橘氏

橘氏、四姓(源平藤橘)の一つ

橘氏は元明天皇から下賜された姓

県犬養三千代が橘氏の祖

橘氏は、日本において代表的な姓である「源平藤橘」の1つで、708年(和銅元年)、県犬養三千代(女官)が43代・元明天皇から橘宿禰姓を賜ったのが始まりである。
県犬養三千代は天武朝から命婦(従五位下以上の位階を有する女官、または官人の妻を示す称号)として宮中に仕え、30代・敏達天皇の末裔である美努王と結婚して葛城王、佐為王を生んだ。
後に藤原不比等の夫人となり、45代・聖武天皇の皇后となった光明子を生んだ。
41代・持統天皇など歴代女帝からの信頼も厚く、孫の軽皇子(後の42代・文武天皇)の乳母を務めたとされる。

橘氏の祖は女性

女性が女帝から姓を賜った

元明天皇も三千代を信任した女帝の1人で、即位の大嘗祭の宴で橘姓を下賜した。
このとき、女帝は盃の中に橘の実を浮かべ、「橘は菓子(果物)の長上にして人の好む所なり」と言ったという。
ただし、三千代は改姓後も県犬養氏に属したとされ、娘の光明子だけでなく、県犬養氏の娘である広刀自も聖武天皇に嫁がせている。
夫の不比等の死後、721年(養老5年)に正三位に叙せられた。
元明天皇が危篤に陥った際に出家し、733年(天平5年)に亡くなった。

橘氏といえば「橘諸兄」

その3年後、三千代の子である葛城王と佐為王が奏上し、母の姓である橘姓を継承して橘諸兄(葛城王)、橘佐為(佐為王)と称した。
元明天皇の娘である元正太上天皇からは「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」という祝歌を賜った。
だが翌年の737年(天平9年)、佐為は天然痘で亡くなった。

諸兄が右大臣に

朝政を牛耳っていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)も天然痘で亡くなり、参議の諸兄が太政官の中心的存在となった。
738年(天平10年)には諸兄は右大臣に任じられ、玄ムや吉備真備を起用して朝政を主導した。
これに不満を抱く宇合の子・藤原広嗣が九州で反乱を起こしたが、官軍によって鎮圧された。

遷都先にまで諸兄の意向が影響

恭仁京に遷都

同年、聖武天皇は山背国相楽郡に恭仁宮を置いて遷都する。
諸兄の本拠地に近いことから、彼の意向があったと考えられる。
743年(天平15年)には左大臣に昇進し、749年(天平勝宝元年)には正一位まで上り詰めた。

橘氏の没落

藤原氏が台頭してくる

諸兄が酒の場でやらかす

しかし、藤原仲麻呂が台頭すると次第に権勢が衰えていく。
755年(天平勝宝7年)には酒席で聖武上皇に対する無礼な発言があり、翌年2月に政界を引退する。
そして757年(天平勝宝9年)年1月、諸兄は失意のうちに亡くなった。

橘奈良麻呂の乱

諸兄の死後、子の奈良麻呂は勢力を伸ばす藤原仲麻呂と対立
同志と共に仲麻呂を除こうと画策するが、山背王(長屋王の子)の密告で発覚する。
奈良麻呂は逮捕され、拷問を受けて獄死した。

広岡姓に改姓

奈良麻呂の死後、聖武天皇夫人の橘古那可智などが広岡姓に改姓した。
橘氏の者が太政官(公卿)に名を連ねることもなかったが、奈良麻呂の孫の嘉智子が52代・嵯峨天皇の皇后となり、再び飛躍の機会を得た。
822年(弘仁13年)、橘常主が約70年ぶりの橘氏出身の公卿となった。

天皇の外戚の地位を得る

外戚となり藤原氏から警戒される

嘉智子が生んだ正良親王が54代・仁明天皇として即位すると、橘氏は天皇の外戚の地位を得た
9世紀半ばから10世紀後半にかけて、橘氏は橘広相、橘好古など、7人の公卿を輩出している。
しかし、台頭したことで藤原氏から警戒され、しばしば排斥の対象になった。

承和の変、逮捕される

842年(承和9年)には嵯峨天皇、弘法大師(空海)と並び「三筆」と称される橘逸勢が逮捕され、配流途中で亡くなった。

完全に没落してしまう

地方の土着武士に

平安時代中期以降は中下流の貴族となり、地方に土着して武士化する者もいた。
藤原純友の乱を鎮圧するために九州へ下向した橘公頼の三男・敏通は蒲池の領主となり、蒲池氏に続いている。
中央では橘好古の孫・則隆の子孫が嫡流として続き、橘氏で唯一の堂上家(公卿に家柄)となった。
後に薄家を名乗ったが、1585年(天正13年)に絶家した。

楠木正成は橘氏

鎌倉幕府の打倒で一躍名を知らしめた楠木正成は、本姓を橘氏と称している。
『太平記』などの軍記物でも、橘諸兄の後裔として紹介されている。
正成の子・正儀は南朝で参議に昇任し、399年ぶりの橘氏出身の公卿となった。


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