源朝と政子

源頼朝と北条政子

源頼朝は鎌倉に幕府を開いたが、それを支えたのは妻の北条政子であった。
源義朝の子であり源氏の旗印でもあった頼朝と、坂東の田舎武士・北条時政の娘の政子、夫婦の歴史をまとめる。

熱い恋愛結婚だった二人

頼朝と政子の出会いについて、こんな逸話が残っている。
頼朝が政子の妹に恋文を出したところ、なんと、頼朝の側近が政子宛に書き換えて政子に渡してしまった為、二人は結ばれたという。政子は頼朝との交際を父・時政に反対され、激しい雨が降る夜中に、頼朝の許へ走った。
この逸話が事実かは分らないが、頼朝と政子がただの政略結婚ではなく、私的な恋愛に基づいての結婚だった。

伊豆に流されていた頼朝

伊東祐親の監視下に置かれていた

1159年の平治の乱に敗れ、翌年1160年に14歳で伊豆(静岡)に流された頼朝は、最初は同国の豪族・伊東祐親の監視下に置かれた。
当初は監視が厳しかったが、やがて美女と誉れ高い祐親の三女・八重姫と恋に落ち、頼朝は千鶴という男子を儲けた。
このことが原因で、頼朝は祐親から恨みを買ってしまうが、走湯山に入り難を逃れたという。
しかし、生まれた子の千鶴は、祐親の命令によって川に沈められて殺害された。※諸説あり

頼朝と政子の出会い

父・時政の反対を押し切った政子

次に頼朝が出会ったのが、伊豆の豪族・北条時政の長女・政子だった。
2人が結ばれたのは、時政が内裏警護のために上洛した1176年(安元2年)頃であった。
これを知った時政は驚き、平氏に知られるのを恐れて政子を閉じ込めたが、一途に頼朝を想う政子は、密かに抜け出し、大雨のなかを暗い夜道に迷いながら頼朝の許へ走ったという。
(これらの感動的な物語は『吾妻鏡』に記されているが、実際のところ、史実か否かは分からない)

時政が頼朝を婿として迎え入れる

まもなく頼朝は北条氏の婿として迎えられる事となった。
これは時政が政子の熱意に負けたのか、時政が源氏との縁戚関係を望んだのか、真相は分からない。(当時の情勢において、平氏・平清盛と対立した源義朝の子である頼朝と縁戚になるのは相応のリスクがあった)
伊東祐親が平氏の家人(従者)だったのに対し、時政が国府行政を担う在庁官人(国府の役人)であった事が、頼朝への処遇の違いとしてあらわれたとも考えられている。

危険な結婚が、日本史の転換点に

この婚姻により一介の流人であった頼朝は、北条氏の後ろ盾を得た
北条氏にとっては頼朝を抱えるのはこの時点では危険な行為であったが、結果的には、後に鎌倉幕府執権の地位を確立独占し、長く続いた武家政権の基盤を確立した。
本人達は知る由もないが、頼朝と政子の結婚は、日本史にとって非常に重要な転換点となった。

源平争乱で頼朝が一挙に躍進

平氏討伐の令旨をうけ挙兵

1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受けた頼朝は、平氏が諸国の源氏を追討を計画していると聞き、挙兵を決意。
8月、北条時政・義時父子ら数十騎とともに、伊豆の代官・山木兼隆を討って緒戦を勝利した頼朝だったが、続く石橋山の戦いで大敗する。

鎌倉で武家政権の体制づくり

しかし、相模(神奈川)の有力豪族・三浦氏と合流して房総半島に渡り、千葉氏・上総氏を加えて勢力を拡大。
10月、源氏ゆかりの地である鎌倉に入った。
その直後、富士川の戦いに勝利し、平氏の遠征軍を敗走させた頼朝は、これ以降は鎌倉を拠点に武士政権の基盤づくりを進める。

鎌倉殿と御台所

女癖が悪かった頼朝

政子も頼朝の後を追って鎌倉に入り、そこで安住の地を得る事になる。
政子は鎌倉殿(頼朝)の妻として御台所と呼ばれる身となったが、以後、政子は何度も頼朝の浮気に悩まされる事となる。

亀の前事件

政子が頼朝の想い人を攻撃

御台所となった政子が起こした有名な事件として「亀の前事件」がある。
政子が嫡男・頼家を生んだ直後の1182年(寿永元年)、時政の後妻・牧の方の告げ口で、頼朝が亀の前という女性を寵愛している事が発覚。
これに激怒した政子は牧の方の父である牧宗親に命じて、亀の前を匿った御家人の家を破壊させてしまう。

