藤原氏の朝廷支配

藤原氏の朝廷支配〜不比等の暗躍

飛鳥時代末期、蘇我氏本宗家を討ち滅ぼしたことで存在感を高めた中臣氏(中臣鎌足)。のちに天智天皇より藤原姓を下賜され、以降、藤原氏の躍進がはじまる。 奈良時代、平城京にて藤原不比等はその政治手腕と妻(橘三千代)の協力により、半ば強引に聖武天皇を誕生させた。聖武は藤原氏の血を継ぐ初の天皇となった。しかし、不比等の死後、藤原氏の前に強敵が現れる。長屋王だ。長屋王は聖武より優れた血統(天智・天武系)を持ち、やがて藤原氏と対立する。

目次

平城京にて藤原氏が本格台頭

藤原氏のための平城京と聖武天皇

平城京は、藤原不比等が作った藤原氏繁栄のための都といえる。
しかし、実は聖武天皇も、藤原氏繁栄のための天皇だったのである。

世襲政治家に囲まれながらも実力で躍進した不比等

不比等はその才覚と野心でのし上がった。
当時の官人のほとんどは「蔭位の制」という、父祖のおかげで位を賜った世襲官人だった。
優秀な人材はめったにいなかったと思われ、不比等に対抗することなど到底できなかっただろう。

不比等には親族に有力者がいなかった

しかし、本来、政治の世界は能力だけでは出世できない。
不比等には有力な親族がいなかった。
頼るべき親族である中臣一族の者は、神事・祭祀職を務めていて、政界からは離れていた。
不比等は孤立しやすい立場にあったのだ。

橘氏の女性が不比等を支える

橘三千代、やがて「源平藤橘」に数えられる

そんな不利をはね返し、不比等の出世の大きな力になったのは、橘三千代(県犬養三千代)だ。
ヤマト政権の豪族・伴造氏出身の彼女は、後宮で勢力を誇った官人(女官)だったが、不比等の後妻となった(時期は不明)。
彼女の影響力が、そのまま不比等の力となったのである。
>> 橘氏

娘を入内させ、文武の夫人とする

そして、不比等を朝廷内で上り詰めさせたのが、娘を入内(じゅだい)させる政策であった。
文武天皇元年(697)、軽皇子(文武天皇)の擁立運動を成功させ、その直後に娘の宮子を文武の夫人にした。
このときに活躍したのが橘三千代だったという。

不比等の孫、首皇子(聖武天皇)が誕生

あとは皇子(聖武)を即位させるだけだが

大宝元年(701)の『続日本紀』には、「夫人藤原氏が皇子を産んだ」との記事がある。
夫人藤原氏とは宮子のこと。皇子とは首皇子、後の45代聖武天皇だ。
不比等は天皇の外祖父まであと一歩まで来たのである。

文武天皇崩御、まだ皇子(聖武)は即位できる年齢ではなく

とはいえ、不比等にも時間の流れを早めることはできない。首皇子(聖武天皇)が即位できる年齢になるには、時間がかかる。その間に思わぬことが起こった。
慶雲4年(707)、文武が崩御したのだ。首皇子は6歳で即位できる年齢ではない。
しかし、ほかの皇子を即位させると、皇位継承の流れが変わり、首皇子が天皇になる目はなくなってしまう。

不比等の暗躍で、中継ぎに元明天皇が即位

そこで不比等は文武天皇の母である阿閇皇女を、43代元明天皇として即位させた。
息子の皇位を母親が継いだわけで、世代交代の流れが逆である。
異例というより、かなり不自然な事態で反対もあっただろうが、不比等にはこれを実行できる政治力があった。

2代連続で中継ぎ女性天皇が即位

元明天皇も早めに譲位してしまう

元明天皇は首皇子即位までの“代わり”のはずだったが、在位7年で譲位した。
激務に疲れたというのがその理由だが、不比等としてはもう少しがんばって天皇を続けてほしかったかも知れない。
首皇子は15歳になっていたし、すでに立太子(皇太子になること)されていたが、身体が弱く、まだ即位はできなかった。

2人目の中継ぎ天皇・元正天皇

そこで不比等は二人目の“代わり”を用意した。元明の娘で、首皇子の姉に当たる氷高内親王だ。
天皇の后でも親王の妃でもない独身の内親王の即位も、また異例だった。
これが44代元正天皇だ。

聖武即位〜藤原の血が流れた初の天皇

念願が叶うも、既に不比等は他界

9年後の養老8年(724)、ついに首皇子は聖武天皇として即位した。
不比等はその4年前に死去していたので、聖武天皇の誕生をその目で見ることはなかった。
しかし、不比等の敷いた構想は盤石で、即位は問題なく行われたのである。

かつての蘇我氏と同じ方法で躍進した藤原氏

聖武天皇を不比等やその後継者たちが重視したのは、彼に藤原氏の血が流れていたからだ。かつての蘇我氏のように、天皇との血の結びつきが藤原氏の繁栄を約束したのである。 しかし、それは藤原氏にとって、弱点にもなっていた。

聖武の弱点、皇族と皇族の子ではなかったこと

当時、重視されたのは血統だ。だから天皇になるには、両親ともに皇族であることが望ましい。しかし、聖武の生母は藤原氏の出身だった。聖武の天皇としての正統性に、疑問符がつくことになる。もちろん、過去に皇族以外の生母を持つ天皇はいたが、両親とも皇族の皇子がほかにいたら、聖武は天皇になれなかったかもしれない。

が、聖武にはライバル皇子がいなかった

当時、文武天皇には皇女の妻がなく、当然、皇女を生母とする皇子がいなかった。だから、藤原氏出身の宮子の身分が、聖武の即位を妨げることはなかったのである。

聖武の一強態勢は不比等が仕組んだもの?

