近藤勇と新撰組は長州藩士ら武装クーデターのアジトとなった池田屋に乗り込み死闘を展開。副長・土方歳三隊は遅れた為、少数の近藤隊だけで討入を決行、志士ら20人程を相手取る劣勢の戦いとなった。激戦の最中で沖田総司は病を発症し戦闘不能になり、藤堂平助・永倉新八は深手を負った。しかし、彼らは最期まで耐え抜き、見事、戦いに勝利した。事件後、近藤は正式に武士として取り立てられた。
文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われた長州藩は、翌元治元年(1864)に入ると失地挽回を目指し、京都出兵の機会をうかがう。京都を追われたといっても、長州藩邸はいまだに河原町に残っていた。
政変以来、京都に入れる長州藩士の数は朝廷から制限されたが、京都にいた藩士の数は、それをはるかに上回った。長州藩に同調する尊攘派の志士たちも河原町の藩邸に頻繁に出入りしており、あたかも志士たちの秘密アジトと化した。薩摩藩とともに政変の立役者となった会津藩への復讐計画が進行しているとの風評も喧しかった。
こうした状況を危惧する新選組は志士たちの捕縛に奔走する。
4月22日、河原町通四条下ル辺で火事が起きたが、その際に捕らえた者が長州藩邸の門番と判明する。拷問の結果、長州人が250人ほど京都に入り込んでいるとの自白を得た。5月末頃には、長州人300人余が姿をやつして三条大橋の宿屋に宿泊しているとの風聞を受け、目下探索中と会津藩に報告した。
6月1日には、中間の格好をした不審者2名を鴨川東岸で捕らえて拷問したところ、「長州藩の浪士が京都に約40名、伏見に約100名、大坂に約500名余入り込んでいる。政変の立役者である中川宮や松平容保を討ち取り、南風の強い日に洛中を焼く」との計画を自白した。
こうした自白を得た新選組では目星を付けていた浪士の潜伏場所を探索するが、その場所は20カ所余にも及んだ。よって、自分たちだけでは取り逃す恐れがあるとして、人数を出して欲しいと会津藩に要望している。6月5日早朝のことであった。
その後、新選組は四条小橋で店を構える薪炭商の枡屋喜右衛門を捕縛した。枡屋は商売もしていないにも拘わらず相応の暮らしぶりで、家も広かったことから、新選組では兼ねてから不審に思っていたのである。
壬生の屯所に連行された枡屋は拷問にかけられる。これに耐え兼ねた枡屋は、自分は近江出身の尊王家・古高俊太郎であると自白した。宿泊場所を提供するなど、志士の活動の支援者だった。そして、枡屋の家宅捜索により発見された多数の密書から次のような計画が判明したことで、新選組は色めき立つ。具体的な日取りまで記されていたからである。
来たる六月七日、祇園祭の賑わいに乗じ、風の強い時を狙って御所に火をかける。慌てて参内してきた中川宮や松平容保を討ち、八月十八日の政変の仇を討つ。混乱に乗じて孝明天皇を長州に連れていく、という計画だった。
新選組による古高捕縛の知らせは長州藩邸にも入った。古高を奪い返そうという動きもあったが、長州藩留守居役の乃美織江はこれを必死に押しとどめる。
結局、市中に潜伏していた志士たちを集めて相談を持つことになった。会合の場所は三条小橋の池田屋である。
夜に入ると、長州藩士をはじめ尊攘派の志士たちが続々と集まってきた。古高の奪回も再び議論されたらしい。
京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇を長州に動座する計画があると知った新選組は会津藩にその旨を報告した。尊攘派志士たちの捕縛の許可を求めたが、合わせて応援も要請している。
だが、会津藩は志士たちの捕縛には二の足を踏む。これ以上、長州藩から恨みを買うことを恐れたのである。
会津藩と長州藩は、幕末史では不倶戴天の関係としてしられる。しかし、両藩がそれを望んでいたわけでは決してなく、文久3年(1863)8月18日の政変に始まる不幸な関係だった。幕府が倒壊する4年前から、両者の関係は悪化していくが、この日に起きる池田屋事件により修復不能なものとなる。
京都を火の海にするという不穏な計画を知りながら黙殺するのは、京都守護職の職掌を放棄するに等しかった。先手を打って彼らの計画を未然に防がなければ、会津藩が苦しい立場に追い込まれるのは必至であった。
会津藩では先手必勝しかないと、志士たちを捕縛する決意を固める。応援を出すことも決め、容保もこれを承認した。禁裏御守衛総督として御所警備の最高責任者であった一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、京都所司代の桑名藩主・松平定敬、京都町奉行たちも、会津藩からの打診を受けて志士の捕縛に同意した。
午後八時に、新選組は八坂神社の祇園会所で会津藩などと合流する予定だったが、ここで手違いが生じる。会津藩などの合流が遅れる見込みとなったため、新選組は待ち切れず、単独で志士たちの捕縛に向かった。
新選組では志士の集結場所として目星を付けていた場所が二つあった。10人ほどの近藤隊と20人余の土方隊の二手に分かれて現場に向かうが、土方隊が向かった先には志士はいなかった。
土方隊は空振りに終わってしまったが、より少数だった近藤隊が池田屋に向かい志士たちと死闘となる。
