慶応4年(1868)3月6日〜29日
甲州勝沼の戦い(1868年3月6日〜29日)は、戊辰戦争において、天領の守備を命じられた新選組と新政府軍(板垣退助)の間で勃発した戦い。甲陽鎮撫隊となった新選組は甲府城に向けて出陣するが、その出陣は遅く、あっけなく敗北してしまう。
総大将の徳川慶喜に見捨てられた形になった旧幕府軍の兵士たちは、仕方なく大坂を去り、陸路と海路に分かれて江戸に退却することになった。
新選組は海路で、順動丸と富士山丸に分乗し、慶応4年(1868)正月12日と15日にそれぞれ品川に着いた。
2月12日、近藤勇は江戸城に呼び出され、上野寛永寺で謹慎する慶喜の警護という任務が与えられた。
新政府軍を迎え撃つことをせず、ひたすら恭順の姿勢をみせている慶喜のことは不満だったが、15日から25日まで新選組は警護を務めあげた。
しかし、そうしているうちにも、新政府軍が江戸へ向けて進攻しているとの情報がもたらされる。
そこで近藤は、そのころ陸軍総裁として旧幕府軍を統括する立場にあった勝海舟に対して、一つの作戦を提案した。
それは、江戸西方の要衝である甲府城に立てこもり、新政府軍をくいとめるというものだった。
海舟もこれに賛成し、軍資金2400両と大砲6門が新選組に与えられた。
海舟にしてみれば、新選組のような危険な集団が江戸にいたのでは新政府軍との和平交渉の邪魔になると思ったのかもしれないが、近藤は素直によろこんだ。(勝海舟はその後、江戸城の無血開城にむけ動いており、内心では賛成していなかっただろう)
そして隊士一同に対して「首尾よく甲府城が手に入れば、隊長は100万石、副長は5万石、副長助勤は3万石、監察は1万石ずつ分配しよう」と景気のいい話をした。
隊士たちを、そして自らを鼓舞しようとしたのかもしれなかった。
この頃、新選組の人員は、戦死や脱走などにより70余人にまで減少していた。
そのため旧幕医松本良順の手配で新たに100人が隊に加わり、総勢は170余人となった。
敵を刺激しないように新選組という隊名を隠して甲陽鎮撫隊と称した彼らは、3月1日に内藤新宿を出発した。
その日は府中泊まりで、2日は日野を通過。いうまでもなく日野は土方歳三の故郷であり、近藤と土方が出世をして故郷に錦を飾ったというので大歓待となった。
ただし日程的にはそれほどゆっくりしていたわけではなく、日野で休憩したあと、その日は八王子の先の与瀬まで進んで宿泊。翌3日は猿橋に宿泊した。
しかし4日、花咲で昼食をとっていた時、驚くべき知らせが飛び込んできた。
板垣退助率いる新政府軍の分隊が、すでに甲府に到着し、甲府城を接収したというのだ。
甲陽鎮撫隊の進軍は、わずかに一歩遅かったということになる。
4日夜は駒飼に宿泊したが、敵に先を越されたことを知った兵たちは動揺し、多くの者が脱走した。
残った120人ほどの兵に対し、近藤は会津藩の援兵300人が明朝到着すると嘘を言ってまで繋ぎ止める始末だった。
5日、鎮撫隊は勝沼に進み、6日朝には土方歳三が援軍を依頼するために単身江戸に向かった。
実は菜葉隊(隊長:吹田鯛六、以下隊士:500名)という旗本の部隊があとから加勢すると約束してくれていたので、それを催促しようとしたのだが、結局、菜葉隊は動かなかった。
そして、土方不在のまま、6日九ツ時(正午頃)に甲州勝沼の戦いの戦端が開かれた。 鎮撫隊は勝沼に関門を築いて戦ったが、1400の兵力の新政府軍に突破され、わずか2時間ほどで鎮撫隊は敗走、近藤の望みも夢と散ったのだった。
戦況は洋式戦術に長けた迅衝隊(戊辰戦争における御親征東山道先鋒総督軍:土佐藩兵の主力部隊)が圧倒。
甲陽鎮撫隊は大砲の扱いに不慣れで、はじめ砲弾の向きを逆に弾込めして撃っていたため、飛距離が伸びず、見当違いの方向に弾が飛んでいった。
そして、迅衝隊からの的確な砲撃が大砲も破壊した。
近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し抗戦を続けるが、会津の援軍が虚報だとわかると兵は逃亡した。
甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し江戸へ敗走、近藤らはその途中土方と合流した。
江戸に帰ると永倉新八・原田左之助らも新撰組(甲陽鎮撫隊)を抜けてしまった。