六国史の編纂者たち

六国史の編纂者たち

日本国の正史である六国史の編纂には、各時代のとくに優秀な人材が抜擢されていた。撰者をみることで、当時の学問や政治情勢の在り方をうかがうことができる。
例えば、日本書紀の編纂には藤原氏渡来人が関わっており、ここから藤原氏に優位な歴史が描かれたであろうこと、渡来人の知識を朝廷が非常に重視していたことがわかる。
藤原氏は世代をこえて一族で六国史の編纂に携わっているが、その過程のなかで藤原氏に都合の悪い相手ばかりが失脚しており(伴善男、菅原道真など)、正史編纂の場が熾烈な政治争いの場であった事がうかがえる。

目次

6つの正史 歴史書一覧

名称 掲載年代 主な編纂者
@日本書紀 神代〜持統天皇の御代 舍人親王
A続日本紀 文武〜桓武天皇の御代 菅野真道、藤原継縄など
B日本後紀 桓武〜淳和天皇の御代 藤原冬嗣、藤原緒嗣など
C続日本後紀 仁明天皇の御代 藤原良房、春澄善縄など
D日本文徳天皇実録 文徳天皇の御代 藤原基経、菅原是善、島田良臣など
E日本三代実録 清和〜光孝天皇の御代 藤原時平、大蔵善行、菅原道真など

日本書紀の撰者:舎人親王が筆頭

まとめ役:藤原不比等、藤原氏に優位な史書に

『日本書紀』の撰者として代表的な位置にあるのは舎人親王だが、親王が撰修の実務に当たったとは考えにくい。
舎人親王の下で事業が進めらになれ、そのまとめ役を担ったのが藤原不比等だったと考えられる。

撰修実務:紀清人、三宅藤麻呂

撰修の実務に当たった人物として挙げられるのが、紀清人と三宅藤麻呂である。
『続日本紀』の和銅7年(714)2月条に二人が「国史」の撰に加わったという記事があるが、この「国史」は『日本書紀』を指しているとみられる。

渡来人が執筆に参加していた可能性、続守言と薩弘恪

また、『日本書紀』の著述には渡来人も参加していたと考えられている。
日本語学者で元京都産業大学教授の森博達氏は漢文の用法から、『日本書紀』をa群(巻14〜21、巻24〜27)とB群(巻1〜13、巻22〜23、巻28〜29)に区分し、a群を渡来人、B群を日本人の執筆としている。
a群を書いた渡来人として森氏が挙げるのが、続守言と薩弘恪という二人の唐人である。
『日本書紀』には、「音博士」として二人の存在が記されている。

音博士〜漢字の発音や素読を教える役職

音博士は日本の律令制の下に置かれた博士の一つで、明経道(大学で儒学を研究・教授した学科)の学生に経書(儒教で特に重視される文献の総称)の漢字の発音や素読を教えた。
中国語の正音(標準音)に通じている必要があったので、渡来人やその子孫が任じられることが多かった。

続日本紀の撰者:菅野真道、秋篠安人ら

前半と後半で編纂過程が異なる

『続日本紀』は前半部(巻1〜20)と後半部(巻21〜40)で編纂の過程が異なり、前半の編纂には文人の淡海三船もかかわっている。
神武天皇から聖武天皇までの漢風諡号を撰定した人物で、日本最古の漢詩集『懐風藻』の撰者という説もある。

菅野真道は渡来人の末裔

前半の編纂が不十分だったことから、桓武天皇は菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄に改めて編纂を命じた。
中心人物である菅野真道は百済から来た渡来人の末裔で、もともとは津連姓を称していたが、文筆の功績によって菅野朝臣姓を賜与された。
桓武天皇の信任が厚く、藤原継縄や秋篠安人とともに『続日本紀』の後半部の編纂も任された。
真道は平安京への遷都事業にも貢献し、延暦24年(805)には参議として公卿に列している。

日本後紀の撰者:藤原緒嗣、清原夏野ら

嵯峨天皇が命じ編纂がはじまる

『日本後紀』は嵯峨天皇が藤原冬嗣、藤原緒嗣、藤原貞嗣、良岑安世に命じる形で編纂が始まり、緒嗣以外の3人が亡くなったため、途中で清原夏野、直世王、小野岑守、坂上今継、藤原吉野、島田清田が新たに撰者として加わった。