当時、新選組の隊士には病人が多かったため、局長の近藤や副長の土方に率いられて出動した隊士の数は30人ほどであった。近藤はこれを二手に分け、人数の多い方を土方に指揮させた。
事件後に近藤が故郷の武州多摩に送った書簡によれば、池田屋に踏み込んだのは午後十時頃であった。戦いは2時間余りにも及んだ。7名を討ち取り4名に手傷を負わせ、23名を捕らえたという。
近藤は踏み込む前に、数人の隊士を外に残して池田屋の表口と裏庭を固めさせた。表口は三条通りに面し、裏口は高瀬川の舟入に通じていたからだ。いずれも脱出者を防ぐための処置であった。
その後、近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤の養子・周平の計5名が踏み込んでいる。
池田屋は二階建ての宿屋だった。一階の表口から入った近藤は御用改めであると叫んだため、驚いた池田屋の亭主は志士たちが集まる二階に駆け上がった。御用改めが来たと知らせようとしたのである。
近藤たちが亭主を追って二階に駆け上がると、20人ほどが抜刀してきた。近藤は手向かいすれば容赦なく切り捨てると叫んだが、志士の一人が斬り込んできたため、沖田が斬った。
近藤は一階に下りるよう沖田たちに命じた。数の上では劣勢であることを悟り、一階を戦いの場に選んだのだ。一階には大型の吊り行燈もあり、敵味方の区別をしながら戦えるメリットもあった。
永倉の『文久報国記事』によれば、沖田が病のため早くに離脱してしまい、近藤隊は残りの3名で戦うことを余儀なくされる。近藤周平の名前が入っていない理由は不明である。
志士たちは、二階に残る者もいれば、一階に下りて戦う者もいた。外へ脱出を試みる者もいた。
近藤は一階の奥で二階から下りてきた志士と戦った。永倉は台所から表口の辺りで、藤堂は中庭で戦った。(沖田は二階で奮闘するなか、最中に吐血したともいうが、真相は不明)
一階は中庭を挟む形で表と奥の空間に分かれており、奥の空間を進んでいくと裏口に突き当たった。
近藤たちは人数が少なかったため、苦戦を強いられる。近藤は傷を負わなかったものの、永倉によれば3度ほど斬られそうになっている。
永倉の場合は手に傷を負った上に、刀が折れて使い物にならなくなってしまった。そのため、志士の刀を奪って戦いを続けた。
近藤によれば、藤堂は鉢巻の額の部分に入れた薄い鉄の板を打ち落とされ、深手を負った。
その刀は「ささら」のようになっていたという。
周平も槍を切り折られた。離脱した沖田の刀も折れていた。
激しい斬り合いだった様子が浮かんでくる。
外に脱出した志士もいたが、近藤が外に配置した谷万太郎の槍に突かれ、逃げることはできなかった。
劣勢の近藤隊は苦戦を強いられたわけだが、縄手通りの捜索が空振りに終わった土方隊が急ぎ駆け付けると、人数の上で優勢となる。
新選組が大勢、一階や二階に押し入ったことで志士たちは次々と捕らえられた。あるいは斬られた。屋外に脱出した者も同じ運命を辿る。
その後、出動が遅れていた会津藩や桑名藩なども駆け付けて、池田屋を十重二十重に囲み始めた。志士たちは脱出する道を完全に断たれ、やがて斬り合いは終った。
捕縛後に斬首された者も含めると、池田屋事件で命を失った者は30人近くにも及んだ。熊本藩士の宮部鼎蔵、長州藩士の吉田稔麿、土佐藩士の望月亀弥太たちである。
もちろん、新選組側にも死傷者が出ている。奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の3名が池田屋事件での傷が元で命を落とした。
新選組の働きは幕府や会津藩から高く評価された。幕府は会津藩に恩賞として1000両を与えたが、配下の新選組への恩賞については直接割り振っている。幕府が指示した配分に従って、褒美金を配るよう命じたのである。
近藤に30両、土方に23両、沖田・永倉・藤堂たちに20両ずつ、井上源三郎たち11名に17両ずつ、松原忠司たち12名に15両ずつを渡すよう指示した。そのほか、3名に20両を渡すよう指示したが、これは池田屋事件で落命した奥沢たちと推定されている。
幕府だけでなく、会津藩からも褒美が出ている。近藤は三善長道の刀を賜わり、新選組一統は500両を下賜された。これとは別に、負傷者には20両が与えられている。
池田屋事件は新選組の名を一躍天下に知らしめる事件となったが、藩士を殺された長州藩の怒りは当然ながら爆発することになる。京都が戦場となる日が、刻々と近づいていた。
近藤勇 | 30 | 土方歳三 | 23 |
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沖田總司 | 20 | 永倉新八 | 20 |
藤堂平助 | 20 | 原田左之助 | 20 |
谷万太郎 | 20 | 斎藤一 | 17 |
井上源三郎 | 17 | 松原忠司 | 15 |
島田魁 | 17 | 川島勝司 | 17 |
林信太郎 | 17 | 河合耆三郎 | 15 |
合計200両を越える褒美に加え、死亡した隊士3人にも各20両が与えられた。京都が火の海になりかねない事態を防いだことに対する評価は高かった。数字の単位は「両」