慶応4年(1868)4月1日〜25日
新撰組局長・近藤勇は慶応4年(1868)4月3日に下総国流山で捕縛され、4月25日に板橋の刑場で処刑された。 武士として切腹することも許されない斬首であった。 副長・土方歳三は近藤を死なせぬよう知恵を絞るも、それが裏目に出てしまう。 新撰組(甲陽鎮撫隊)は内部分裂を起こして、永倉新八や原田左之助らが離脱しており、やがて消滅した。
慶応4年(1868)3月11日頃、試衛館以来の同志だった永倉新八と原田左之助が、近藤勇との意見の対立から隊を去った。
敗戦が続くと、隊内の人間関係もうまくいかなくなってくる。戊辰戦争の勃発以降、新撰組(甲陽鎮撫隊)は敗戦を続けており、隊を離脱する者が多くでていた。
隊を脱することは法度によって禁じられていたが、かつて新選組を律した鉄の掟はいつの間にかなくなっていた。
土方歳三に励まされて再起を決意した近藤は、江戸を出て武州足立郡の五兵衛新田に布陣した。
そこで新規の兵を募集し、調練を受けさせて会津に向かおうというのが近藤の考えだった。
3月13日、五兵衛新田の豪農金子健十郎邸に入った新選組は、当初は50人ほどであったが、入隊希望者が続々と集まり、4月1日には227人もの勢力となっていた。
しかし、ここで集まった130人ほどの者たちが、現実性と先見性を持った者たちであったとは考え難いだろう。
この日、新選組は五兵衛新田を去り、江戸川を渡って、下総流山に転陣する。
流山では商家の長岡屋に本陣を置き、近くの光明院という寺に隊士を分宿させた。
この流山で隊士たちを鍛え、往年の威勢を取り戻して会津に入るという近藤の思惑どおりにここまでは進んでいた。
しかし、運命は非情だった。
4月3日昼、新政府軍が突如攻め寄せ、新選組の本陣は包囲されてしまった。
ちょうど隊士たちは調練のために遠方に出かけており、本陣に残っていたのは、近藤、土方のほか数人の者だけだった。
絶体絶命の事態に、近藤はすべてを諦め、いさぎよく自刃することを決意した。
土方がそれに反対し、「まだ切腹するには早い。偽名を語って歩兵頭取※と偽り、諸方に散乱している歩兵を呼び戻すために当所に出張していると申せば、きっと言い訳が立つ」と近藤を説得し、新政府軍に投降させようとした。
※歩兵頭取(ほへいとうどりとは、幕府陸軍の役職で、現在の陸軍大尉にあたる)
近藤を死なせたくない土方は、わずかでも可能性が残っているならば、それにかけてみようと思ったのだ。
これを受け入れた近藤は、同日夕刻、大久保大和の変名で敵陣に投降した。
新政府軍のほうでは、この人物が近藤であることはほぼ間違いないと見ていたが、幸い陣中に元新選組で御陵衛士に転じた加納鷲雄が加わっていたので、面通しをさせることにした。
座敷に入った加納が、「大久保大和、改めて近藤勇」と声をかけると、近藤の顔色は変わり、正体はここに露見した。
あの御陵衛士※の残党が敵陣に加わっているとは、近藤の運はすでに尽き果てていたといえる。
※御陵衛士は、伊東甲子太郎が新選組を離脱した際、隊士ら複数を新選組から引き抜いて結成された。伊東甲子太郎は新撰組によって暗殺されており、御陵衛士らは近藤に恨みをもっていた
4月25日、板橋の刑場で処刑は執行された。
最後の願いもむなしく、武士として切腹することも許されない斬首の刑だった。
捕縛される前、近藤はその場での切腹を望んでいたともされるが、そうしていればせめて武士としての名誉は守れていたかも知れない。
処刑の直前に近藤は、床山※を頼んでひげを剃らせると、「ながながご厄介にあいなった」と感謝の言葉を述べた。
直後に太刀取りの者の刀が振り下ろされ、近藤勇の35年の生涯が終わった。
※床山(とこやま)とは結髪を行う職に就く者
斬首後に晒し首とされ、板橋の刑場で3日間も晒されていた。 しかし、これでは終わらず、さらに京都に送られると、三条河原で3日間晒されたという。