氷川神社

氷川神社の創建と歴史

目次

街道を見守る武蔵国の勅祭社

創建は5代孝昭天皇3年(社伝より)

氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)は関東最古の古社。社名は出雲にある斐伊川に由来し(諸説あり)、その分社は埼玉県と東京都を中心に280社ほどある。
明治天皇が東京奠都後に最初に参拝した神社で、宮中で元旦に行われる四方拝において天皇が拝する1社。 主祭神は須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命。
創建は5代孝昭天皇3年とされ、神代の時代に創建起源を持つ。

5代孝昭天皇3年とは、明治時代に定められた神武天皇の即位年を基準とすると、氷川神社の創建は紀元前473年ということになる。(実態としては、この時代は縄文時代末期にあたり、社伝を史実とみることはできない)

神代の時代に創建起源を持つ

ヤマトタケルが東征の際に祈願したという

関東を中心に勧請された氷川神社の総本社である氷川神社は、社伝によると5代孝昭天皇の時代の創建と伝えられる。
さらに12代景行天皇の時代に日本武尊が東征の際に祈願を行ったとされる。(ただし、記紀における日本武尊の物語に氷川神社が登場することはない)
次代の13代成務天皇の時代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命によって武蔵国造となって氷川神社の祭祀を行った。

「氷川」の由来の2つの説

簸川・説、冬に凍結する泉・説

社名の「氷川」は、一般的に素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「簸川(斐伊川)」に由来するとされる。
一方で、「ヒ」は「氷」、「カハ」は「泉または池」をあらわす古語として、「ヒカハ」は「冬に凍結する泉」を意味する説もある。
このことから氷川神社の信仰は、見沼の水の神がベースにあったとする説もある。

氷川神社の地域では早くから水田耕作が

氷川神社がある高鼻町の地からは弥生式土器が発見され、早くから水田耕作が行われていたと考えられる。
この地で農耕を営んだ人々が信仰したのが、見沼の水の神ということになる。

氷川神社は関東広遠に勧請された

氷川神社は武蔵国を中心に、東は元荒川流域、西は多摩川流域の範囲で多く勧請※された。※勧請とは神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること
なお元荒川の西側には、千葉県香取市の香取神宮を総本社とする香取神社が多く勧請されている。

出雲と関東の深い繋がり

出雲族がおおく関東に移り住んでいた

出雲と関東では距離的にだいぶ離れているように思われるが、関東には出雲族が移り住んだ伝承が多い。
例えば、江戸総鎮守として江戸時代に信仰を集めた神田神社(神田明神)は、天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣によって武蔵国豊島郡芝崎村(東京都千代田区大手町)に創建された。祭神は、大己貴神、少彦名命平将門である。

「埼玉」の県名も【出雲由来】か

また「埼玉」の県名の由来となった前玉神社(埼玉県行田市)の祭神・前玉彦命と前玉比売命も『古事記』に出雲系の神としてその名が記されている。
前玉神社はさきたま古墳群の中の浅間塚古墳の上に鎮座している。

武蔵国造は出雲国造は同族と云われる

武蔵国造は、出雲大社で代々宮司を務める出雲国造と同族と伝承され、そのため、古代においてこの地域の開拓に出雲族が関わったとの説がある。

『延喜式』には【名神大社】の名前で記述

氷川神社の社格は、45代聖武天皇の時代には武蔵国一宮と定められ、60代醍醐天皇の時代に制定された『延喜式』の神名帳には名神大社となっている。

武家の崇敬と江戸時代の発展

源頼朝や徳川家も、社領を寄進し社殿を造営した

氷川神社は日本有数の古社として多くの説に彩られるが、出雲神話の神々を祀り、関東を代表する大社であり、源頼朝や徳川家の社領寄進・社殿造営をはじめとして、武家の崇敬も受けてきた。

氷川参道〜江戸時代に周辺が宿場町として発展

江戸時代には、中山道の宿場町として氷川神社周辺は発展することになる。中山道から分岐して氷川神社の参道が整えられた。
氷川神社の参道は一の鳥居から約2キロメートルにわたって続き、「氷川参道」となっている。氷川参道沿いには一丁(約109メートル)ごとに丁石が置かれており、全部で18個ある。
大宮宿は、日本橋から数えて4番目の宿場町であり、江戸近郊の観光スポットとして、多くの人々が氷川神社に参拝した。

明治天皇が行幸、官費によって運営

氷川神社が勅祭社に

明治元年(1868)10月13日に明治天皇が江戸城に入城し、江戸城は皇居となった。この入城からわずか4日後の10月17日には、氷川神社は勅祭社(祭事に天皇の使いが遣わされる神社)に定められた。さらに10月28日には明治天皇自ら氷川神社に行幸し、御親祭を執り行った。

