近藤勇(1834年11月5日〜1868年5月17日)、江戸郊外、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の豪農の三男に生まれ、新選組局長・幕臣となった。
剣術の才と熱意を見込まれて近藤家の養子となり、20歳の時に道場「試衛場(試衛館)」を継いだ。そこには、土方、沖田、斎藤、永倉ら、後の新選組を担う人材が集まることになる。文久元年(1861年)8月27日、天然理心流四代目宗家を襲名した。
浪士組から新撰組に改称し、京都の治安維持に当たった。池田屋事件で名を上げるも長州藩など反幕派から恨みを買う。鳥羽伏見の戦いで敗北し江戸へ敗走、さらに甲州勝沼の戦いで敗北、下総流山で捕縛され、斬首(処刑)された。
別名に宮川勝太、宮川昌宜、大久保大和などがある。
天保5年(1834) | 10月9日、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)に生まれる |
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嘉永元年(1848) | 天然理心流・試衛場近藤周助に入門。翌年、近藤家の養子となる |
万延元年(1860) | 御三卿・清水徳川家の家臣・松井八十五郎長女ツネと結婚 |
文久元年(1861) | 天然理心流四代目宗家となる |
文久3年(1863) | 2月8日、浪士組に加盟し、江戸を出立する。 2月23日、入京 3月12日、近藤、芹沢鴨ら、会津藩預かりとなり「壬生浪士組」を名乗る 8月18日、八月十八日の政変に出動。その後「新選組」を拝命 9月16日、芹沢、平山五郎を暗殺 |
元治元年(1864) | 6月5日、池田屋事件 |
慶応3年(1867) | 6月23日、新選組、幕臣へ取り立て。近藤は御目見得以上の旗本に 11月18日、伊東甲子太郎暗殺(油小路事件) 12月18日、近藤、御陵衛士の残党に狙撃されて負傷 |
慶応4年/明治元年(1868) | 1月、鳥羽・伏見の戦い。傷が癒えず出陣できず、敗退後江戸へ戻る 2月28日、旧幕府から「甲陽鎮撫」を下命。近藤、大久保剛に改名 3月6日、甲州勝沼の戦いで敗走 3月11日、近藤と永倉、原田ら決別。その後、近藤は大久保大和に改名 3月13日〜4月1日、五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬)で兵を再結集し、再起を図る 4月3日、近藤、新政府軍に投降 4月25日、近藤、板橋で斬首 |
近藤勇の生まれた武蔵国多摩郡は、甲州口を警備する八王子千人同心の拠点で、幕府への忠誠心が強く半農半武の気風があった。
近藤が天然理心流道場試衛場に入門したのもその風土からで、腕と人柄が買われ後継者となった。
一般に試衛館とされているが、江戸時代の記録に「試衛館」と記述された史料はない。しかし「試衛場」の記述は見られるため、正確には「試衛場」だったようだ。
近藤は、14代将軍家茂の警護を目的とする浪士組に加わり上洛した。
しかし浪士組建白者・清河八郎が尊王攘夷派と内通し、解散。
このとき残留した一派が京都守護職の会津藩主松平容保の管理下に入り、近藤を局長として新撰組が組織された。
新撰組の職務は、京都市中の治安維持のため、幕政に反対する不穏分子の取締だった。
新撰組は池田屋事件で長州藩をはじめとする尊王攘夷派を掃討し功をあげたが、隊士の多くが浪士や農民出身であることから幕臣や諸藩の偏見は根強く、また町人居住域を担当区域としていたため町人の恨みも買いやすく、調整役の近藤は対応に苦慮していた。
彼にとって最大の剣技の見せ場が「池田屋事件」である。近藤は、みずから「御用改めであるぞ」と邸内に躍り込み、2階にいた長州志士二十余人と対峙。必死の志士に沖田、永倉、藤堂らが苦戦するなか、近藤一人が最後まで数人の敵を足止めし、斬り結び続けた。この4人で近藤だけは無傷だった点からも、彼の臨機応変で実戦的な剣技と闘争心の確かさがうかがえる。