それにしてもなぜ、文武天皇には皇女の妻がいなかったのか。もしかすると、聖武天皇を即位させるために、不比等が企んだことであったのかもしれない。

“皇族以外の血が混ざっている”ことが聖武系の弱点に

聖武天皇の血筋に疑問符がついても、即位さえしてしまえば問題はない。しかし、この先、皇位継承問題が勃発すれば、藤原氏の血が流れていることが、聖武の皇子たちにとって不利に働かないとも限らなかった。

長屋王の血統が藤原氏の脅威に

父方系は天武、母方系は天智

藤原氏の脅威となった長屋王の出自とは。不比等の息子たちにとって、聖武天皇以上の血統を持つ者は脅威だった。それが長屋王である。
父方の祖父は天武天皇。母方の祖父は天智天皇。どちらも多大な影響力をもつ皇族であり、血統の点で聖武を凌いでいた。

不比等の官位をあっさり抜いてしまう長屋王

官位も高く、不比等が12年務めた右大臣の後任であり、聖武の即位と同時に左大臣へと昇進している。
不比等がたどり着けなかった官位(『続日本紀』によれば、死後、不比等には太政大臣が追贈された)を手に入れてしまった人物だ。

長屋王も藤原氏を敵視する

左大臣となった長屋王は、さっそく反藤原の行動に出る。
聖武天皇が即位すると、天皇は生母・藤原宮子に大夫人の称号を贈ろうとしたが、長屋王はこれにかみついたのだ。

政争が激化、やがて長屋王が滅ぼされる

「大宝律令」の規定によれば、宮子は皇太夫人であり、大夫人はおかしいという主張だった。
筋論であり、聖武天皇は仕方なく、口に出していうときは「大御祖」、文字で書くときは「皇太夫人」とすると妥協した。
聖武とその背後にいる藤原氏にとっては、手痛い政治的敗北だ。
長屋王と彼が代表する皇親(天皇の子や孫)勢力と、藤原氏の対立が、次第に明らかになっていった。
しかしこの後、長屋王は藤原氏との政争に敗れ、滅ぶこととなる。

長屋王の変〜藤原氏の謀略

長屋王が国家転覆を諮っている、という讒言

神亀6年(729)2月10日、漆部造君足と中臣宮処連東人という二人の下級官人が「長屋王は左道という妖術でひそかに国家転覆を図っている」と当局に届け出たと、『続日本紀』は伝えている。

長屋王宅が包囲、糾問がはじまる

そこからの展開は早い。まず、朝廷はその日のうちに、畿内の主要な関所を閉鎖。さらに宮の警護を担任する六衛府の兵が、長屋王宅を包囲した。
11日、中納言・藤原武智麻呂のほか数名が、長屋王宅に赴いて事実関係を糾問。

長屋王と后が自害し果てる

12日、長屋王、室の吉備内親王、皇子4人が自殺した。
そのほかの邸内にいた人間も拘束された。
13日、長屋王と吉備内親王の遺体が生駒山に葬られた。
17日、そのほかの関係者の処分が行われた。

讒言の精査などは行わず短時間で始末された

長屋王はこのとき左大臣、太政大臣は空席であり、最高の高官であった。
疑惑があるのならもっと時間をかけて事実関係を調べそうなものだが、そうはならず、あっという間に事件は片づき、長屋王はまるで庶民の罪人のように、短時間で始末された。
これが長屋王の変である。

長屋王の息子でも、不比等の血筋は助けられた

なお、長屋王の息子のうち、安宿王、黄文王、山背王の3人は助けられた。
彼らの生母が不比等の娘だったからだ。

藤原氏の謀略であると当時から常識だった

長屋王の変には後日談がある。
変から9年経ったある日、密告した東人が長屋王の家来だった大伴小虫に斬殺された。東人による長屋王に関する密告は実は誣告(他人への刑罰や懲戒を目的に、嘘を申し立てること)で、そのことを小虫に恨まれ、斬られたと『続日本紀』には記されている。
このことから、長屋王の変が藤原氏の謀略だったことは、官人たちの間では常識になっていたと思われる。
『続日本紀』は藤原氏が権力を持っていた平安時代初期に編纂されている。当然、藤原氏の悪事を暴露できるはずはなかったが、長屋王の変の真相は、隠し立てするようなことでもなかったのである。

主導権は再び藤原氏の手に

藤原氏の朝廷支配の始まり

天平元年(729)8月、光明子は皇后になった。
政治(朝廷)の実権は再び藤原氏に戻り、藤原四子はそのまま藤原四家の祖となった。

藤原北家が抜きんでて繁栄

武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家である。
四家のち京家はまったく振るわず、南家と式家もあまり繁栄せず、結局、一人勝ちになったのは北家であった。

太平洋戦争時まで政権中枢に藤原氏が

平安時代に摂関政治を行ったのは北家であり、さらに時代が飛んだ江戸時代の幕末から昭和にかけて活躍した公家も、実は北家出身者が多い。
例えば、三条実美や岩倉具視、太平洋戦争中に首相を務めた近衛文麿らは皆、北家だ。
鎌倉時代以降、武家に政権を取られたとはいえ、房前の子孫が1000年以上も日本の政治を動かしていった。


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