鎖国中に開かれた異文化交流の道、長崎街道。
長崎街道は、現在の長崎県長崎市に今も残る出島と、北九州の小倉を繋ぐ道であった。
長崎街道は、長崎から小倉までを結んだ街道である。
九州は大陸と近く、古来から異文化交流が盛んであった。
江戸時代になると鎖国体制が敷かれ、南蛮船の来航が長崎に限定されると、長崎街道は大陸からの貿易品や文化、ときには異国の珍しい動物などを江戸をへと運ぶ重要な街道となった。
長崎街道は、田代宿(佐賀県鳥栖市)からは鹿児島へ向かう薩摩街道、佐賀宿(佐賀県佐賀市)と牛津宿(佐賀県小城市)で分かれて唐津宿へ向かう唐津街道などが繋がっている。
これらの道を通って人やモノだけでなく異文化の情報が行き交い、新しい価値観や思想が多くの人へと伝わっていったのである。
長崎街道は別名「シュガーロード」と呼ばれていた。
主要な貿易品の一つで、当時大量に輸入された砂糖は日本では大変貴重な物であった。
江戸までの道中、街道沿いの地域では砂糖を使った甘い菓子が造られるようになり、今でも伝統菓子として残っている。
長崎には貿易を許されていた国から多くの交易品や献上品が江戸へと運ばれ、異文化が広まっていった。
江戸時代、鎖国をしていた約220年間、交易を許されていた長崎は貿易の拠点として発展していった。
主な輸入品は白糸、香辛料、羅紗(ラシャ:毛織物の一種)、砂糖、ガラス製品などであった。
外国との交易が許されていた長崎だが、来航した外国人は出島と呼ばれる人工島での暮らしを余儀なくされ、自由な行動を制限されていた。
出島は、長崎の海浜に造られた約15,000平方メートルの扇形の人工島で、長期的に人が住むには狭かった。
当時交易を許されていた外交人の居住区で、無許可の出入りは禁じられていた。
当初、出島は貿易をしていたポルトガル人を収容する為の島であったが、島原の乱が起こると幕府はポルトガル人を日本から追放する。
その後、オランダのみが貿易を許され、西洋との窓は唯一出島だけとなり、鎖国体制が完成する事となった。
※オランダはプロテスタントの国で、政教分離が出来上がっていた為といわれる
オランダ貿易の主な輸入品は、生糸や毛織物、鮫皮、砂糖などであった。
天文18(1549)年にフランシスコ・ザビエルの来日以来、日本ではキリスト教(カトリック)が広まるが、徳川家康は禁教令を敷きキリシタンを取り締まった。
とくに長崎や熊本のキリスト信仰は根強く、天草四郎を大将とする日本最大の一揆、島原の乱が勃発した。
島原の乱は反乱軍と鎮圧する九州の諸大名で戦いは入り乱れて凄まじいモノであった。
幕府軍の増援によって乱は鎮圧され、その後、本格的なキリスト教への弾圧が始まった。