貿易都市長崎の誕生

貿易都市長崎の誕生

戦国時代の長崎はイエズス会に寄進されたキリスト教の街であったが、豊臣秀吉徳川家康により天領(直轄地)とされた。
以降、江戸時代の長崎は特殊な町となった。出島を通じて国際貿易の玄関口となり、外国貿易で財をなした町人が力をつけ、自治組織により事実上、町を支配した。
1570年に開港した長崎はその特殊性によって例外的な発展を見せ、17世紀には人口5万人に達した。
>> 小さな漁村だった長崎

長崎はキリスト教と商人の街だった

大村純忠がイエズス会に寄進、外国貿易が盛んに

九州を平定した豊臣秀吉は、外国との貿易に深い関心を寄せ、貿易による利益を独占するため、朱印船による貿易政策を行った。
外国貿易の中心は長崎だったが、ここは大村純忠が天正8(1580)年にイエズス会に寄進した土地で、長崎はキリスト教信者の町だった。
外国との貿易が盛んに行われていたため、利益を得ようとする商人らが各地から長崎に集まった。

秀吉から、長崎は天領とされる

秀吉がキリスト教を禁止、長崎の地を没収する

秀吉は外国との貿易に深い関心を示したが、キリスト教の布教については厳しく禁止する
。秀吉は天正15(1587)年にバテレン追放令を発令、翌年には長崎の地を没収して直轄領(天領)とした。
そして、この長崎が直轄領という扱いは、江戸時代、徳川幕府にも引き継がれる。

長崎は貿易港として繁栄への道を進む

日本国内から移住者が多く集まる

キリスト教徒への取り締まりは年々厳しくなっていったが、長崎は貿易港として繁栄への道を歩んでいく。
長崎は貿易商人やキリスト教信者、亡命してきた武士など、各地域からの移住者が集団となって町を形成していった。

「内町」と「外町」、税制によって区別された

開港当初、島原町、大村町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、文知町の6町が造成され、貿易拡大とともに市街地も拡張していった。
6町は直轄領として地租(土地にかかる税)が免除されていたため「内町」と呼ばれ、地租免除外の地域は「外町」と呼ばれた。
1592年(文禄元年)には内町が23町、外町が43町にまで拡大する(最終的には内町26町、外町54町)。

いまも残る当時の町名

町名は移住者の出身地域の地名のほか、建物や職業の名前に沿って付けられ、一部の町名は現在も残っている(五島町、出島町、銅座町御船蔵町など)。

長崎独自の行政組織

長崎の繁栄を支えたのは、長崎独自の行政組織である。
行政は事実上、町人の自治組織によって動いていた。

頭人・町年寄

中心となる町年寄は、6町のリーダーだった高木勘右衛門(高木作右衛門)、高島了悦、後藤惣太郎、町田宗賀の4人からはじまり、当初は頭人と呼ばれていた。
1592年(文禄元年)に唐津城主・寺沢広高が長崎奉行に任命されると、頭人は町年寄と改められ、内町を支配するようになる。
外町の支配は同じく町人から選出された長崎代官が行った。

長崎奉行の仕事

長崎奉行の仕事は長崎の支配貿易、外交、司法、長崎の警護、キリシタンの取り締まりなど多岐にわたり、円滑に業務を進めるためには町年寄ら町人の協力が不可欠だった。

地役人

町年寄、長崎代官の下には年行司、乙名、組頭など補佐役、通訳であるオランダ通詞と唐通事などが置かれ、地役人と呼ばれた。
地役人の数は1838年(天保9年)には2069人におよび、じつに全町人13人に1人の割合だったという。
地役人の多さ、役割の大きさはほかの都市では考えられない規模であった。

船宿

幕府も貿易都市・長崎を特別視し、町人の生活維持のために配慮している。
そのひとつに船宿の仕事がある。
船宿は外国人に貿易の仲介を行っていたが、時代が下ってからは町単位で貿易業を引き受ける仕組みとなり、船宿の仲介料の一部は町人に配分された。

