応天門の変は、平安時代前期の貞観8年(866年)3月10日に起こった政治事件。
当時の都、平安京で、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院の正門である応天門が放火された。
平安遷都から70年余り、天皇権威の象徴ともいうべき宮殿の正門があっけなく焼け落ちてしまった。
大納言 伴善男(とものよしお)は左大臣 源信(みなもとのまこと)の犯行であると告発したが、太政大臣 藤原良房の進言により無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり、善男は伊豆国へ、息子の中庸は隠岐国へ流罪とされた。
これにより、神武の時代から続いた名族伴氏(大伴氏)は没落した。
事件の多くは謎に包まれているが、藤原氏による他氏排斥事件の一つとされている。
この応天門の変を描いた有名な絵巻がある。
国宝「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえことば)」は、登場人物の表情に特徴があり、日本三大絵巻の一つに数えられる傑作だ。
一般には、ここに絵が描かれた物語が応天門の変として流布している。
しかし、この絵巻は、事件から300年後の平安末期になって描かれた物であり、実は様々な脚色が加えられているという。
応天門炎上事件が起きたのは、貞観(じょうがん)8年閏3月10日夜である。
事件からほどなく、一人の男が放火犯として告発される。
左大臣源信だ。
訴え出たのは、後に真犯人とされる大納言伴善男であった。
源信は身に覚えのない事だとして、無実を主張する。
真相が闇に包まれたまま、五か月が過ぎた8月3日、一人の密告者が現れて事態は一転する。
密告者は、「伴善男が応天門に放火するのを見た」と証言したのだ。
これでは、伴善男の訴えとは、全くの逆である。
密告者は、大宅鷹取(おおやけのたかとり)という身分の低い役人であった。
左大臣と大納言。
政治の中枢にいる二人の人物が相次いで告発されるという異常事態に、朝廷は大混乱に陥った。
一体、真犯人はどちらなのか。
対応に苦慮する17歳の清和天皇に代わって、事件の解決に乗り出した男がいた。
清和天皇の外祖父にあたる朝廷第一の実力者、太政大臣 藤原良房(ふじわらのよしふさ)である。
清和天皇は渡りに船とばかり、藤原良房に「天下の政を摂行せよ」との勅を下した。
良房は清和天皇の幼少時、実質的な摂政の立場に立っていたが、これで正式に摂政の地位に就いたのである。
摂政とは天皇の代理を意味する。
それまで、皇族以外では、その地位に就いた者はいなかった。
藤原良房は、これによって政治の全権を掌握した事になる。
事件の解明は、良房の判断一つにゆだねられたのだ。
ここから、事件は奇妙にねじ曲がっていく。
まず密告を行けた当局は、伴善男を拘禁して取り調べを始めた。
伴善男は当然ながら、犯行を否認する。
ところが、彼が取り調べを受けている間に、新しい事件が持ち上がり、事件の流れを変えていくのである。
新しい事件というのは、殺人事件であった。
先の密告者である大宅鷹取の娘が何者かによって殺害されてしまったのである。
一見すると、この殺人事件は応天門炎上事件と直接の関係はない。
ところが、当局は29日、伴善男の家来である生江恒山(いくえのつねやま)を容疑者として逮捕、放火事件との関連を調べ始めた。
そして、拷問をともなった苛烈な取り調べは、善男の息子の中庸(なかつね)家来の伴清縄(きよただ)など、伴家全体に及んでいったのである。
この間、善男自身はかたくなに犯行を否認していた。
ところが、家来の恒山と清縄は、拷問を受けた末に殺人事件についての犯行を認め、さらに「応天門放火事件は、主人である伴善男と、その息子の中庸の共謀によるものである」と白状してしまったのだ。
藤原良房は、この自白をもとに伴善男を放火犯と断定、ただちに逮捕した。
善男は死罪は免れたものの、土地財産を全て没収され、伊豆へ流刑となってしまった。
こうして、応天門炎上事件は、半年ぶりに幕を閉じたのである。
この事件の真相については、確かな事は何も分かっていない。
そもそも、事件の様子を伝える絵巻が、事件から300年も経ってから作られた物であり、文字通り、真相は闇に消えてしまったのだ。
ただし、この事件を通じて、一人勝ちをし、得をした人物がいる。
摂政となり、朝廷の全権を握った藤原良房である。
事件の後、良房は清和天皇からの権限委譲が行われている。
この事件を通じ、後の藤原北家による摂関政治の道が開かれたとも言え、藤原北家による政権独占体制へ繋がっていくのだ。
この事から応天門放火事件は、敵対勢力一掃に成功した藤原良房ら藤原北家の陰謀によるものだった可能性は十分にある。