社格の最高位である官幣大社に

明治4年(1871)には、社格の最高位である官幣大社に列せられた。明治天皇の氷川神社への行幸は3回に及ぶ。

官費で神社が運営されるように

明治時代以降、氷川神社は昭和20年(1945)まで、神社の運営費用は官費によってまかなわれるようになった。
大正6年(1917)には、明治天皇の行幸50周年を記念して五十年祭が斎行され、当時の皇太子(のちの昭和天皇)が参拝した。

昭和の大造営(1932)、社殿造営と神域拡張

昭和7年(1932)には、昭和の大造営が着手され、社殿の造営や神域の拡張が行われた。
この昭和の大造営は、初代神武天皇即位から2600年(皇紀2600年)の年である昭和15年(1940)に竣工された。
昭和42年(1967)には百年祭、平成29年(2017)には百五十年祭が行われた。

3社ある氷川神社〜直線上に並ぶ

3社で、素戔嗚尊・奇稲田姫・大己貴神、を祀る

氷川神社はかつて、素戔嗚尊を男体宮、奇稲田姫を女体宮、大己貴神を簸王子宮にそれぞれ祀っていた。
この3社に三神をそれぞれ祀る様式は、かつてあった見沼にも当てはまる。
氷川神社と同様に、見沼の岸には、奇稲田姫を祀る氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)と大己貴神を祀る中山神社(さいたま市見沼区中川)が鎮座している。

氷川女體神社〜10代崇神に創建起源

氷川女體神社は10代崇神天皇の時代に、見沼に突き出る形の小高い丘の上に創建されたと伝えられる。
江戸時代に見沼が干拓される以前には、磐船祭が隔年で行われた。
祭神の御霊代を遷した神輿を御座船に乗せて、見沼の中にあった御旅所に巡幸する。
そして、4本の竹を沼に刺して、俗界と隔てる神域を生み出し、そこに瓶子に入れた神酒を見沼の水の神に献じるという。
氷川女體神社の東南約2キロメートルの地にある四本竹遺跡からは、突き立てられた790本もの竹とともに古銭などが出土し、この地が磐船祭の御旅所だったことがわかっている。
氷川神社の橋上祭においても神池の水で清められた笹竹が立てられ、両者には共通点が見られる。
隔年に行われる祭祀で4本の竹が用いられたとすれば、200回近くなり、その起源は中世にまでさかのぼることになる。

中山神社〜中氷川神社とも

氷川神社と氷川女體神社の中間にあるのが中山神社で、中氷川神社とも称された。
氷川女體神社と同様に崇神天皇の時代の創建と伝えられる。
3社はほぼ直線上に並んでおり、この直線の延長線上が冬至の日の出と夏至の日の入りとなっており、太陽信仰との関連性を指摘する説もある。
氷川神社、氷川女體神社、中山神社の3社を合わせて武蔵国一宮と称されていたという伝承もあり、氷川女體神社の拝殿には、「武蔵国一宮」の額が掲げられている。

氷川神社は関東全体ではローカル古社

神社はその分霊が祀られることが多くあり、例えば神社本庁傘下の八幡神社は、全国に約8000社ある。
これに対して氷川神社は、埼玉県に162社、東京都59社、茨城県・栃木県・北海道に各2社、神奈川県・千葉県・鹿児島県に各1社である。
この氷川神社の総本社が、埼玉県さいたま市にある氷川神社である。
埼玉県・東京都ではメジャーな神社である一方で、関東全体ではローカルな神社なのである。

荒川流域に氷川神社がある理由

見沼(御沼)の畔に鎮座する神社

広大だった神域

現在の氷川神社は、JR大宮駅から徒歩15分ほどのところにあるが、かつての神域は広大で、一の鳥居はJRさいたま新都心駅前にある。氷川神社はその地域で最も社格が高い一宮とされる。
武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県東部)の一宮は、氷川神社のほかに氷川女體神社(埼玉県さいたま市)と小野神社(東京都多摩市)が並び称される。
このうち氷川女體神社の祭神は、素戔嗚尊の妻の奇稲田姫(クシナダヒメ)である。

神が住まう聖域とされた見沼(御沼)

氷川神社がある大宮区の隣には見沼区があるが、かつてさいたま市から川口市にかけては、見沼と呼ばれる沼があった。
見沼は享保年間(1716〜1736)に江戸幕府の干拓によって埋め立てられる前は、箱根にある芦ノ湖の2倍もの大きさがあったという。
見沼は「御沼」「神沼」とも書かれ、神が住まう聖域とされた。

氷川・女體神社は見沼信仰が基盤だった

氷川神社と氷川女體神社はこの見沼のほとりに鎮座していたことになり、見沼への信仰が基盤にあることがわかる。
氷川神社がある高鼻町はその名の通り、小高い大地にある。

八岐大蛇と【斐伊川の治水】

スサノオとクシナダヒメといえば八岐大蛇

氷川神社の素戔嗚尊と氷川女體神社の奇稲田姫は、記紀神話で八岐大蛇退治に登場する。

斐伊川の治水が八岐大蛇退治の起源か?

