところが北条派だった和田義盛は、時政を討つのではなく、追討命令が下ったことを直ちに時政に知らせる。
そして時政は同年9月7日、北条政子を通じて、病気で適切な政務は執れないという理由で、頼家を出家させた上に、鎌倉を追放して修善寺に幽閉したのだった。
修善寺は、曾我兄弟の仇討ちに乗じたクーデターが失敗した際に、源範頼が幽閉され暗殺された地だ。
つまり、北条氏支配下の土地だった。
北側は北条氏の本拠地、南側は山岳地帯となっており、まさに天然の牢獄と言える。
彼の地に幽閉された頼家は、その翌年、謎の死を遂げている。
『愚管抄』や『増鏡』には北条氏の手の者による暗殺だったと記されている。
つまり、北条氏が記した吾妻鏡とは別の、信頼できる客観史料は「北条氏が頼家を殺した」と書いているのだ。