源頼朝は1199年に謎の死を遂げている。
頼朝の死後、将軍家の外戚の北条氏は、次々と有力御家人を攻め滅ぼした。
以降、北条氏は執権として、幕府の実権を握った。
念願の征夷大将軍に就任してから7年後の1199年、源頼朝は急死する。
「吾妻鏡」によると、落馬がもとで、とされているが、一世の英雄の死はあっけないものだった。
頼朝の子の頼家が18歳で跡を継いだが、頼家は「生まれながらの将軍」という奢りがあり、独裁色が強かった。
北条氏と対立する事など、お構いなしに、妻の父である比企能員(ひきよしかず)を重用したり、父・頼朝のような情勢を読む政治センスを持ってはいなかった。
母の北条政子や祖父の北条時政はこれを憂い、時政を含む13人の有力御家人による合議制を開始する。
しかし、頼家は比企能員との結びつきを強め、勢力の拡大を図った。
1203年、頼家が急病で一時危篤に陥ると、政子や時政は将軍の権利を頼家の子「一幡(いちまん)」と弟の実朝(さねとも)に分割する提案をする。
この成り行きに不満を持った比企一族は滅ぼされ、頼家も将軍職を追われて出家した。
その後、時政の画策で12歳の実朝を第3代将軍に擁立し、時政自身は執権となった。
1204年、時政は伊豆修繕時で頼家を暗殺する。
歌人として知られ、野心を持たなかった実朝も、1219年、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の境内で頼家の子「公暁(くぎょう)」によって暗殺される。
直後、その公暁も討ち取られてしまった為、源氏の正統は断絶してしまった。
実朝が殺害されると、時政は京都の摂関家から幼い「九条頼経(くじょうよりつね)」を迎えて、表向きの将軍として就任させ、北条氏は実質的に幕府の頂点に立った。
執権は当初、政務一般を扱う政所別当(まんどころべっとう)を指したが、時政の子の義時(よしとき)が御家人を統制する侍所別当(さむらいどころべっとう)を兼務して以降、執権を頂点とする体制が続く事になる。
勿論、この北条氏のふるまいを朝廷は良くは思ってはおらず、後に承久の乱が勃発する。