氷川神社の社名の由来となった斐伊川は、素戔嗚尊が降臨した船通山を源流としており、たびたび氾濫を起こした。
一方、八岐大蛇はこの地を荒らす怪物として描かれている。
こうしたことから、素戔嗚尊の八岐大蛇は斐伊川の治水をあらわした神話とする説がある。

スサノオに治水の力を期待したか

荒川と利根川も江戸時代初期まで氾濫を起こした

日本では古くから龍は水を司る神とされてきた。そのため、河川や山中の谷、湖などには龍神伝説が多く残っている。
こうした龍神伝説が、見沼にもあったことは容易に想像できる。
江戸時代初期までは、荒川と利根川は越谷市付近で合流しており、たびたび大きな氾濫を起こした。

荒川の洪水を治める為にスサノオ夫婦を祀ったか

見沼はこの荒川と利根川に挟まれた沼地となっている。
荒川はその名の通り、荒ぶる川であり、絶えず洪水を起こした河川でもある。
この洪水を鎮めるために、治水の神でもある素戔嗚尊と奇稲田姫を祀ったと考えられる。

江戸幕府の治水事業

江戸幕府は荒川の流れを西に、利根川の流れを東に移して、2つの川が合流しないように大規模な工事を行った。(江戸の発展は運河から)
こうしてかつての荒川の流れは元荒川に、かつての利根川の流れは古利根川となっている。
見沼の水が抜かれて干拓が行われたことになる。

古代出雲族も治水事業に秀でていたか

社伝によると、氷川神社の祭祀を行ったのは武蔵国造家だが、その初代は、13代成務天皇の時代に任命された出雲族の兄多毛比命とされる。
素戔嗚尊の八岐大蛇退治にまつわる話と同じように、出雲族は治水のスペシャリストであった可能性がある。

氷川神社の祭り〜平安からの伝統

年間600以上の祭事

氷川神社では、年間600以上の祭事が行われている。

毎月15日に献詠祭、和歌が奏上される

毎月15日に行われているのが、献詠祭だ。祭神の素戔嗚尊は「八雲立つ」ではじまる日本最初の和歌をつくった祭神であり、この故事に則り、和歌が奏上される。

2月7日に的神事、矢を的に射て邪を祓う

2月7日に行われる的神事は、春を迎えるにあたって矢を的に射ることで邪を祓う神事で、神前には若菜御飯が供えられる。
古くは流鏑馬の神事であり、かつては1月7日に行われていた。

4月5日〜7日に鎮花祭、舞殿で「花しずめの舞」が奉納

4月5日から7日までの3日間行われる鎮花祭は、舞殿で「花しずめの舞」が奉納される。
「千早」と呼ばれる装束と桜のかんざしを身につけ、桜の枝を持った4人の「乙女」と、年少の「つぼみ」2人による舞である。
「花しずめの舞」には、散りゆく花を惜しみながら、生命が長らく続くようにという願いが込められている。
7日には桜の花を乗せた菱餅が神前に供えられる。

8月1日に例祭、勅使が御幣物を納める

氷川神社で最も重要な祭事が例祭である。8月1日、天皇の使者である勅使が御幣物を納めた唐櫃を携えて拝殿に参向する。宮司によって御幣物が神前に供えられると、勅使が祭文を奏上する。
その後、舞殿では平安時代から伝わる神事舞「東游」が奉納される。東游は、古くは貞観3年(861)の東大寺の大仏供養に記録があり、寛平元年(889)には賀茂神社の臨時祭に奉納された。

8月2日に神幸祭、氷川神社の起源に触れる祭事

8月2日には、神幸祭が行われる。橋上祭とも呼ばれ、祭神の御霊代が遷された神輿に、神職をはじめ100人を超える人々が列をなして拝殿から神橋へと進む。
神池の水で清められた笹竹が橋の上に立てられた御旅所に神輿が安置されると、神饌が供えられ、神事が行われる。
これは橋の上に神が出現したことをあらわし、かつては氏子地域の収穫物が奉納された。
橋の上の神事後、神輿は神池の東を廻り、本殿へ還る。
見沼の水の神への感謝を捧げる、氷川神社の信仰の起源が感じられる祭事である。

12月10日に大湯祭、無病息災や防火の神徳

12月10日に行われる大湯祭は十日市とも呼ばれ、無病息災や防火のご神徳があるとされる。
11月30日からはじまる前斎では、神職は神社に篭って身を清め、大湯祭本祭に備える。
11日の後斎までの12日間、境内には熊手を売る1000店もの露店が立ち並ぶ。
本祭では祭神それぞれに21台もの神饌が供えられる。本殿や摂社・末社を含めると膳の数は100にも上る。
本祭が行われる10日には、大己貴神と少彦名命の御影(福神札)や福熊手、福財布、福種銭が特別に授与される。


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