壬生浪士組が新撰組へ

力士乱闘事件と大和屋焼き打ちの二つの事件。この事件によって壬生浪士組こと新撰組は世間に名が知られることとなる。これらの出来事が芹沢鴨への不信と暗殺を引き起こし、近藤勇が実権を握る契機となった。そして、八月十八日の政変後に壬生浪士組は新撰組へと改称する。改称後は新撰組は京都の見廻り警護を行い、尊攘派浪士からは憎悪の対象とみられることとなる。

目次

新選組はもとは浪士組という名称

八月十八日の政変(1863)を経て新撰組へ改称

新選組という隊名は文久三年(1863)八月十八日の政変の際に武家伝奏から与えられた名称であり、それ以前は浪士組という名称だった。
武家伝奏とは、朝廷と幕府の間に立って連絡役を勤めた公家のことである。

浪士組の頃から会津藩お預かりだった

新選組の母体となる浪士組は、藩主が京都守護職を勤める会津藩の預かりという立場だった。
京都の治安維持にあたる会津藩としては、浪士組を配下とすることで市中の取り締まりを強化したい目論見があった。

京都は極度の緊張状態にあった

折しも、過激な尊王攘夷の志士たちによる天誅と称した殺傷事件が京都では頻発し、治安が極度に悪化していた。
尊攘派の志士を抑え込むため、腕の立つ者はいくらでも欲しいところだった。

浪士組は壬生村を屯所とした

浪士組は京都近郊の壬生村を屯所として京都市中の警備にあたった。ゆえに壬生・浪士組などとも呼ばれる。(壬生狼などとも書かれるが、これは後世の創作である)
後に局長となる芹沢鴨と近藤勇が中心メンバーで、その数は当初20名ほどであった。

芹沢鴨と近藤勇が浪士組の中心

芹沢は常陸国の豪農の家に生まれ、神道無念流を極めた人物である。
近藤は武蔵国の豪農の家に生まれ、天然理心流の道場・試衛館の道場主を勤めた。

大坂にまで任務で出向くこともあった

浪士組は京都が活動範囲だったが、大坂に出向くこともあった。
文久三年(1863)六月三日、芹沢・近藤たち10名は大坂に下向した。
「天下浪士」を名乗って暴れていた浪士たちを捕縛するためである。翌四日、浪士2名を捕らえて町奉行所に引き渡した。
この件は、大坂町奉行所が京都守護職を通じて浪士組の派遣を依頼してきたのだろう。町奉行所の陣容では浪士の取り締まりが難しかったことがわかる。
浪士組は任務を無事に果たしたが、直後に事件が起きる。

浪士組が起こした事件

力士乱闘事件

  • 文久3年(1863)6月3日
  • 場所:大坂北新地
  • 主要隊士:力士乱闘/芹沢鴨、平山五郎、沖田総司、斎藤一、他
  • 敵勢力:生糸商大和屋

大和屋焼き打ち

  • 文久3年(1863)8月12日
  • 場所:京都葭屋町
  • 主要隊士:大和屋/芹沢鴨とその手先
  • 敵勢力:生糸商大和屋

芹沢鴨の暴挙

力士乱闘事件

大坂にて、芹沢ら浪士組が力士を相手に大立ち回りを演じ14名を負傷させる事件が発生する。

道を譲らなかったからと、芹沢らが力士へ暴行

その日の午後4時頃、芹沢たち8名が夕涼みに繰り出そうと小舟に乗ったが、途中で斎藤一が腹痛を訴えた。
そのため、鍋島河岸で上陸し、北新地の遊郭住吉楼に向かおうとしたところ、前方から力士がやって来た。芹沢が脇に寄るよう声をかけたが、無視したため、脇差で殴って倒してしまう。
その後、蜆橋では別の力士がやって来たが、またしても道を譲らなかったため、今度は8人掛かりで倒した。

力士が報復にやって来る

住吉楼に入った芹沢たちが腹痛の斎藤を介抱していたところ、先程の復讐とばかりに20〜30人の力士が押し寄せてきた。芹沢たちが住吉楼の外に出ると、力士たちが樫の棒で襲いかかってきたため乱闘となる。

この事件で浪士組の名前が大坂で知られることに

多勢に無勢だったが、脇差で応戦した芹沢たちは無傷で、力士側は14名が負傷した。
浪士組の名前が大坂でも広がることになった乱闘事件だが、大坂には赴いたものの、この乱闘事件に近藤は関わっていない。

大和屋焼き打ち

次に浪士組が起こしたのは、新選組と命名される直前の同年八月十二日に、京都で起こした大和屋焼き討ち事件だ。

豪商を相手に一方的に因縁をつけ攻撃

葭屋町通一条上ルで生糸商を営んでいた大和屋庄兵衛は、開港により多大な利益を上げたため、芹沢に目を付けられる。尊王攘夷派の志士たちに活動資金を提供したことを耳にしたためともいう。
よって、芹沢は浪士組の活動資金を提供するよう大和屋に申し入れた。だが、断られたため、その腹いせから報復行為に出る。

