天平文化

天平文化

奈良時代「天平」の文化

天平文化とは奈良時代の文化のことで、その中心であった聖武天皇のときの年号に由来してその名で呼ばれている。
奈良の都・平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化で、多くの仏教建築・詩歌・彫刻を生み出した。

平城京で花開いた仏教文化

平城京には碁盤の目のような条坊制が布かれ、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転、平城京は仏教の都であった。
聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』が一部ずつ置かれた。
その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺・法華寺であり、東大寺の大仏は鎮護国家の象徴として建立された。

古事記・日本書紀と同時期の文化

『記紀』と『風土記』が完成

奈良時代の初期、律令が整備され、律令国家が完成した事を背景に国家意識が高まった。
天武天皇の命によっては始められた『記紀』(古事記と日本書紀)の編纂がこの時期に完成し、諸国には諸国の歴史を記した『風土記』の編纂が命じられた事はそれを示すものであった。

中国、唐にならった文化

遣唐使によって唐文化がもたらされる

その国家意識の高まりは、律令国家の模範とされた唐文化への強い憧れの現れであるといえた。
この時代にはたびたび遣唐使が派遣され、多くの文物や鑑真らの学僧らがもたらされ、随行した留学生らは唐文化を身に付けて帰朝した。
中でも道慈・玄ム・吉備真備らは文化面のみならず、政治面でも大いに活躍した。

儒教の影響を受け、芸術から政治にまで影響

天平文化は盛唐文化の強い影響の下に生まれたもので、学問・文学や美術・工芸から、制度や生活にも影響を与えた。
律令が儒教を指導理念としていた事もあり、儒教は貴族たちの公的生活を規制したが、唐の国家的な仏教政策はより大きく影響した。

寺院・僧尼は国家の統制を受けていた

かつての飛鳥文化白鳳文化と同じように、天平文化も仏教文化としての性格を強く持っていた。
班田農民の窮乏という状況を背景に、行基らは土俗信仰を取り入れながら民間に布教を行っていたが、僧尼令(そうにりょう)により、寺院・僧尼は国家の統制を受ける事になっており、彼らは政権によって弾圧された。

仏教は天皇らのあつい保護を受ける

しかし、相次ぐ疫病・飢饉の発生や貴族の抗争は仏教の呪術的な力への期待を強め、仏教は聖武天皇・光明天皇・孝謙天皇(称徳天皇)らのあつい保護を受け、鎮護国家の為の国家仏教となっていった。
その道は道慈によって開かれ、玄ムによって国分寺創建という形で具現化され、盧舎那仏造立に際しては行基もその波に巻き込まれた。

奈良仏教

仏教の都だった平城京

奈良仏教は、鎮護国家の思想に基づく国家仏教であった。
その為、鎮護国家を説く金光明最勝王経・仁王経・法華経などが尊重され、その書写・講説・読誦が行われた。
国家の手によって多くの寺院が造られ、聖武天皇による国分寺・東大寺の建立や、称徳天皇の西大寺の建立がよく知られる。
平城京には、南都七大寺といわれる寺院をはじめ、多くの寺院が甍を並べて繁栄していた。

南都七大寺

  • 東大寺
  • 興福寺
  • 元興寺
  • 大安寺
  • 西大寺
  • 薬師寺
  • 法隆寺

南都六宗と僧侶たち

奈良時代の宗派には南都六宗といわれる三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の6派があった。
それらは後世の宗派とは異なり、教義研究の学派というべきモノで、僧侶たちも兼学するのが普通だった。
僧侶としては行基(橋をかけたり道を作ったり)、玄ム(国分寺・東大寺建立を唱導)、良弁(華厳宗の布教、東大寺の建立・経営に尽力)、鑑真(戒壇を作った)らがいた。

仏教によって“人を救う施設”が造られていった

仏教による社会事業も盛んだった。
光明皇后が造った救貧施設の「悲田院」医療施設の「施薬院」をはじめ、行基は旅人の宿泊施設である布施屋や多くの橋・船着場、灌漑のための池や用水などを造った。
法相宗を伝えた道昭も社会事業に努めた。

学問と漢文学

教育施設〜のちの学校が造られる

教育施設としては、中央に大学、地方に国学が置かれた。
いずれも官吏養成を目的とするもので、儒教の経典を学ぶ明経道が正科とされ、算道・書道・音道があったが、8世紀には律令を研究する明法道や漢文学を学ぶ文章道が独立し、尊重されるようになった。
学生は国家試験を受け、及第すれば官吏になれた。

最古の漢詩集『懐風藻』

唐文化への憧れが儒教や漢文学への関心を高め、貴族たちの間に漢詩をつくる事が流行した。
それらは現存最古の漢詩集で、751年(天平勝宝3年)につくられた『懐風藻(かいふうそう)』に収められている。
『懐風藻』は淡海三船の撰ともいわれるが、正確には撰者は明らかにはなっていない。
『懐風藻』には120編の詩が収められていたという。(現存しているのは116首の詩だが、序文には120とあり、幾つかの詩が紛失している)
詩人としては吉備真備、阿倍仲麻呂、淡海三船、石上宅嗣らが有名。