藤原緒嗣、ハト派で柔軟性があった筆頭撰者

一貫して編纂に従事した藤原緒嗣は、『日本後紀』の内容にも大きな影響を与えている。
延暦24年(805)には桓武天皇から政治の問題点について聞かれ、「軍事(蝦夷征討)と造作(平安京の造営)が天下の民を疲弊させている」と述べた。
『続日本紀』の撰者である菅野真道はこれに異を唱えたが、最終的には緒嗣の意見が採用され、蝦夷征討と平安京造営が停止された(徳政相論)。

清原夏野、舎人親王の末裔も参加

清原夏野は『日本書紀』の編纂事業を統括した舎人親王の末裔で、養老令の官撰注釈書『令義解』の編纂、日本最古の勅撰儀式『内裏式』の改訂などに携わっている。
小野岑守は女流歌人・小野小町の曽祖父で、勅撰和歌集『凌雲集』の編纂に携わったほか、公営田(国家直営の田地)の導入を建議している。

六国史編纂に深く携わった藤原氏

続日本後紀の撰者:藤原良房、伴善男、春澄善縄ら

藤原良房、文徳天皇の伯父で編纂に強い影響力

第四の国史『続日本後紀』の編纂を任されたのは、藤原良房、伴善男、春澄善縄、安野豊道の4人。
良房は文徳天皇の伯父に当たり、編纂にも大きな影響を及ぼした。
『続日本後紀』の各所に良房の名が見られるのは、彼の自己顕示欲の表れともいえる。

撰者の一人が途中で失脚、藤原良房の陰謀か

清和朝では良房が政治の第一線から退き、弟の良相が編纂事業に加わった。しかし、完成目前に55歳で亡くなった。
良相を補佐した伴善男も撰者の一人だったが、貞観8年(866)に起きた応天門の変で失脚。
結局、『続日本後紀』完成に立ち会えたのは、藤原良房と春澄善縄の二人だけであった。

春澄善縄、強い神仙思想の持ち主

春澄善縄は郡司の家から出世した学者で、貞観2年(860)には文章博士経験者で初めて参議に任じられた。
『日本三代実録』によると、善縄は無骨で話し下手だが、慎み深かったという。
一方で、『続日本後紀』に天変地異や怪異の記述が目立つのは、強い神仙思想の持ち主である善縄の影響だったともいわれる。

日本文徳天皇実録の撰者:藤原基経、菅原是善など

藤原氏に対抗して菅原氏も活躍

第五の『日本文徳天皇実録』の撰者を務めたのは、藤原基経や南淵年名、大江音人、都良香などで、途中で菅原是善が加わっている。
編纂事業をけん引したのは、藤原良房の養子で摂政・関白を務めた基経である。
菅原是善は当代随一の文人で、俗世間の事柄には興味が薄い人物だった。
序文を執筆したのは是善の子・道真だったとされ、道真が自身の漢詩文をまとめた『菅家文草』には、「日本文徳天皇実録序」が収載されている。
道真は30代半ばで、すでに序文を書くほどの才が備わっていた。

日本三代実録の撰者:源能有、藤原時平、菅原道真

源能有、源氏が筆頭撰者に抜擢

第六の国史である『日本三代実録』の撰者は、源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平など。
史書編纂の筆頭は大臣または藤原氏が務めるのが通例だったが、宇多天皇は公家源氏の源能有を筆頭撰者とした。
能有は文徳天皇の皇子で、源姓を与えられて臣籍降下した。
宇多天皇の信任も厚く、寛平3年(891)には大納言に昇進した。
左大臣の源融と右大臣の藤原良世はともに24歳の老齢だったため、大臣を差し置いて筆頭撰者を任された。
その後、能有は右大臣に昇ったが、寛平9年(897)に33歳で没した。

菅原道真が失脚、ここでも藤原氏が暗躍か

『日本三代実録』は延喜元年(901)8月に完成し、藤原時平と大蔵善行が完成を報告した。
編纂の実質的中心を担ったのは善行と菅原道真だったが、道真はこの年の正月に失脚し、九州に追いやられている。

大蔵善行、『延喜格』『延喜式』にも携わる

最後まで残った大蔵善行は道真と並ぶ当時の学界の双璧で、「天神」の道真に対して「地仙」と称された。
私塾を経営して多くの官人に教授したほか、『延喜格』『延喜式』などの編修にも携わっている。


↑ページTOPへ