大和屋を焼き討ちし、火消の妨害まで

その日の午後8時頃、芹沢たち30数人が大和屋を取り囲む。土蔵周辺の貸家を壊して周囲に延焼しないようにした上で、商品が収納された土蔵に火を掛けた。出火を知った火消人足が駆け付けて消火にあたろうとしたが、芹沢たちの妨害に遭い、土蔵が全焼するのをただ見ているだけだったという。

浪士組内で芹沢排除の機運が…

芹沢の行為は暴挙でしかなかった

この二つの事件は芹沢たちが起こした事件だが、とりわけ大和屋焼き討ち事件は暴挙でしかなかった。

会津藩が芹沢を問題視

浪士組への批判が高まるのは避けられなかった。かねてより、芹沢たちの振る舞いは内部からも問題視されていたが、今回の焼き討ち事件は京都の治安を乱す行為であった。浪士組を管轄下に置く会津藩としても、到底看過できるものではなかった。

芹沢暗殺、近藤が浪士組を牛耳る

近藤は芹沢の粛清に踏み切るが、会津藩からの内命もあったという。下記の八月十八日の政変の後、九月十八日に芹沢たちは暗殺され、その後は近藤が浪士組改め新選組を牛耳ることになる。

新撰組へ改称

八月十八日の政変

朝廷に攘夷を迫って勢力を強める長州藩を一掃するのに新撰組(浪士組)も助力した。

会津藩・薩摩藩らが長州藩を排斥

八月十八日午前一時、会津・薩摩藩と気脈を通じる中川宮や公家たち、京都守護職・松平容保、京都所司代の淀藩主・稲葉正邦が御所に参内した。
そして、会津・淀藩兵に加えて薩摩藩兵を御所各門の警備に付かせた上で、三条たち尊攘派公家の参内差し止めを達した。その後、開催された朝廷の会議で、長州藩に対して堺町御門警備の任を解くこと、京都から退去を命じることが決まる。

長州藩を京都から退去させる

まったくの不意打ちであった長州藩は激しく反発するが、御所から締め出された上に諸藩の間でも孤立を深めていたため、結局は政治的敗北を認めざるを得なかった。翌十九日、三条たちを擁して帰国の途に就く。
長州藩は一夜にして幕末の政局の舞台だった京都から追放され、失脚した。これが八月十八日の政変である。

浪士組も出動していた

この時、会津藩の配下として浪士組も出動している。その頃、浪士組の数は32人に増えていた。

この頃にはダンダラ羽織と「誠」の文字があった

新選組のトレードマークとなる浅葱色のダンダラ羽織を着用し、誠と忠の字を付けた提灯を持って出陣した浪士組は御所の警備にあたった。会津藩から支給された黄色のタスキを目印として付けていたという。

この時にも芹沢がトラブルを起こしていた

その際、一つのエピソードが残されている。
会津藩が守る蛤御門から御所内に入ろうとした際、警備の会津藩士から怪しまれて通過できなかったという。
浪士組の面々はどうしても御所に入ると言い募り、藩士たちが抜き身の槍で詰め寄っても引き下がらなかった。芹沢などは顔の先に出された槍の穂先を腰から出した扇で煽ぎ、悪口雑言を並べ立てた。
その場には緊張が走り、同士討ちにもなり兼ねなかったが、騒ぎを聞き付けて駆け付けた会津藩の軍奉行や公用方の取り成しにより、ようやく収まった。駆け付けるのが少しでも遅かったならば一大事になったと伝えられる。

新撰組へ改称、公家より名を賜る

御所内の警備を任じられ、同時に改称

無事に蛤御門から御所内に入った浪士組は、堺町御門の警備の任を解かれた長州藩士が退去する際には南門(建礼門)前の警備を命じられた。
その時、武家伝奏を勤める公家から「新選組」の名を与えられたという。

新撰組が京都の見廻りを任じられる

八月十八日の政変直後の同二十一日、新選組が京都の見廻りを行う旨が市中に触れられた。その際、手に余れば斬り捨ててもよいという権限が新選組に与えられている。

会津藩や京都町奉行所と連携

この日以降、新選組は京都守護職の会津藩や京都町奉行所と連携して尊攘派志士の掃蕩を目指した。二十二日には、五条付近に潜伏していた尊攘派志士の平野国臣の行方を町奉行所とともに追跡している。

新撰組の見廻りにより、京都から浪人が姿を消したとも

二十五日以降、新選組は手分けして町内を毎日巡回し、人別を改めた。不審な者が住んでいないかを取り調べたわけだが、人別帳に載っていない無宿者はどしどしと捕らえたため、浪人は一時的に京都にいなくなったという。それだけ、新選組による取り調べは厳しかったことがわかる。

尊攘派志士からは恨まれる存在に

新選組による京都市中の見廻りはたいへん恐れられたが、そのぶん、尊攘派志士からは憎悪の対象として見られたのである。


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