日本最初の図書館

石上宅嗣は私邸に私設図書館ともいえる「芸亭(うんてい)」を設けて、人々に閲覧された。
芸亭には、仏典と儒書が所蔵され、好学の徒が自由に閲覧することができた。
9世紀初頭の天長年間まで存続していたとされる。

書物〜歴史書と和歌

『古事記』『日本書紀』『風土記』

飛鳥時代の末期に天武天皇『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じていた。
そして、奈良時代の初頭、元明天皇のときには『古事記』が完成して『風土記』撰進が命じられ、元正天皇のときには『日本書紀』が完成した。
これらの歴史書も奈良時代に編纂された書物であるため、天平文化の産物といえるのではないだろうか。
>> 記紀/古事記と日本書紀

『風土記』

『風土記』は713年(和銅6年)に諸国に命じて産物・地味・地名の由来などを記したモノだ。
現存する播磨(兵庫)・常陸(茨城)・出雲(島根)・肥前(佐賀)・豊後(大分)の5つを指して「五風土記」という。

奈良時代の歴史を記した『続日本紀』

『日本書紀』以後、10世紀初めまで、勅撰の歴史書編纂が5回行われたが、これらを総称して六国史と呼ぶ。
六国史のなかの一つ『続日本紀(全40巻)』は697年(文武天皇元年)から桓武天皇の791年(延暦10年)までの95年間の歴史を扱う、奈良時代の基本史料だ。
天平文化の時代の歴史は『続日本紀』に記してある。

万葉集

この時代につくられたのは漢詩だけではなく、もちろん和歌も盛んで、8世紀後半に『万葉集』全20巻がつくられた。
『万葉集』の編纂には大伴家持が関わっているとみられ、長歌・短歌・旋頭歌など約4500首が収録されている。
『万葉集』は「万葉仮名」で書かれている。
天皇・皇族・貴族・僧侶から防人歌や東歌のように名もない農民に至るまで、広い層の人々の歌が収録された。
天平文化の時代の作者としては山部赤人、山上憶良、大伴旅人、大伴家持などがあげられる。

天平文化の美術と工芸

美術

建築

奈良時代には国家の保護により仏教が栄え、多くの寺院が建立され、仏像も多く造られていた。
現存する代表的なモノで唐招提寺金堂・講堂、東大寺法華堂(三月堂)・転害門、正倉院、法隆寺夢殿などがあげられる。

彫刻

技法も進歩し、乾漆像や塑像が多く造られるようになり、造仏の分業化も進んだ。
複雑なポーズや繊細な表情もよく表現され、写実性も増し、後期には大量に造られた事で形式化したが、更に優美な作品が出来上がっている。
代表作としては、東大寺法華堂の不空羂索観音立像(乾漆像)・日光・月光菩薩立像・執金剛神立像(塑像)や同戒壇院の四天王立像、興福寺の八部衆立像(乾漆像)、新薬師寺の十二神将立像(塑像)などがあり、唐招提寺の鑑真和上坐像(乾漆像)は肖像彫刻として優れている。

絵画

正倉院の鳥毛立女屏風の樹下美人図、薬師寺の吉祥天女像が有名で、いずれも唐風の貴婦人が描かれている。
釈迦の本生譚を描いた過去現在因果経絵巻は、六朝風の絵が描かれ、絵巻物の源流を示す。

工芸

聖武天皇の遺、正倉院宝物

聖武天皇の遺臣を光明皇后が東大寺に施入した正倉院宝物がよく知られる。
楽器・調度・仏具・武器・文書など約一万点に及び、この時代の工芸を粋を示している。
その意匠・技術には中央アジア・インド・サラセン・ローマなどの影響がみられる。

世界最古の印刷物

孝謙天皇が恵美押勝の乱後に小塔百万基を作らせ、そのなかに納めた百万塔陀羅尼木版印刷で、世界最古の印刷物である。

天平文化の代表的な遺構

仏教建築

  • 唐招提寺金堂、講堂
  • 唐招提寺経蔵、宝庫
  • 薬師寺東塔
  • 東大寺法華堂(三月堂)、転害門
  • 正倉院宝庫(校倉造)
  • 法隆寺東院夢殿
  • 栄山寺八角堂

詩歌

  • 『万葉集』
  • 『懐風藻』

乾漆像

  • 興福寺八部衆立像、十大弟子立像
  • 聖林寺十一面観音立像
  • 葛井寺十一面千手千眼観世音菩薩像
  • 唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像
  • 東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像

塑像

  • 新薬師寺十二神将立像
  • 東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像
  • 東大寺戒壇院四天王立像

工芸品

  • 正倉院宝物(楽器・調度品・仏具・武器・文書など一万点に及ぶ)

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