これに頼朝も黙ってはおらず、宗親を罰するが、これに反発した時政が伊豆へ帰ってしまったという。
頼朝は妻の父である時政を罰する訳にはいかず、頼朝が折れる事となった。

政治家として優れていた頼朝

朝廷と距離をとる交渉手腕

女癖が悪かったとされる頼朝であるが、公家からは「成敗分明、理非断決」と評される高い評価を得ていた。
頼朝は政治家として非常に優れており、右大将や征夷大将軍に任じられてもすぐに官職を辞し、朝廷から距離を置いて鎌倉の独立性を保った。
朝廷から官職を貰うままでは、やがて平家のように朝廷に組み込まれしてしまうと危惧していたのだろう。

頼朝の死後、政子が後家とし尼御台に

尼御台として政子が重役を担う

1199年(建久10年)、頼朝は落馬が原因で死去してしまう。(享年51歳)
頼朝が亡くなり、嫡男の頼家が鎌倉殿になると、政子は出家し尼御台と呼ばれるようになる。
当時、武家社会において家長の死後、その妻は当主に次ぐ権威を備えており、政子も頼朝の後家、頼家の母として重きを成した。

我が子と父を追放した政子

表立った政治活動はなかったが、頼家が比企能員と結んで北条氏に敵対すると、政子は頼家を出家させ次男・実朝の三代将軍就任を後押しした。
父の時政と牧の方が娘婿・平賀朝雅を将軍に就けようと画策すると、弟の北条義時と協力して父・時政を隠居に追い込むなど、混乱の収拾に努めた。
尼御台となった政子は身内にも容赦がなかった。

政子が上洛

1218年(建保6年)に政子は、子供の出来ない実朝の為に自ら上洛し、後鳥羽上皇の皇子を次期将軍とする約束を取り付ける。
このとき政子は従三位に叙せられた。(頼朝は正二位)

「政子」の名は父・時政に由来

政子の名前だが、その上洛の際に公文書に記す為に父・時政の名前に肖って付けられたモノだったという。
正式な名前は「平政子」であり、北条政子と呼ばれるのは死後の事だ。

承久の乱で朝廷に勝利

息子が孫に殺害されてしまう

1219年(建保7年)、実朝が鶴岡八幡宮で頼家の子・公暁(こうぎょう)に討たれる
朝廷に融和的だった実朝の死によって後鳥羽上皇と幕府の関係は悪化する。

政子が頼朝への恩を説く

1221年(承久3年)、後鳥羽が執権・北条義時追討の宣旨を発し、在京御家人の多くが後鳥羽に従う事態となった。
鎌倉の御家人たちは動揺したが、これを鎮めたのが政子だった。
御家人たちを前に幕府を打ち立てた頼朝の恩を説き、三代の将軍の業績を守るよう訴えて御家人たちを一つにまとめ上げた。
こうして承久の乱に勝利に貢献した。

政子が事実上の鎌倉殿“尼将軍”に

幕政の実権を握る

実朝の死後、四代将軍候補・三寅(藤原頼経:九条頼経)の後見人となった政子は、事実上の鎌倉殿として、幕政の運営や訴訟の最終決定を行った。
政子が「尼将軍」と呼ばれる所以である。
『鎌倉年代記』や『鎌倉大日記』にも政子が四代目の鎌倉殿として挙げられており、政子が下した判決は頼朝時代と同等の先例とされた。

甥・泰時を執権に

1224年(貞応3年)、弟・義時が62歳で死去すると後室の伊賀の方が有力御家人の三浦義村を巻き込んで、実子・政村の執権就任を画策した。
これを察知した政子は、三浦邸に乗り込んで義村を説き伏せ、義時の嫡子・泰時の執権就任を了承させた。
更に、大江広元ら幕府の重鎮に謀って、陰謀に加担した伊賀氏の関係者を追放した。(伊賀氏の変)

伊賀氏の変・政子の陰謀説

北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家・伊賀氏に立場を奪われるのを恐れ、伊賀氏を潰す為に陰謀に嵌めたという説だ。
実は伊賀の方は無実だったかも、という事であるが、真相は不明、政子ならやりかねない怖さもある。

62歳で政子も死去

甥の泰時を執権職に就け、北条氏嫡流への権力の継承を見届けた政子は、1225年(嘉禄元年)に69歳でその生涯を閉じた。
頼朝、義時、政子の中では政子が一番長生きだった。


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