戊辰戦争勃発後、新政府軍の関東進攻を防ぐために、近藤は残っていた隊士と甲府城に向かったが、新政府軍がすでに城を占拠しており、敗北して隊はちりぢりになった。
近藤は関東へ転戦したが、下総流山で投降し、捕縛された。
近藤の助命を求めて土方歳三らが勝海舟ら幕臣に働きかけたが、江戸城明け渡しの微妙な時期と重なり、取り上げられることはなかった。
近藤は斬罪となり、その首は京都で梟首された。
天然理心流は遠江出身で両国薬研堀に道場を構えた近藤内蔵助が、18世紀末に創設した総合武術流派である。このうち剣術のみが後に広く発展していった。
流派は、八王子出身で2代宗家となった近藤三助の代に裾野を広げる。
天然理心流の主な土壌となったのは、多くが天領となる武蔵国多摩郡である。
地域に根差す者にとっては、将軍家への恩顧の念は磐石だった。
不穏な時勢であり、彼らには自衛手段として剣術への渇望が高まり、自宅に撃剣道場を構える豪農層も増えていった。
また流派は、幕府に直属し、平時は農事に勤しみ、有事には幕命に応じる八王子千人同心とも、深い関わりを持った。
三代宗家を継承したのが、多摩郡小山村出身の嶋崎周助だった。実子のない近藤三助の養子となり、姓と宗家を継いだ。
江戸市谷甲良屋敷(現新宿区甲良町)に撃剣道場を構えた周助は、折々に多摩一円の門人らのもとで出稽古を行っていたが、その立ち寄り先の一つとなったのが、多摩郡上石原村の豪農宮川久次郎方だった。近藤勇の生家である。
宮川家の末子に生まれ、幼名を勝五郎といった近藤勇は、生来の乱暴少年で、「近在の者はみな、宮川の勝五郎とはいわないで、アノ暴れ者かというくらい字が通っております」(『幕府名士近藤勇』)と、明治30年(1897)の記録に伝えられる。
危ぶんだ久次郎は近藤に『三国志』を修身書として与え、情操教育を行ったという。
近藤が14歳になった弘化4年(1847)1月17日夜半、宮川家に数名の賊が侵入、久次郎や二人の兄ともども近藤を縛り上げ、目の前で、ありとあらゆる家財道具を持ち去っていった。
近藤は縛られる前、必死で賊に抵抗したものの、すでに縛られていた父・久次郎の懇願で、あやうく殺害を免れたという。
翌朝。近在の村人によって解放された近藤は、兄たちに、剣術や柔術を少しでも学んでいれば、このような辱めは受けなかったと痛恨の思いを語った。
これが彼の撃剣を志す端緒となったという(1896年「近藤勇の少年時代」)。
宮川家に道場が設置され、近藤周助が出稽古に通ってくるようになった時期は判然としないが、多感な時期に屈辱を受けた近藤にとって、自身の環境は天恵ともいえるものだったろう。
近藤が二人の兄とともに天然理心流に正式に入門したのは嘉永元年(1848)11月11日のことである。
「近藤勇の少年時代」の記述を信頼するなら、それは賊の一件からおよそ2年後のことだった。
同じ屈辱を共有する兄たちと、激しい稽古に励む近藤に、近藤周助は大いに着目したらしい。
出稽古のたびにことさら熱心に指導を行っていた周助は、近藤を実子のいない自分の養子として迎え入れたいと、父の久太郎に懇望したのである。
久太郎はこれを快諾、嘉永2年10月19日、宮川勝五郎は、改名の上、周助の旧姓を冠し、嶋崎勝太の名で、師匠周助の養子となった。
やがて彼は、活動の場を上石原村の生家から、江戸の試衛場道場に移し、撃剣一筋の前半生に邁進していくことになる。
天然理心流三代宗家近藤周助の養子となって7年後の嘉永7年(1854)10月15日、嶋崎勇と名を改めていた近藤は「願書証文」と題する4カ条の約定書を、飯綱権現に奉納した。
飯綱権現は高尾山の薬王院の別称で、古くは武将たちからの信仰対象になっていた。
諸書には紹介されていないが、21歳の近藤が認めた証文は、彼の性格や撃剣への思いを内包する重要な資料である。
後年の多くの資料から、平生はいたって温厚な人物だったと評される近藤が、原点となる剣術に対しても、際立って真摯な姿勢をとっていたことが窺える。
神仏への願文という形をとっているが、近藤は青年期から真剣に撃剣と向き合っていた。
権現の「御高恩」に預かったためか、それから10年後の元治元年(1864)6月に、近藤ははからずも池田屋事件の活躍で「諸人に聞こえ候所の(撃剣)名人」となった。