家持ち商人と借家人

町人への貿易利潤の配分として代表的なのが、家持ち商人への「箇所銀」と借家人への「竈銀」だ。
家持ち商人は貿易の会計や商品の検品などの仕事を受け、借家人は荷役や運搬などを行う。
家持ちと借家人の貧富の差は歴然だった。
しかし、借家人の仕事も重視し、貿易銀が還元される仕組みで市民に配分されたのだ。

17世紀には人口5万人

長崎全体が貿易により潤い発展し続けた結果、人口は17世紀には5万人と推定され、江戸、大坂、京都、名古屋に次ぐ大都市に成長した。

当時の長崎の有力者たち

家柄よりも実力が重視された長崎でチャンスをつかみ、一商人から町の支配者にまで上り詰めた者もいる。

村山等安〜秀吉に見出されたキリシタン

ひとりは、豊臣秀吉に見いだされ長崎代官に抜擢された村山等安である。
等安については出身地が諸説あるが、若くして長崎に移住し商人として財をなした。
秀吉の朝鮮出兵の際に佐賀の名護屋城に赴き、秀吉から洗礼名「アントン」を「トゥアン」、すなわち等安と改名されたといわれる。
秀吉に気に入られた等安は長崎代官に任命され、外町を支配。
徳川家康の時代になってからも外町のリーダーとして富と権力を手にした。
しかし、次に記載する末次平蔵政直の登場により等安は失脚する。

末次平蔵政直〜貿易で大名に匹敵する富を得た

末次平蔵政直の父は、博多出身の豪商であった。
政直は朱印船貿易で成功、貿易の斡旋や利貸しなど多角的な活動で巨万の富を築いた。
「大坂夏の陣」で豊臣氏に通じていたなどの疑いで等安を訴え失脚させたのち、長崎代官に就任。
その後4代目まで続いた末次家だが、1676年(延宝4)、茂朝のときに密貿易が発覚して失脚、隠岐に流罪となった。
没収された財産は60万石の大名に匹敵するものだったという。

高木彦右衛門貞親

長崎喧嘩(深堀事件)で殺害されてしまった

町年寄筆頭・高木彦右衛門貞親も実力者のひとりで、高木は苗字帯刀を許され、幕府から唐蘭貿易の総元締に任命された人物であった。
町年寄の立場を離れ、1697年(元禄10年)から約半年間江戸にて幕府のもとに出頭し、ついには将軍に礼拝した。
扶持米80俵を江戸浅草蔵米で支給される勘定直属の役人となり、外国貿易と幕府の運上事務を統轄した。
そんな高木の本家・高木作右衛門は、一時期16万石を管轄するほどで最高の町人といわれた。
ところが1700年(元禄13)、長崎市内に屋敷があった佐賀藩の重臣・鍋島官左右衛門の家臣が高木彦右衛門の中間と些細なことで争い、鍋島氏の家臣が高木邸に討ち入りをする「長崎喧嘩(深堀事件)」といわれる事件が起きる。
彦右衛門も殺された大事件だが、その処理は高木氏に対して厳しく、武士の鍋島氏に好意的だった。
長崎は町人の自治が行われた町だがあくまで幕府の天領であり、幕府が派遣した長崎奉行が町を統轄し、町人を野放図に委ねたわけではないことを示す事件であった。

小さな漁村だった長崎

ポルトガル船の寄港地として急速に発達

一時期、イエズス会の領地に

小さな漁村だったが、ポルトガル船寄港地になり栄えた長崎。
一時期、イエズス会の領地になった歴史の裏には、弱小戦国大名として生き残りをかけた大村純忠の策があった。

平戸松浦氏はキリスト教を拒絶した

長崎が寄港地になる以前、ポルトガル船はもともと平戸に入港していた。
しかし平戸領主の松浦氏は、貿易は歓迎する一方で、キリスト教布教に反対した。
1561年(永禄4年)、ポルトガル商人と平戸商人の間で生糸の取引を巡る口論が殺傷事件に発展。
松浦氏の家臣も加わり、ポルトガル船長を含む14人が殺害される「宮ノ前事件」が発生する。
松浦氏との関係が悪化したポルトガル船は、平戸に代わる港を探し始めた。

