新撰組の敗走

新撰組の敗走〜賊軍の汚名をきせられる

大政奉還が新撰組の命運をわける

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府が敗北、江戸へ撤退

慶応4年(1868)1月3日〜6日

大政奉還によって江戸幕府が幕府ではなくなってしまい、新撰組もそれまでの地位を失う。
新政府の一翼をになう薩摩藩の倒幕派が、江戸で旧幕府を挑発したため、やがて戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)が勃発。
新選組も旧幕府軍として参戦し、各地で戦闘に参加するが、まもなく劣勢に追い込まれる。
新政府軍が正式に官軍となったことで、徳川慶喜は賊軍(朝敵)とならぬよう江戸へ撤退、新撰組も後を追う。

目次

大政奉還により新撰組も官軍でなくなる

堂々と京都に居座ることができなくなった幕府側

慶応3年(1867)10月14日に大政奉還が行われると、12月9日には王政復古の大号令が発せられ、倒幕派の薩摩藩、長州藩を中心とする新政権が樹立された。
進退に窮した前将軍・徳川慶喜は、12日に護衛の兵とともに京都を去り、大坂城に移った。
このとき新選組も若年寄の永井尚志に従っていったん大坂に下ったが、16日に永井の指示で伏見に引き返して布陣することになった。

新政府と旧幕府が一触即発、開戦寸前

伏見が最前線、新撰組が激戦地に立つ

新政府との武力衝突の可能性が徐々に高まってきており、もし両陣営の間で戦端が開かれれば、伏見が最前線の激戦地になることが予想されたからだ。
伏見では、旧伏見奉行所の建物に陣取り、「新選組本陣」と墨書した表札を掲げた。

近藤が狙撃され重傷、大坂へ退く

18日には、局長の近藤勇が伏見街道の墨染付近で御陵衛士の残党に狙撃され、右肩に深手を負う事件があり、隊内に衝撃が走った。
治療のため近藤は、病状の悪化した沖田総司とともに大坂に下り、留守中の隊は副長土方歳三が代わって率いることとなる。

江戸で薩摩藩邸が焼き討ちされる

徳川慶喜も薩摩討伐に動き、朝廷に罪状を提出

そんななか、京坂から遠く離れた江戸で、大きな動きがあった。
25日、薩摩藩の指令で御用盗と呼ばれる浪士団が江戸市中の攪乱工作を行っていたことに憤激し、三田の薩摩藩邸を幕府方が焼き討ちしたのだ。
急ぎ幕府大目付の滝川具挙が歩兵200人とともに軍艦順動丸で上坂し、28日に大坂城に入る。主戦派の滝川は慶喜に薩摩藩の横暴を報告し、これを討伐することを主張。
慶喜は承諾し、朝廷に対して薩摩藩の罪状をつらねた「討薩の表」をしたためた。

鳥羽伏見の戦い〜戊辰戦争に突入

旧幕府兵1万が大坂から上洛を目指す

そして年明けの慶応4年(1868)正月2日、「討薩の表」を携えた滝川が、旧幕府兵1万を率いて大坂城を出発した。
軍勢は途中の淀で二手に分かれ、一手は鳥羽方面、もう一手は伏見方面から京都に向けて北上した。

伏見、薩摩藩兵が旧幕府軍の通行を妨害

竹中重固率いる旧幕府歩兵や会津藩兵らが属していた伏見方面軍は、伏見奉行所に駐屯する新選組と合流して伏見街道をさらに北上するはずだった。
ところが、すでに3日朝には奉行所の北面の御香宮神社に薩摩藩兵が陣取っており、旧幕府軍が伏見街道を通行するのを拒絶した。

鳥羽、新政府軍と旧幕府軍が衝突

両軍の押し問答が続き、一触即発となるなか、七ツ半(午後5時頃)に遠く鳥羽方面から砲声が聞こえた。
一足先に、鳥羽方面軍が新政府軍と衝突したのだ。

有効な反撃打がうてない新撰組

大砲の数で薩摩軍が圧倒、5倍の火力差

これで開戦と判断した御香宮の薩摩軍は、5門の大砲を撃ち放ち、伏見奉行所を激しく攻撃する。
土方歳三は、新選組の者を広庭に集めて戦闘開始を告げ、1門だけ所持していた大砲で御香宮に向けて応戦した。

大砲による応戦から白刃による攻撃へ切り替える

半時(1時間)ほども砲戦を続けたが、敵との火力の差は歴然としており、奉行所の建物は破壊されるばかりだった。
ついに土方は、白刃による決戦を指示する。土方は永倉新八の二番隊を決死隊として「土塀を越えて斬り込んでくれ」と敵陣に斬り込めと頼んだという。
まさしく決死の命令にも、新選組で一、二を争うといわれる剣豪・永倉はひるむことなく、島田魁、伊藤鉄五郎ら二番隊の者を従えて奉行所の土塀を乗り越えていった。

徳川慶喜が江戸へ敗走、新撰組もつづく

永倉の特攻も功を成さず、新撰組が後退

新選組の突然の斬り込みは薩摩藩兵を狼狽させたものの、戦況を変えるまでには至らず、永倉らは奉行所に帰陣した。
その後、奉行所の建物が燃えだしたため、やむなく土方は竹中重固と申し合わせ、深夜に伏見を去って淀に移動する。

敗戦を重ねるうち、大将の慶喜が密かに逃走

5日、淀千両松の戦いでは14人もの隊士が戦死をとげ、なかでも井上源三郎の死は痛手だった。
6日の橋本の戦いにも敗れた新選組は大坂に退却するが、その夜、信じられないことが起こった。
旧幕府軍の総大将である徳川慶喜が、わずかな側近とともに江戸に帰還するべく密かに大坂城を脱出したのである。

新政府軍が「官軍」となり、朝敵となる事を恐れた慶喜

新政府軍の陣に官軍を意味する「錦旗」が上がったことを知り、朝敵となるのを恐れての行動だったが、戦場に兵士たちを置き去りにしたまま逃亡するというのは許されることではない。新選組の者たちも、上様はなんということをするのかと憤り、落胆した。


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