同年、近藤は隊士募集のため京都から江戸に下ったが、その際、10月1日に八王子を訪れていたことが、資料『橋本家日記』に明示されている。律儀な近藤は、権現との願文の約束を実践したのかもしれない。そして、近藤はその日を計ったかのように10月15日に江戸を発ち、京へ戻った。
近藤が正式に近藤姓を継承し、天然理心流四代目宗家となったのは、文久元年(1861)8月のことである。六所宮(東京都府中市・大國魂神社)で襲名披露の野試合を行った。(28歳)
継承前から近藤は、天然理心流の伝統でもある、多摩一円などへの出稽古も積極的に行っている。近藤の人柄や撃剣への姿勢も、各地の門人たちに好感をもって歓迎されていたとみられる。
ただ道場が立地する江戸では、玄武館、練兵館、志学館といったいわゆる三大道場などの威名が喧しくなる中で、経営への苦境を実感する場面も少なくなかったようだ。
近藤には、幕臣子弟の武術鍛練やかま所である講武所との縁もない。
こんな話も伝わっている。
近藤が道場を開いた時、弟子入りさらになかった。早速諮って、下駄で荒らかに板の間を踏み踊り、両手で両竹刀を敲き合わせ、通行人をして、この道場は弟子多くて、不断の稽古をしおると思わせたので、おいおい弟子入りがあった(1940年「近藤勇」)。
粘菌研究で知られる南方熊楠が、明治21年(1888)に漢学者の松平康国から聞きとった、試衛場の涙ぐましい姿である。
こんな才覚のあった近藤は、規模の大きい撃剣道場との提携という経営戦略も視野に入れた。
特に関わりのあったのが、九段にあった神道無念流練兵館である。
端緒は不明だが、試衛場では道場破りが来ると、練兵館からその状況にあわせた助っ人の派遣を依頼したという。
実際、試衛場と練兵館は近藤の宗家継承前から、友好な関係を推移していたようだ。
土方歳三の義兄で、日野宿名主の佐藤彦五郎が万延2年(1861)1月29日に認めた日記には、試衛場に練兵館の門人を15名も招き、天然理心流門人との試合を行ったとの記述がある。
こうした大道場との提携関係は、江戸で天然理心流の名を喧伝するにはもとより、道場近辺で新たに門人を募る上で、功奏するものもあったことだろう。
近藤の甥・勇五郎が、試衛場道場について、作家の子母沢寛に伝えた記録が残っている。
前後400名以上の門弟を取り立てて、市谷柳町の近藤の道場は、三間(約5.5m)に三間の堂々たるものだという。
近藤は妻ツネとただ二人、女中も使わずに暮らしていた(1925年「流行児近藤勇」)。
門弟数については、多摩地域の人数を加えた可能性もあるが、相応の通い弟子を有する試衛場は、約5.5m四方のスペースの撃剣道場を構えた、堂々たるものだったらしい。
近藤は試衛場から徒歩5分ほどの、市谷加賀屋敷の地に借家を構え、自ら道場に通って、天然理心流の達者で十代の沖田総司らとともに門弟へ指南を行った。
のちに新選組に加わる、試衛場近在の近藤芳助をはじめ、現千代田区飯田橋に居住していたとみられる山口(斎藤)一など、門人の大半は通い弟子である。
土方歳三や井上源三郎らは生活の基盤を在住地の多摩郡日野に置き、来府時に試衛場で練磨をしたようだ。
こうした同流の者たちのほかに、際立つ他流派の遣い手が入り浸ったのも、試衛場の特色だった。
仙台出身の山南敬助は、九段の小野派一刀流大久保九郎兵衛道場の剣士で、北辰一刀流を練磨した経歴もあった。
練兵館では程近い大久保道場から稽古人を受け入れており、その縁で山南は試衛場と関わりができたらしい。やがて近藤と立ち合い、敗れて門下に入ったと伝わる。
江戸に生まれた永倉新八は、神道無念流や心形刀流を研鑽した優れた剣士だった。 自身の回想録『永倉新八』によれば、「ほんの剣術修行のつもりで」足を運んだ試衛場で「近藤の身辺から遡る義気」が自分と合致し、やがて、門弟の格から客分となって居着くようになった。
同じく江戸に生まれた藤堂平助は、深川の伊東甲子太郎道場などで北辰一刀流を練磨後、試衛場に居着いた。