イエズス会が大村純忠に接近

そこでイエズス会は大村領の横瀬浦を密かに測量し、貿易港に適していることを発見。
同会は領主の大村純忠に接近して、開港と同時に布教の許しも得る。
純忠は島原の大名・有馬晴純の次男だったが、大村氏に養子に出され家督を継いだため、権力基盤が弱く、周辺と対立が続いて脅威にさらされていた。
純忠はポルトガル船を招致することで、貿易利益を得て経済基盤を強化し、政治権力の安定化を図る狙いがあったのだ。

大村純忠がキリシタン大名に

純忠が過激化し、反発にあう

1562年(永禄5年)、横瀬浦が開港し、翌年には純忠自身もイエズス会日本布教長のコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、ドン・バルトロメウとして日本初のキリシタン大名になる。
一方で、家臣や親族、領民の改宗を強すみさき引に進め、養父である大村純前の位牌を焼き捨てるなどの過激な行動にも出た。
こうした行為が仏教徒の家臣から反感を買い、かねて純忠打倒の機会を狙っていた武雄領主の後藤貴明と反純忠派の家臣による謀反が勃発。
純忠はなんとか難を逃れるも、その騒動は横瀬浦へ飛び火し、開港からわずか1年余りで焼失してしまう。

イエズス会が長崎を発見

やむなくポルトガル船は再び平戸に入港するが、その後も布教がしやすい貿易港を求め南下していく。
次に入港した大村領の福田港は、外洋に面しているため貿易港には適していなかったこと、松浦氏による襲撃事件があったことなどから撤退。
1567年(永禄10)には布教が進んでいた有馬氏領内の口之津港に入港するが、ポルトガル船を自領内に呼び戻そうと目論む純忠の働きかけもあり、宣教師たちは再び大村領内で港の調査を始める。
そこで発見されたのが、三方を高い山に囲まれ水深が深い天然の良港、長崎であった。

1570年に長崎が開港

長崎は大村純忠の家臣であり娘婿、そしてキリシタンでもある長崎甚左衛門純景の領地だった。
1570年(元亀元年)に開港すると、海に突き出した長い岬に最初の6町が造られ、各地から逃れたキリシタンが移住。
ポルトガル船が定期的に入港するようになると、長崎は急速に発展していく。

教会領になった長崎

外敵に脅かされ、ポルトガル船を味方につけたほうが安心だった

一方、純忠は強大な勢力を誇る佐賀の龍造寺氏をはじめ、領内にたびたび侵入する西郷、深堀両氏、口之津港にポルトガル船を呼び込もうと画策する有馬氏など、周辺諸国との摩擦に苦悩していた。
長崎の権益を守るため一計を案じた純忠は、イエズス会巡察使のヴァリニャーノに長崎と茂木の寄進を申し出る。
ポルトガル船を味方につけることで、侵略を防ごうと考えたのだ。

1580年に長崎がイエズス会領に

寄進の条件は、同会に長崎の司法・行政権と船の停泊料を与える代わりに、関税のみ大村氏が徴収するというもの(諸説あり)。
同会の基本方針では所領の受領は禁止だったこともあり、ヴァリニャーノは苦慮したが、協議の末これを受け入れ、1580年(天正8年)に長崎はイエズス会領になった。
寄進後、キリスト教の布教はさらに進み、1582年(天正10年)にはローマに天正遣欧使節が送られる。
イエズス会による統治は、豊臣秀吉が長崎を直轄地にする1588年(天正16年)まで続いた。


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