平将門

平将門

平将門

東国、坂東の地にて一族同士の抗争が起こる

平将門(西暦940年没)は平安京で華やかな貴族文化が広がり、朝廷では熾烈な政権争いが繰り広げられている頃平安時代中期、東国の坂東(読み:ばんどう、現在の関東の事)にて大きな武功を上げていた。藤原忠平に仕えていた後、父との死別を契機に28歳のときに将門は坂東は戻ったと云われる。
しかし平国香により父の領土が奪われていた。そのため、将門は国香との武力衝突を余儀なくされてしまうが、これに勝利をおさめる。
その後、これに異を唱えた常陸の豪族である源衛が朝廷に訴えたため、将門は京にて拘禁される事となってしまう。朱雀天皇元服の大恩赦により辛うじて帰郷するにいたっだが、一族の争いはますます激しくなっていくことになる。

朝廷に反旗、新皇を名乗る

武蔵国国司の興世王(おきよのおう)と足立郡司の武蔵武芝(むさしのたけしば)との間で起こった荒らそいの調停に将門は動くが、これに失敗。そして興世王の次官である源経基によって再び朝廷に訴えられてしまう。直後、常陸国司の藤原維幾と藤原玄明の紛争が起こるが、玄明が将門を頼り、将門をこれに応じて、常陸国府を襲撃してしまう。
源経基の訴えが落ち着く前の出来事であったため、将門の立場はさらに悪化してしまい、朝敵(国家の敵)となってしまう。
将門は武力による活路を見出したのか、朝廷への謝罪などはせず、さらに坂東八か国を襲撃し各国の国司を追放した。
そして将門の前に「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、将門に天皇の位を授け奉る、と云われたため、将門は自らを新皇を称する事なった。

平貞盛と藤原秀郷に敗北

朝廷により差し向けられた討伐軍を平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)が率いて将門を討った。将門の死は、将門が新皇を名乗ってからわずか二ヶ月後の事であった。
将門を討った平貞森は平国香の子であり、後の平清盛の祖先である。この後、貞盛率いる平氏は都にて、その権勢をふるっていく事となる。



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