浪士組の応募者たちが自己申告した記録によれば、沖田、永倉、藤堂の3名は、近藤の借家に同居していたことがわかっている。
居候仲間のこの3人は、奇しくも後の池田屋事件で、元・大家の近藤とともに、浪士の集まる部屋に揃って突入することとなる。
山南は、近在の二十騎組屋敷の地を寄宿先として、試衛場に通っていた。
近藤に心酔する優れた他流派の者たちにとっても、試衛場はとても居心地の良いスペースだったようだ。
こういう逸話がある。上洛前、ある天然理心流の門人が近藤と立ち合った。そのとき近藤は、股間に竹刀を挟んで仁王立ちをしていたという。だがまったく打ち込む隙がなく、相手は脂汗を流して降参した(1968年「近藤勇裏ばなし」塩田真八回想)。
自流派に破格の素養のある近藤は、より高みを目指すべく、時に道場の他流派食客、また練兵館からの助っ人らの剣技を、吸収しようと志したのだろう。
後に京都で治安維持を担った会津藩と桑名藩は、合同で行う槍術稽古の際、一つの型にこだわらず諸流派の長所を活かして練磨するという「進歩的」な稽古をしたと資料『加太邦憲自歴譜』にある。
近藤もこうした視野に立ち、客分たちの秀れた技量を、時に流派に固執せず、惜しみなく道場の稽古で門人らに指南させたのかもしれない。
それは後に、多流派合同の武力集団新選組で実践される剣術への萌芽だったのではないだろうか。
氏名 | 出身 | 伝位/流派 | 新選組役目 | 背景 | |
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天然理心流 | 近藤勇 | 武州多摩 | 指南免許 | 局長 | 天然理心流宗家4代目。鷹揚で懐深く、来るものは拒まなかった |
土方歳三 | 武州多摩 | 中極位目録 | 副長 | 当初は、行商しながら剣術を修行。近藤とは義兄弟の契りを結んだ | |
沖田総司 | 江戸麻布 | 免許 | 一番隊組頭 | 若くして塾頭を務め、近藤からは天然理心流次期宗家とも目された | |
井上源三郎 | 武州多摩 | 免許 | 三番隊組頭 | 入門は勇に先がける。免許まで約10年かかり、努力家とも | |
山南敬助 | 奥州仙台 | 小野派一刀流、北辰一刀流、他 | 副長 | 近藤に立ち合いを挑み敗れるが、その技量や人柄に惹かれ入門 | |
斎藤一 | 江戸 | 天然理心流、他 | 四番隊組頭 | 試衛場の門人。壬生浪士組の結成以降、京都で合流した | |
客分 | 永倉新八 | 江戸下谷 | 神道無念流 | 二番隊組頭 | 松前藩中級藩士の次男に生まれるが脱藩。のち、試衛場の食客に |
藤堂平助 | 江戸 | 北辰一刀流 | 五番隊組頭 | 玄武館門下生と伝わる。北辰一刀流の遣い手で、のち試衛場に学ぶ | |
原田左之助 | 伊予松山 | 種田流槍術 | 小荷駄隊組頭 | 試衛場食客と伝わる。種田流槍術を使う槍の名手 |
近藤の依頼を受けて、道場破りへ対応するため試衛場にやってきた練兵館の門人たちに、立ち合い後、近藤は、酒の肴として沢庵をふるまったという。
当時、練兵館の塾頭だった、大村藩士で後に子爵となった渡辺昇は、近藤がこの沢庵を「亜米利加の刺身」と呼んでいたと証言している(1909年刊『死生の境』)。
ネーミングの理由を渡辺は語っていないが、米国人に象徴される異国人を刺し身のように切り刻んでやろうという、意図であったと解釈される。
永倉新八もまた、稽古後の酒宴で「各々、見ても癪に障るは鳶鼻の毛頭人だ(中略)」など激烈な攘夷論に謎の花を咲かせ」たと回想録に認めている。
いわゆる近藤勇派とされる新選組の幹部で、試衛場にはもっとも後に入り浸ったと見られる、松山出身で宝蔵院流槍術を会得していた原田左之助も含め、彼らは、道場で壮烈な気焔を上げていた。
新選組結成後、近藤勇や土方歳三は屯所の玄関に、攘夷派で知られる水戸藩主徳川斉昭の詠んだ和歌を飾っている。
「いざさらば我も波間に漕ぎ出てあめりか船を討ちや払わん」
試衛場で彼らが語り明かした攘夷への思いは、京都でも燃え続けていた。
だが洛中の治安維持に不可欠な新選組は、攘夷はもとより、長州征討戦争の最前線にも立つことはなかった。