富士川の戦い

富士川の戦い

富士川の戦いとは、1180年10月、駿河(静岡県)を流れる富士川を挟んで行われた源氏と平治の合戦。
平氏軍は平維盛を総大将として京都から進軍して富士川の西岸に陣を置いたが、水鳥の飛び立つ音を源氏軍の襲来と勘違いして大混乱に陥り、敗走した。
源氏軍は、甲斐(山梨県)に土着していた源氏一門(甲斐源氏)の武田信義軍が東岸に出兵。
富士川に馬を乗り入れた途端、驚いた水鳥の大軍が一斉に飛び立ったという。
兵士の徴集が難航した平氏軍はわずか2000騎程しか兵が集まらず、数万の甲斐源氏の大軍を前に、戦闘前から戦意を喪失していた。

富士川の戦いで逃走する平氏軍

富士川の戦いで逃走する平氏軍
斎藤実盛から坂東武者の勇猛さを聞いて怖気づいた平家軍は、水鳥の羽音を夜襲と勘違いして逃走した。

頼朝挙兵

甲斐源氏・武田信義も挙兵

1180年8月、伊豆の蛭島に流されていた源頼朝以仁王令旨を受け取り、挙兵する。
上総之介広常や千葉常胤、三浦義明らが頼朝に呼応したが、石橋山の戦いで平氏方の大庭景親に敗北し、海路で房総半島に逃れる。
しかし頼朝は、房総半島を北上しながら兵士に反抗する武士を次々と味方に付けた。
頼朝軍は数万に拡大し、南関東を制圧しながら鎌倉へ向かった。
さらに、甲斐源氏の武田信義も挙兵し、駿河に進出する。

士気が低かった平氏軍

内部対立と兵の逃亡が相次ぐ

一方の平氏は、平維盛を総大将に源氏追討軍が編成するが、思うように兵士が集まらなかった。
都での悪評も重なり、平家に対する不満は各地で噴出していたのだ。
どうにか数を集めたものの兵の士気は低く、出発時期を巡って平維盛と平忠清との間で内部対立があり、7日間も足止めを食らう程であった。
その為、途中で離脱する者が相次ぎ、駿河に着くころには数万いた筈の軍勢がわずか数千にまで減っていた。

噂にまで怯えていた平氏軍

さらに平氏軍は、「坂東武者たちは、戦場で親が討たれようが、子が討たれようが、その屍を乗り越えて向かって来る」と聞いて震え上がる。
そのうえ、以仁王が実は生きていて、平氏を滅ぼそうとしているという噂があちこちから聞こえていた。

水鳥の羽音に驚き逃走した平氏軍

10月20日、平氏軍と甲斐源氏軍は富士川を挟んで対峙するが、平氏軍は戦う前から戦意を失い、夜襲を神経質なまでに警戒していた。
その日の夜、富士川の近くにある沼地にいた水鳥が一斉に飛び立つ。
この水鳥の羽音を源氏軍の夜襲と勘違いした平氏軍は大混乱に陥り、戦わずして逃亡してしまった。

義経合流と清盛の死

富士川の戦いの翌日、黄瀬川に陣を置いていた頼朝の下に、奥州から異母弟・義経が頼朝の下へ駆け付けた。
一方、富士川から逃げ帰った軍勢を見て平清盛は激怒するが、翌年閏2月に高熱を発し、「墓前に頼朝の首を供えよ」と遺言して没した。
清盛の死を受けて屋台骨を失った平家は以降、急速の凋落していく事となる。


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